中の人
木曜は、空きコマが一つ挟まる曜日だった。三限と四限のあいだの、九十分。その有意義な使い道といえば、蛸八のたこ焼きか、最近でいえば図書館の512番棚である。いい天気だったし、その日は前者を選んだ。人生の選択の大半は、天気と小腹の減り具合で決まる。
汐見銀座は、いつもと違う顔をしていた。アーケードの端から端まで紅葉柄の吹き流しがぶら下がり、「秋の大市」と染め抜かれた幟が立っている。三色パン屋の前では福引の抽選器が景気よく鳴っていた。
さて、蛸八まであと少しというところで、俺は足を止めた。
鮮魚店と眼鏡屋のあいだの狭いスペースに、白くて丸っこい着ぐるみが一体、突っ立っていた。魚のような、団子のような、かわいいような、そうでもないような……。地元の何かのマスコットらしいそいつが、道行く人にポケットティッシュと風船を配っている。
俺が足を止めたのは、着ぐるみが珍しかったからじゃない。そこに、光が点いていたからだ。
中に人がいれば、俺の目には七つの光が点いてみえる。だが、その並びには、見覚えがありすぎた。風を受けた枝のような、あのしなり方。あの枝の光り方をする人間は、俺の知る限り、一人しかいない。
黙って通り過ぎる、という選択肢も一瞬よぎった。だが、何やら悪戯っ気のようなものが沸いてくるのを抑えきれなかった。
列を離れて近づくと、着ぐるみが機械的な動きでポケットティッシュを差し出してきた。俺はそれを受け取りながら、言った。
「遠野さん、ここでバイトだったんだ」
多少は驚くだろう、とは思っていた。何しろ着ぐるみだ。声も出せない、顔も見えない格好で、いきなり名前を呼ばれるのだから、多少驚くくらいの反応は想定していた。
だが、現実はその想定を追い越していった。
まず着ぐるみの中で、何かが跳ねた。縦四つが、いつもの「ぴょこり」とは比べ物にならない速度で、めちゃくちゃに震えた。声は出さないし、全身は隠れている。だが光は防御力ゼロで、俺に全部を伝えてくる。それは驚きというより、パニックと呼んだほうがよさそうな跳ね方だった。
抱えていた束から風船が一つ、二つ、結び目からするりと逃げて、秋晴れの空へ上っていった。着ぐるみはそれを目で追う余裕もなく、上昇する風船をアタフタと追いかけて、その場でくるくると、変な円を描くように回転していた。近くにいた子どもが「ぬいぐるみさん、踊ってる!」と笑った。
着ぐるみは、しばらく回転を続けたあと、ようやく我に返ったように、震える手で残りのティッシュを通行人に押し付け始めた。おお、プロだと思った。配り方が、ちょっと雑になったような気がしないでもないが、動揺しても、仕事はやり遂げる。俺はそれ以上声をかけず、少し離れたベンチで時間を潰すことにした。
十分ほどして、シフトが交代したらしい。裏手から私服に着替えた遠野美晴が出てきた。その顔が、全体としてどんな表情を作っているのかは、いつも通り、俺には分からない。だがパーツをみると、耳がすこし赤いような。
「……葛西くん」声が、少しかすれていた。「今の、ずるくない?」
「ずるいって、何が」
「普通、分かんないでしょ、これ。ケイもナっちゃんも、中身が入れ替わったの、一回も当てたことないんだから」
聞けば、この着ぐるみは音楽研究会の三人——美晴、ケイさん、ナっちゃん——で交代しているものらしい。一時間ごとにシフトを回し、交代は裏の段ボールの陰で無言のバトンタッチ。三人の間でさえ、誰が入っているかは、腕に巻いた輪ゴムの本数で見分けているという。三人でオンケンの機材更新資金を貯めているそうで、美晴の狙いは、新しいベースだという。
「輪ゴムの本数よ?当人同士でも、輪ゴム見るまで分からないのに。なんで分かったの」
「うーん、まあ、雰囲気?」
