検証しよう
病院の正門を出た。
九月の空はもう秋の高さだった。
金木犀がうすく香り、蝉はもう聞こえてこない。
二か月ぶりの外の世界は、顔のない人間で溢れていた。
そして、そこらじゅうの四角や丸——標識、時計、マンホール——の真ん中で、小さな光が旗を振っていた。
歩きながら、理玖にメッセージを送った。
「退院した。話したいことと訊きたいことがある」
返信は、三秒で来た。
「サニーズ」
※
ファミレス「サニーズ」汐見駅前店。窓際のいちばん奥の四人掛け。
そこが理玖の指定席らしい。紙ナプキンにグラフや計算を書きつけ、日々、何やら数学の研究をしているようである。
俺が着いたとき、理玖はもう座っていた。四人掛けの窓側に、限界まで浅く。
テーブルにはドリンクバーのメロンソーダ。理玖はストローでそれを、ゆっくり几帳面に混ぜていた。俺もドリンクバーを頼んだ。入院中にあまり飲まなかったせいか、コーヒーがやけにうまかった。
「で」理玖がストローを置いた。「話したいことと訊きたいことってのは何だ」
俺は話した。
円の中心の光。人間に灯る七つ。つり合いの一点である「重心」のこと。平べったい三角から逃げ出した二つの点のこと。医者にも母親にも言っていないこと。そうした全てだ。訊いたのはもちろん、この光が何に灯っているかである。
理玖は一度も口を挟まなかった。すべてを聞き終えてから、テーブルの上に指を立て、俺の話を確かめるように言った。
「三角形にだけ七つか……内側に四つ、外側に三つ」
「うん」俺は頷いた。
理玖はしばらく黙っていた。
「それなら、たぶん分かる」
「本当か」
「ああ。見当はつく。難しくない」
「何なんだ」
「まだ言わない」
理玖は鞄を足元から持ち上げた。
「俺の思っている通りか、検証しよう」
そう言って鞄をごそごそやり、B5のレポート用紙と、十五センチの定規と、コンパスをテーブルに並べた。
「コンパス持ち歩いてるのかよ」
「持ってないやつのほうが不思議だ」
※
ルールはこうだった。
理玖が手元で図形をいくつか描く。描いているところは俺には見せない。描き終わったら、一度に全部見せる。
俺は、見えた点に片っ端から印をつける。なるべく速く、正確に。
考えない。迷ったら飛ばして次へ行く。
「速さも見るのか」
「速さこそ見る」
理玖は左腕で紙を囲うようにして、描き始めた。カンニング防止の姿勢である。
時々天井を見て思案する。そうしてペン先が紙をこする音だけが、五分ばかり続いた。
窓の外を、自転車が二台通っていった。
俺はコーヒーをおかわりした。
「できた」
理玖はレポート用紙を七枚、テーブルの中央へ広げた。
十個の三角形と、四角形と、五角形と、星形。
その全部に、一斉に光が点いた。
三角形ひとつにつき七つ。十個で七十。プラス三つ。
七十三個が、同時に灯った。紙が、明るい。
思わず息を呑んだ。夜の斜面から、住宅地の窓明かりを見ているみたいだ。
「始め」
理玖がスマホのストップウォッチを押した。
俺は点を打った。簡単である。
光にペン先を置き、少しこすって離す。それだけの作業だ。
何も探さなくていいし、迷うこともない。
一つの三角形に、七つ。
一つの点に一秒。だいたい七秒。左上から順に、一つずつ潰していった。
七つ目の三角形は平べったいやつで、光がひとつ、紙の外まで逃げていた。
俺は端にあった用紙を一枚引き寄せ、元の紙につなげた。はみ出した光を受け止めて、その上に点を打つ。
理玖が何か言いかけたのが分かったが、俺はもう次の図形に移っていた。
九つ目は、ほとんど正三角形だった。
四つの光が、せまい範囲に固まっている。ここだけは慎重に、隣の点を潰さないようにする。
最後に、四角形と五角形と星形。点はそれぞれ一つずつ。
「終わった」と俺は言った。
理玖はストップウォッチを止めた。
「一分五十二秒」
理玖の重心の光が、椅子の上で一度、前へ出た。身を乗り出したのだ。
