↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/58

五つの心

「講義を始めるか」と理玖は言った。

 それを待っていた。

「三角形には、中心がある。それも一個じゃない。お前が見てる七つの光——それらは全部、名前のついた点だ」


 新しいレポート用紙。黒で大きめの三角形。

「一つ目は、指の上でつり合うやつ。これが重心だ」

「俺も、そこを重心って呼んでる」

「名前通りの実感があるだろう。そこは実際に物の重みがかかる点だからな」


「平べったくすると外に逃げるやつは」

「外心と垂心。そいつらは兄弟みたいなもんだ」

 理玖は赤に持ち替えて、三角形の三つの頂点を通る円を、ふわりと描いた。

「外心は三頂点から等距離にある。だから、そこを中心に円を描くと、頂点を全部拾うんだ。外接circleだ」

 出た。こいつは興が乗ると、サークルだけ英語になる。高校時代からの奇病で、どういうわけか本人に自覚はない。

「英語になってたぞ、今」

「なってない。垂心のほうは、頂点から向かいの辺へ垂線を下ろした交点だ」

「こいつもどこかから等距離なのか」

「いや。だが先ほどの、外接円と関りが深い」

 理玖はレポート用紙を持ち上げると、三角形の一辺にそって、きっちり折った。

「透かしてみ」

 店の天井の明かりにかざしてみた。

 折り返された垂心の黒い点が、裏から透けて、赤い円の線の上に、ぴたりと乗っていた。

「垂心は、辺で折り返された外接円上にある。どこの辺で折っても、そうなる」

「すごいな。なんでだ、これ」

「もちろん証明はできるが、今は要らないだろう……面白いだろ」

「面白い」

 俺は紙を天井の光にかざしながら言った。


「外の三つは傍心という。辺を延長してやると、三角形の外側から三直線に接する円が、こんなふうに三つ描ける。その中心たちだ」

 理玖は円を三つ描き足した。

「本人の輪郭の外にあるのに、本人の三角形の一部。外にいるのが仕事だ」

 外にいるのが仕事。病室の母さんを思い出す。たしかに七つのうちひとつは、体の外、廊下にぽつんと浮いていた。


「内側に一個、まだ説明されてないのがある」

「三辺から同じ距離にある、内心だ。内側に収まる円の中心」

「これは半歩ずれてるやつだな」

 理玖のペンが止まった。

「なんだって」

「重心と外心と垂心は、縦に一列だ。でも内心だけ、列から外れてる」

「いい観察じゃないか、葛西」


 理玖は三つの点に青い印をつけ、そのまま一本の線で貫いた。

「この三つは、どんな三角形でも一直線に並ぶ。オイラー線という。内心は普通、ここには乗らない」


 重心、外心、垂心、内心。それに三つの傍心。傍心を一種類と数えて、昔から五心と呼ぶ。

 三角形の、五つの心《しん》。七つの点。

 二か月間、ただ光っていたものに、一斉に名前が配られた。点呼を取られた新入生のように、七つが急にそれぞれの名前を持ち始めた。


 理玖は、細長い三角形と、平たい三角形と、正三角形を並べた。それぞれに三つの点を打ち、線を引く。

「形が変われば、点の離れ方も線の長さも変わる。だが完全な正三角形では――」

 最後の三角形の真ん中に、点が一つ。

「重心も外心も垂心も、内心まで、ここに重なる。線は消える」

「……確かに」

「こうして見ると、オイラー線は、正三角形からのずれの記録とも言える」


 オイラー線は、ずれの記録。俺は二か月ぶんの観察を思い返した。

 母さんの、疲れていた日に上が傾(かし)いだライン。権藤さんが、六十年の勲章だと笑った曲尺(かねじゃく)。遠野さんの、しなる若枝。

 あれらも記録なのだろうか。その人がどう生き、どうずれて、それでもどう立っているかの。

「背骨みたいだな」と、俺は言った。

 理玖は三秒黙った。

「悪くない比喩だが、正確ではない。オイラー線は直線だ。曲がったり、折れたりはしない」