「雰囲気で分かるわけないでしょ!着ぐるみだよ?」
いつもの「雰囲気で」が、今日はまるで通らなかった。まあ、当然だと思う。
シフトはちょうどそこで終わりで、次はナっちゃんの番だという。「お腹すいた。奢って、とは言わないけど、一緒に食べるくらいはいいでしょ」と美晴が言うので、俺に否やがあるわけもなく、二人で大学へ引き返した。
※
木曜の学食は、十二時を三分過ぎると戦場になる。券売機の前に列が伸び、トレーとトレーがぶつかり、カレーと出汁の匂いが空中で縄張り争いをする。俺にとっては、数百の三角形がひしめく、光の過密地帯でもある。慣れてきたとはいえ、混雑した学食の眺めは、夜の空港を管制塔から見下ろしているのに似ていた。全部の機体が、着陸を急いでいる。
券売機の順番待ちで、美晴がふと言った。
「ねえ、当ててみてよ。今日、私が何頼むか」
「クイズか」
「ただの暇つぶし。……着ぐるみのお返しに、これくらいは付き合ってよ」
こっちに負けを認めさせるつもりらしい。だが、これは光では解けない問題だった。券売機のボタンに罪はなく、光もない。純粋に、遠野美晴という人間についての知識を問う問題だ。俺は初めて、まともに頭を使った。
日替わりは、ない。先週「二十円値上げとは何ごと!」と語学の教室で憤慨していた。あの憤慨は本物だった。抗議のボイコットは続いているはずだ。
残るは、うどんかカツカレー。俺は記憶を漁った。彼女は今日、白っぽいカーディガンを着ている。その観察によれば……。
「きつねうどん」
やがて買ってきたトレーの上で、正解のきつねうどんが湯気を立てていた。
「当てられちゃった。理由は?今のは雰囲気じゃ通らないよ」
「白い服の日は、カレーを頼まない。服につくと目立つし。日替わりは値上げしたし」
「うー、くやしい。なんで当てるのよ」
「観察」
彼女はうどんを一本すすって、妙にしみじみ言った。「葛西くんが、私の親より私を見てる」
そんなつもりはなかった。なかったが、否定の言葉を探すあいだに間が空いて、間が空いたことが半分肯定になった。彼女はにやにやしながら(たぶん)、油揚げを二つに割った。いちばん上の光が、ぴょこりと跳ねていた。
※
「私も当てる」美晴は割った油揚げの片方を口に運んで、宣言した。「葛西くん、今朝、朝ごはん食べてないでしょ」
「正解。どうして分かったんだ」
「トレー見れば分かるよ。大盛りにした上に小鉢二つ。あと、座って最初に味噌汁を全部飲んだ。あれは胃が空っぽの人の飲み方です」
俺は自分のトレーを見下ろした。大盛り。小鉢二つ。空の味噌汁椀。証拠は全部、目の前に並んでいた。
「次。昨日、図書館に遅くまでいたでしょ」
「名探偵か」
「鞄から本の角が出てる。背表紙のラベル、512って見えるんだけど、512って何の棚?」
512番台は幾何学の棚だ。
「……うーん。数学系のやつ」
「経済学部なのに?」
「経済は、数学を、使うので」
「ふうん」
俺は箸を持ち直しながら、美晴の観察眼にけっこう感心していた。俺のとは種類が違う。俺のは、向こうから勝手に光ってくれるものを読んでいるだけだが、彼女は、光らないものを見て、覚えて、つないでいる。トレーの小鉢。鞄の角。ラベルの数字。そんなもの、ふつうは誰も見ていない。
「じゃあ次ね。さっき着ぐるみに声かけてきたとき、葛西くん、ちょっと楽しそうだった」
「分かった?」
「人が着ぐるみの中でパニック起こしてるのに、嬉しそうにしてた。いじわるだ」
反論はできない。実際、楽しかったのだ。俺にしても着ぐるみの中まで見抜けるとまでは思っていなかったし、見抜けて、なおかつ相手があれだけ盛大に驚いてくれるというのは、なかなか得難い娯楽だった。ただし、本人の前でそれを認めるかどうかは別問題で、俺はうどんの残り汁をすすって、その場をしのごうとした。しかし、ここは素直に負けておいた方がいいのかなと思い始めた。