そして七十三個の赤い点を前に、言った。
「お前の見えている点が、俺の考えている通りのものだとしよう」
「うん」
「もしそうなら、今のは、知識では絶対にできない」
紙の上を、指で順に示す。
「一点を出すだけでも、辺の中点を取る、垂線を引く、角を二等分する——そういう手順が要る。全部を目分量でやったとしても、ひとつの三角形で三十秒から一分はかかるだろう。数学科の教授でも、さっきのスピードでは不可能だ」
「信じてもらえたか」
「まだだ」
「まだかよ」
「速いのは分かった。それが合っていることは別だ。全部でたらめかも知れない。そもそも現時点では俺の仮説だ」
「そうだった」
「検証する」
理玖はストップウォッチをゼロに戻し、もう一度押した。
それから青インクに持ち替えて、一つ目の三角形に線を引き始めた。
定規を当てて中点を取り、コンパスの針を刺し、円弧を交わらせる。
青い線が増えるたび、新しい交点が生まれた。
それはいつも、俺の赤い点と重なった。
理玖は、黙って次へと進んだ。
一点を確かめるのに、早くて十秒。それが、七十三個である。
腹が鳴った。
「グラタン頼もうかな」
「頼めばいいだろう」
そうした。
運ばれてきたグラタンは、皿の上で、まだふつふつと煮えていた。
俺は猫舌である。湯気が落ち着くまで待ったが、理玖はまだ検証を続けていた。
俺は食べはじめた。
理玖が線を引く。俺はマカロニを口に運ぶ。
理玖が定規を当てる。俺は焦げたところを削る。
理玖は今、紙の外にはみ出た光を調べていた。俺が紙を追加したやつだ。
定規を継ぎ足すようにして、青い線を延ばしていく。それが二枚のレポート用紙の境を越えて、俺の赤い点に着いた。
「……乗った」
九つ目。えらく時間をかけていると思ったら、理玖が言った。
「しまった。これは判定できない」
「外れてた?」
「そうじゃない。四つが近すぎて、俺の作図がダンゴになってつぶれる。再試験だな」
理玖は元の三角形を、五倍の大きさで描き直した。
「中央の四つだけ、もう一度だ」
光はさっきより広い間隔で灯っていた。俺は一つずつ、赤い点を置いた。
理玖が取り上げ、青い線を引く。
四つの交点が、一つずつ現れた。
「……全部、通った」
少し悔しそうだった。
最後に、三角形以外の三つ。
理玖はそれぞれをいくつもの三角形に分け、面積と位置を計算して、中心を出した。
ここがいちばん時間を食った。
「四角形、合ってる。五角形も。星形も」
「こいつらは一つずつしか点かない」
「ああ。俺の考えとも合う」
最後の一つに青い印がついたとき、ストップウォッチは二十三分を越えていた。
グラタンは、とっくに空になっていた。
理玖は四色ボールペンを、かちりと納めた。
それからメロンソーダを一口飲んだ。混ぜすぎて完全に気の抜けた、ぬるそうな緑を。
「葛西」
「うん」
「お前……最高だな」しみじみと、そう言った。
——最高か。
理玖がそういうと、悪い気はしなかった。
こいつは心にもないことを言うやつじゃないからだ。高校から今日まで、理玖がいい加減なことを言ったのを、聞いたことがない。
二か月間、俺の頭の中身は「症状」だった。
医者にとっては経過で、母さんにとっては心配で、俺にとっては得体の知れない現象。
それが理玖によって、「検証されたデータ」になった。
俺が答えるのに、一分五十二秒。理玖が確かめるのに、二十三分。
俺の見たものを、コンパスと定規で追いかけると、十倍以上かかるらしい。
自分がすごいのだとは、あまり思わなかった。
俺が見ているこれが、見えてない顔と比べて、どのくらい価値があるのか、俺には分からなかったからだ。
最高か。
いったい、理玖は今、どんな顔をして、そう言ったんだろう。
俺は、どんな顔をして聞いたんだろう。
俺に分かるのは、理玖の重心が、いつもより前へ出ていることだけだ。