「権藤さんのは、かくんと折れてた」

「なら、お前が人間に見ているのは、オイラー線に似た別の何かだ。いまの名前は数学から借りているだけだと思っておけ。俺たちはまだ、何一つ証明してない」


「なあ。ずれてるのって、駄目なことなのか」

 訊いてから、少し後悔した。

 答えによっては、母さんや権藤さんの線は、駄目の記録になってしまう。

「三角形に、良いも悪いもない。あるのは形だけだ。細長い三角形は細長い仕事に、平たい三角形は平たい仕事に向いてる」

 理玖はペンの尻で、正三角形の真ん中をこつ、と叩いた。

「正三角形は、まあ美しいが、単に美しいだけとも言える。もっとも、それがいちばん大切だという意見はあるが」


「なぜ、人間に三角形と同じような点があるんだろう」

「分からない。人体を力学的に近似すると、両肩と骨盤で三角形になる、みたいな説明は可能だろう。だが、雑な説明はときに嘘より悪い。保留しとこう。数学ではこれを未解決問題と呼ぶ」


「理玖。さっき、俺を最高だって言っただろ」

「ああ。言った」

「俺には、よく分からないんだ。この目、何かの役に立つのか」

「役に立つとか、立たんとかじゃない。さっき、美しいことがいちばん大切だという意見があると言ったろ」

「うん」

「俺も同意する」

 理玖は椅子の背にもたれた。

「三角形は、直線三本で囲んだだけの形だ。たったそれだけの図形に、五つも心がある。それも、ばらばらの箇条書きじゃない。辺で折り返せば外接円の上に乗る垂心。三つの点を一本に貫くオイラー線。ほかにも、関係はいくらでも潜んでる」

 テーブルの端には、さっきの紙がまだ広げたままだった。

 どの三角形にも、七つずつ点(つ)いている。

「俺は、奇跡だと思ってる。考えれば考えるほど、これほどの秘密を、簡単な形のなかに詰めて、誰にでも見える場所に置きっぱなしにしてる世界を——俺は、信じずにはいられない」


 理玖の重心の光が、また、少し前へ出ていた。

 さっき、俺を最高だと言ったときと、同じ位置だ。


「そして、お前は、その続きを、人間のなかに見てる。それが最高じゃなくて、何なんだ」

「……なんか、壮大だな」

「数学が好きなやつなら、たぶん分かる」


 二か月前、俺の世界は、顔を失った。

 理玖が信用しているのは、その同じ世界だ。

 俺にはまだ、世界を信じるとまでは言えない。

 だが、目の前に灯る七つなら、信じてもよさそうだった。


  ※


「お前、病室でノートを作っているっていったな」と理玖は訊いた。

「人名鑑な」

「それを続けろ。見た全員ぶんだ。名前と光の並びを記録しろ」

「まあ、言われなくても勝手にやるつもりだけど」

「増えたら教えてくれ。いいか。三角形の心は、二千年ぶん調べ尽くされてる。だが人間のを調べているやつはいない。数が集まれば、人間にしか出ない規則が見つかるかも知れない。三角形には出なくて、人間にだけ出る規則だ」


 理玖は四色ボールペンを、かちり、と納めた。

「それはたぶん、数学と同じくらい面白い」

 こいつが数学の隣に並べるものが、この世にあるとは思っていなかった。


 会計は、一円単位の割り勘だった。誤差のない、厳密な友情と言っておこう。

「理玖。正直に言うが、今日の話は俺には難しかったぞ」

「知ってる」

「知ってて喋ってたのか」

「まあな。今度の検証では、積み木でも持っていくさ」

「俺は赤ちゃんか」

「意外と馬鹿にしたもんでもないぞ。やれば分かる」


 外に出ると、九月の夜の、いい風が吹いていた。

「大学はどうするんだ」と理玖が言った。「後期、あと十日ほどだが」

「行くよ。行くけど……うちの大学って、学生何人いるんだっけ」

「学部だけで約六千」

 六千か。俺は夜空を見上げた。顔のない六千人。

 名前も知らない六千の三角形がそこにある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。