傍心の夜
十月の始まりの夜だった。コンビニの帰り道。
レジ袋の中ではアイスが溶け始めている。
線路の高架下の駐輪場では、蛍光灯が一本、切れかけて明滅している。
その明滅が近づくにつれて、何やら声が聞こえてきた。
「だからぁ、連絡先だけって言ってんじゃん」
「……困ります。ほんとに」
困っている側の声に、何となく聞き覚えがある気がした。だが誰の声か、よく掴めない。知っているはずの声が、知らない高さで鳴っているような感じというか。
「急いでますから、そこ通してください」
「えー。そんなに急がなくていいじゃん、カノジョ。夜はこれからっしょ」
女の子一人、男三人。よくある構図で、よくない状況のようだ。
普段の俺なら考えにくいことだが、かすかな聞き覚えが、俺の足を声のほうへ向かわせていた。
※
普通なら、足がすくむ場面だと思う。俺が知っているはずの俺なら、目をそらして、通り過ぎる自分に言い訳を探しただろう。なにせ向こうは三人、全員俺よりでかい。
だが今の俺には、連中の、おそらくは凄みの効いているであろう顔が、見えない。
それが俺を、自分の想像以上に、勇敢……いや、無謀……あるいは鈍感にしていたようだ。全員、ただの、肌色ののっぺりだった。
代わりに見えるのは、三人ぶんの七つの光、計二十一個の点だけ。怖さの大部分は、顔がつくっていたのだと、このとき初めて知った。
「あの、すみません。その子、俺の連れなんで、その辺にしといてもらえませんか」俺は言った。
もちろん、出まかせである。連れかどうか、このときの俺には、まだ確定できていなかったのだ。声の主が誰であれ、連れということにしようという、雑な決意が先行していた。
「ああ?」一番大きい男が、振り向いた。
低い、砂利を噛むような声だ。これは怖かった。心臓が、嫌な跳ね方をした。前言撤回だ。顔なんか見えなくても怖いやつは怖いのだ。その怖さの三割くらいは、声でできているのだ。
でも、見えてしまった。男の姿勢は、どこか不自然だ。それを、一目で感じた。
男の重心は、肩を怒らせて胸を反らせているせいで、不自然に高く、前に寄っていた。喧嘩慣れした体、というより、喧嘩慣れして見せたい体。垂心はもう、体の輪郭の外、俺のほうへ飛び出しかけている。
図書館の地下二階、512番台の棚から借りた一冊はこう教えていた。「鈍角三角形の垂心は、三角形の外部にある」。つまりこいつは今、思いきり「鈍角三角形」だ。整っていない。
オイラー線——背骨に沿うはずの光の列は、酔っているのか苛立っているのか、ぐにゃりと折れ線になっていた。安物のハンガーを、無理やり伸ばしたみたいだった。
そして、傍心。体の外に浮かぶ三つの点のうちの一つが、男の右斜め前——ちょうど俺と男の間の空中で、誘うように、ゆらゆら揺れていた。
傍心は、外側で支える円の中心だ。体の外にあるのに、確かにその体の一部であるような点。理玖が、ファミレスで言っていた。外にいることが、仕事なんだ、と。つまり——そこを「借りれば」いいと俺は直感した。
距離が、三歩まで詰まった。砂利を踏む音が、いやに大きく聞こえた。
男の呼気に、酒の匂いが混ざっているのが分かる。
心臓はうるさかったが、頭のどこかは妙に静かなのを感じた。
その静かな部分が、ずっと点だけを見ていた。点は、嘘をつかない。人は顔を凄めても、傍心を凄むことはできない。
指先に、重さの偏りを支えた記憶が蘇っていた。重心をその下で支えれば、物体は止まる。なら、傍心へ導けば——体は、外へ転がるはずだ。
男の手が、俺の胸ぐらへ伸びてきた。不意をついた動きだったが、先に動いた点が教えてくれていた。俺はタイミングを合わせて半歩だけ斜めに出た。そして伸びてきた腕に手を添え、男の傍心が浮かんでいるあたりへ押した。
