五つの心
「講義を始めるか」と理玖は言った。
それを待っていた。
「三角形には、中心がある。それも一個じゃない。お前が見てる七つの光——それらは全部、名前のついた点だ」
新しいレポート用紙。黒で大きめの三角形。
「一つ目は、指の上でつり合うやつ。これが重心だ」
「俺も、そこを重心って呼んでる」
「名前通りの実感があるだろう。そこは実際に物の重みがかかる点だからな」
「平べったくすると外に逃げるやつは」
「外心と垂心。そいつらは兄弟みたいなもんだ」
理玖は赤に持ち替えて、三角形の三つの頂点を通る円を、ふわりと描いた。
「外心は三頂点から等距離にある。だから、そこを中心に円を描くと、頂点を全部拾うんだ。外接circleだ」
出た。こいつは興が乗ると、サークルだけ英語になる。高校時代からの奇病で、どういうわけか本人に自覚はない。
「英語になってたぞ、今」
「なってない。垂心のほうは、頂点から向かいの辺へ垂線を下ろした交点だ」
「こいつもどこかから等距離なのか」
「いや。だが先ほどの、外接円と関りが深い」
理玖はレポート用紙を持ち上げると、三角形の一辺にそって、きっちり折った。
「透かしてみ」
店の天井の明かりにかざしてみた。
折り返された垂心の黒い点が、裏から透けて、赤い円の線の上に、ぴたりと乗っていた。
「垂心は、辺で折り返された外接円上にある。どこの辺で折っても、そうなる」
「すごいな。なんでだ、これ」
「もちろん証明はできるが、今は要らないだろう……面白いだろ」
「面白い」
俺は紙を天井の光にかざしながら言った。
「外の三つは傍心という。辺を延長してやると、三角形の外側から三直線に接する円が、こんなふうに三つ描ける。その中心たちだ」
理玖は円を三つ描き足した。
「本人の輪郭の外にあるのに、本人の三角形の一部。外にいるのが仕事だ」
外にいるのが仕事。病室の母さんを思い出す。たしかに七つのうちひとつは、体の外、廊下にぽつんと浮いていた。
「内側に一個、まだ説明されてないのがある」
「三辺から同じ距離にある、内心だ。内側に収まる円の中心」
「これは半歩ずれてるやつだな」
理玖のペンが止まった。
「なんだって」
「重心と外心と垂心は、縦に一列だ。でも内心だけ、列から外れてる」
「いい観察じゃないか、葛西」
理玖は三つの点に青い印をつけ、そのまま一本の線で貫いた。
「この三つは、どんな三角形でも一直線に並ぶ。オイラー線という。内心は普通、ここには乗らない」
重心、外心、垂心、内心。それに三つの傍心。傍心を一種類と数えて、昔から五心と呼ぶ。
三角形の、五つの心。七つの点。
二か月間、ただ光っていたものに、一斉に名前が配られた。点呼を取られた新入生のように、七つが急にそれぞれの名前を持ち始めた。
理玖は、細長い三角形と、平たい三角形と、正三角形を並べた。それぞれに三つの点を打ち、線を引く。
「形が変われば、点の離れ方も線の長さも変わる。だが完全な正三角形では――」
最後の三角形の真ん中に、点が一つ。
「重心も外心も垂心も、内心まで、ここに重なる。線は消える」
「……確かに」
「こうして見ると、オイラー線は、正三角形からのずれの記録とも言える」
オイラー線は、ずれの記録。俺は二か月ぶんの観察を思い返した。
母さんの、疲れていた日に上が傾いだライン。権藤さんが、六十年の勲章だと笑った曲尺。遠野さんの、しなる若枝。
あれらも記録なのだろうか。その人がどう生き、どうずれて、それでもどう立っているかの。
「背骨みたいだな」と、俺は言った。
理玖は三秒黙った。
「悪くない比喩だが、正確ではない。オイラー線は直線だ。曲がったり、折れたりはしない」
「権藤さんのは、かくんと折れてた」