「まあ確かに、ちょっとびっくりさせようと思ったのはある。驚かせてごめん。謝るからそんなに怒らないでほしいな」
「別に、怒ってるわけじゃないけど」と美晴はいった。「最後にもうひとつだけ当てる。これで仕返しはおしまいにするね。葛西くんが昨日借りた本、経済学で使うやつじゃないでしょ。数学が趣味なの?」
「趣味っていえるほど詳しいわけじゃないけど……最近、身の回りのことにも数学が関わってるんだって気づくことが多くて、興味をもった」俺は慎重さと正直さの両立を心がけて答えた。
「ふうん、身の回りのことに」と美晴はいった。「それ面白そうだね。今度、なにか教えて。葛西くんが、面白いなって思ったこと」
「分かった」と俺は約束した。「ところで、そろそろ四限に行かないと」
「あ、やば」と美晴が席を立つ。俺たちは連れ立って食堂を出て、それぞれの教室へと急いだ。
※
四限が終わると、廊下で出会った流れで一緒にキャンパスを出た。彼女はこのあと旧文化会館の三階、オンケンの部室に行くという。美晴は部活のあれこれについて話してくれた。「新しいベース、あと少しで手が届きそう」とか「うちの部室、あの木造のボロ会館なんだよね。三階まで階段なんだけど、北側の階段がすごい音で鳴くの。ぎぃぃって。だからみんな南側使うんだ」とか。
駅前を通ると、汐見シネマの前で美晴の足が緩んだ。古風な小屋で、いまどき二本立てをやっている。看板は手描きだ。古い活劇と、魚の群れが銀色の渦を巻いているドキュメンタリー。
「映画とか、観る?」
「観ることもあるよ」
「二本立てっていいよね。一本目が外れでも、二本目がある」
「保険つきの娯楽だよな」
「そうそう。……ふうん」
ふうん、で会話は終わった。
なんだか、坂の途中にいるみたいな会話だった。どちらかが、半歩踏み出せば転がり出す位置に丸い石が置いてあって、二人ともその石を眺めたまま、触らない、みたいな会話。
彼女は看板をもう三秒眺めて、「じゃ、そろそろ部室行くね」と歩き出した。何かの合計が一点だけ足りなくて成立しなかった取引を、俺は経済学部生として静かに悔やんだ。悔やむくらいなら踏み出せばいいというのは正論だが、そんなに簡単じゃないことも多いし、勇気が必要なことだってある。
「ねえ、葛西くん」五歩ほど行ったところで、美晴が振り返った。
「ん?」
「葛西くんには……なんかが見えてるんじゃない?」
風が、銀杏並木を鳴らして通った。彼女の声は、責める調子でも、探る調子でもなかった。回り道のない、真っすぐな問い。
「……なんかって、何が?」
「分かんないけど。たまにね、何もないとこ見て、納得したりするから」
美晴は、ふ、と口元を緩めた。いちばん上の光が、跳ねてから。「ほら、今も……。ま、いいや。それじゃあね」彼女は笑って手を振り、商店街のほうへ歩いていった。しなる光の枝が人混みに紛れて見えなくなるまで、俺は並木の下に突っ立っていた。もし、あのまま質問を重ねられたら、話していたかもしれない。
彼女は俺に「何かがある」と、はっきり気づいたのだ。気づいた上で、中身を見せろとは言わずに済ませてくれた。あの「ま、いいや」は、たぶん、訊きたいことを自分で振り切るための言葉だった。
その夜、人名鑑の遠野美晴のページに、今日の彼女のことを書いた。そして、書きながら気づいた。このページだけ、光の記述より、光じゃない記述のほうが多い。今日はけっこう長いこと一緒にいたためか、まるで俺の個人的な日記みたいになった。人名鑑としては、記録の乱れと言える。だが、それを分かった上で、俺は、今日の記述を一行も消す気にはならなかった。