それほど力を込めたわけじゃなかったが——男は、飛んだ。
自分から飛び込み前転を失敗したみたいに、男は宙で半回転して、自転車の列に突っ込んだ。ドミノ倒しの派手な金属音が、高架に響き渡った。倒れた自転車の一台のライトが、衝撃で点いて暗がりの中、ちかちかと明滅した。
「……は?」と、残りの二人が言った。
「……は?」と、俺も内心で言った。押した本人が、一番驚いていた。あんなに軽いはずがなかろうと思った。押した感触が、ほとんど残らなかった。
二人目が、「てめっ」と掴みかかってきた。だがこっちは怒りで、重心が左足の真上に偏りきっている。ご丁寧に傍心が一つ、本人の左後ろの、地面すれすれに沈んでいた。掴みかかってきた手をそちらへ導いてやると、彼は勝手にバランスを崩して、地面と仲良くなった。受け身も知らない体が、畳じゃないところに落ちる音は、聞いていて気持ちのいいものではない。それきり、彼は起き上がってこなかった。
三人目は、俺と、伸びた二人とを見比べて、走って逃げた。三人のなかでは最も賢明な判断だったと思う。だが、俺自身も助かったような気持ちだった。正直、うまくいきすぎている気がしたのだ。
※
「あの……ありがとう、ございました」
女の子が言った。顔は、見えない。けれど、声で分かった。胸の奥の光が、よくしなる枝みたいに並んでいるのを見るより先に、声で、分かってしまった。
やはり、遠野美晴だった。
「……葛西くん、だよね? 今の、すごかった。合気道か何か、やってたの?」
「いや、あの……幾何学?」
「……え?」
「深い意味はないです。今のうちに帰ろう。送る」
そのとき、高架の柱の陰から、ゆっくりとした拍手が聞こえた。
背の高い人影が、立っていた。学生にしては落ち着いた、よく通る声で、その人は言った。
「いまの入り身と崩し、独学であれなら、大したものだ。——君、合気道をやってみる気はないか。私は八雲。この先の大学の、合気道部で師範代をしている。最初から最後まで、見せてもらった」
「見てたなら、助けてくださいよ」
「君が、自分で何とかしてしまうような気配があったのでね」八雲と名乗ったその人は、たぶん、笑った。声の角が、丸くなった。「それに、ああいう投げは久しぶりに見た。相手の中心を、外から導く投げだ。理屈で身につくものじゃない」
理屈です、とは言わないでおいた。正確には、幾何学です、とは。
「独学かな」と、八雲さんは訊いた。
「……独学、です」嘘ではなかった。教科書は、図書館の地下二階にあった。ただ、その教科書に載っていたのは、三角形の性質で、人間の投げ方は載っていないが。
「そうか」八雲さんは、それ以上は掘らなかった。
「私たちの道場は、大学裏手の旧文化会館だ。知っているかい、木造の。オンボロすぎて、上り下りするたびに階段が鳴く」と、八雲さんは続けた。
「あ、あそこの」答えたのは美晴だ。
「知っているかい」と八雲さん。
「そこで音楽研究会やってるんです、私」
「そうか。どうやら、ここで君たちに会ったのも何かの縁だね」彼はそういって、美晴から俺の方へと体を向けた。
そのとき、俺は気づいた。
この人の胸に点っている光は、ふつうではなかった。
四つの光が、ほとんど一点に、重なっている。並んでいる、というより、そこに一つだけ、静かに在る、という感じだった。
三角形の形が正三角形に近づくと、五心のうち内部にある四つの点は次第に統一されていく。生身の人間がそれと似た光を発しているのを、俺は初めて見た。ずれの記録が、ない。この人の何十年は、いったいどこに、記録されているのだろう。
「で、どうだい?合気道に興味は」
「考えておきます。前向きに」と、俺は言った。考えるまでもなく、心は動いていたのだが、即答するには、いろいろありすぎた夜だった。
※