「なら、お前が人間に見ているのは、オイラー線に似た別の何かだ。いまの名前は数学から借りているだけだと思っておけ。俺たちはまだ、何一つ証明してない」
「なあ。ずれてるのって、駄目なことなのか」
訊いてから、少し後悔した。
答えによっては、母さんや権藤さんの線は、駄目の記録になってしまう。
「三角形に、良いも悪いもない。あるのは形だけだ。細長い三角形は細長い仕事に、平たい三角形は平たい仕事に向いてる」
理玖はペンの尻で、正三角形の真ん中をこつ、と叩いた。
「正三角形は、まあ美しいが、単に美しいだけとも言える。もっとも、それがいちばん大切だという意見はあるが」
「なぜ、人間に三角形と同じような点があるんだろう」
「分からない。人体を力学的に近似すると、両肩と骨盤で三角形になる、みたいな説明は可能だろう。だが、雑な説明はときに嘘より悪い。保留しとこう。数学ではこれを未解決問題と呼ぶ」
「理玖。さっき、俺を最高だって言っただろ」
「ああ。言った」
「俺には、よく分からないんだ。この目、何かの役に立つのか」
「役に立つとか、立たんとかじゃない。さっき、美しいことがいちばん大切だという意見があると言ったろ」
「うん」
「俺も同意する」
理玖は椅子の背にもたれた。
「三角形は、直線三本で囲んだだけの形だ。たったそれだけの図形に、五つも心がある。それも、ばらばらの箇条書きじゃない。辺で折り返せば外接円の上に乗る垂心。三つの点を一本に貫くオイラー線。ほかにも、関係はいくらでも潜んでる」
テーブルの端には、さっきの紙がまだ広げたままだった。
どの三角形にも、七つずつ点いている。
「俺は、奇跡だと思ってる。考えれば考えるほど、これほどの秘密を、簡単な形のなかに詰めて、誰にでも見える場所に置きっぱなしにしてる世界を——俺は、信じずにはいられない」
理玖の重心の光が、また、少し前へ出ていた。
さっき、俺を最高だと言ったときと、同じ位置だ。
「そして、お前は、その続きを、人間のなかに見てる。それが最高じゃなくて、何なんだ」
「……なんか、壮大だな」
「数学が好きなやつなら、たぶん分かる」
二か月前、俺の世界は、顔を失った。
理玖が信用しているのは、その同じ世界だ。
俺にはまだ、世界を信じるとまでは言えない。
だが、目の前に灯る七つなら、信じてもよさそうだった。
※
「お前、病室でノートを作っているっていったな」と理玖は訊いた。
「人名鑑な」
「それを続けろ。見た全員ぶんだ。名前と光の並びを記録しろ」
「まあ、言われなくても勝手にやるつもりだけど」
「増えたら教えてくれ。いいか。三角形の心は、二千年ぶん調べ尽くされてる。だが人間のを調べているやつはいない。数が集まれば、人間にしか出ない規則が見つかるかも知れない。三角形には出なくて、人間にだけ出る規則だ」
理玖は四色ボールペンを、かちり、と納めた。
「それはたぶん、数学と同じくらい面白い」
こいつが数学の隣に並べるものが、この世にあるとは思っていなかった。
会計は、一円単位の割り勘だった。誤差のない、厳密な友情と言っておこう。
「理玖。正直に言うが、今日の話は俺には難しかったぞ」
「知ってる」
「知ってて喋ってたのか」
「まあな。今度の検証では、積み木でも持っていくさ」
「俺は赤ちゃんか」
「意外と馬鹿にしたもんでもないぞ。やれば分かる」
外に出ると、九月の夜の、いい風が吹いていた。
「大学はどうするんだ」と理玖が言った。「後期、あと十日ほどだが」
「行くよ。行くけど……うちの大学って、学生何人いるんだっけ」
「学部だけで約六千」
六千か。俺は夜空を見上げた。顔のない六千人。
名前も知らない六千の三角形がそこにある。