帰り道、美晴は、よく喋った。喋り続けた。
さっきの男たちのこと、最近の物騒な噂のこと、まったく関係のないバイトの話。
声は、いつもより、半音高かった。
角を三つ曲がるころ、その声が、ようやく少しずつ、聞き慣れたいつもの高さへ降りてきた。
怖かったのだろうな、と思った。当然だ。俺も怖かった。俺はただ、男三人の顔が見えなかったから立っていられたし、戦うこともできた。だが彼女には、全部、見えていたのだ。凄む顔も、にやつく顔も。俺が見ずに済んだものを、全部。よく耐えられたものだ。
「ねえ。なんで、来てくれたの」と、角をひとつ曲がったところで、彼女は訊いた。
「たまたま通りかかっただけ。コンビニに行ってたんだ」俺は溶けたアイスの入った袋を、ちょっと持ち上げて見せた。
「通りかかって、普通、来る? 三人だよ、相手」
「……困ってる声が、知ってる声のような気がして」
彼女は、それきり何も言わなかった。
二人ぶんの足音だけが、夜の道に続いた。
さっきまであんなに喋っていた人が、急に静かになった。その静けさの中で、遅れて、実感が湧いてきた。
俺は、この人を助けたのだ。絡んでいた、三人の男から。
さっきは点を見るのに夢中で、恐怖も達成感も、どこか他人事だった。
それが今ごろ、じわりと、体の真ん中に降りてくる。助けた、という事実の、確かな重みと温かさが。
隣を歩く枝の光は、もう揺れていなかった。跳ねもしないが、震えもしない。ただ、俺から半歩ぶんのところを、静かに灯ってついてきていた。いつもの二人の距離より、少しだけ近かった。いつもより近いことに、どちらも触れなかった。その距離感のまま、俺たちは角をもう一つ曲がった。
「さっきは、ありがと」美晴は息を小さく吸ってから、笑った。胸のいちばん上の光が、今夜ようやく、ほんの少し跳ねた。声は、もう、いつもの高さに戻っていた。
「だけど、幾何学って何」と彼女はいった。
「まあ、雰囲気で」と俺は答えた。
※
彼女の家の近くの角で別れて、一人になって、五十メートルほど歩いたところで——手が、震え出した。
遅れて、膝も笑い始めた。高架下では笑わなかったくせに、今ごろだ。怖さというのは、後払いで来るらしい。しかも、利子つきで。
俺は自販機の脇にしゃがんで、袋の中で完全に液体と化したアイスを、震える手で飲んだ。そうしながら、俺は今夜の自分の投げを、思い返していた。
軽かった。その軽さが、あまりにも印象に残っていた。
でも、何となく分かってもいた。あれは、盛大に「崩れて」いたからだ。酒によって崩れ、怒りや苛立ちによって崩れていた。もし相手の線が、あの八雲さんみたいに、まっすぐ整っていたら……きっと、俺にできることは何もなかっただろう。
※
部屋に帰って、上着を脱ぐと、ポケットから紙が一枚、落ちた。いつだったか、勧誘でもらったビラだ。拾って、広げた。
——汐見大学合気道部。部員募集。経験不問。見学歓迎。稽古場所・旧文化会館二階。
胸の奥の方から、笑いが込みあげてきた。世の中には、こういう出来すぎた偶然が、たまにある。理玖に話せば、偶然の確率を真顔で計算し始めるだろう。あいつなら何て言うだろう。「すべては必然的で奇跡などない」だろうか。それとも、「それほどの偶然はもはや奇跡と呼ぶに値する」というだろうか。その二つの答えが、どちらにせよ、俺の背中を後押ししているように感じた。
ベッドに入ってから、天井に向かって、今夜の図形を復習した。折れたハンガー。ゆれる傍心。そして、ほとんど一点に重なった、あの静かな光。
三角形は、人によって、こんなにも、違う。
俺の三角形は、今、どんな形をしているのだろう。俺には、自分の光を見ることはできない。それを初めて、もどかしいと感じた夜だった。
週末、俺は、階段の鳴く木造三階建てに向かった。




