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顔のない大学

 九月最終週の月曜。復学初日の朝。

 空は高く、金木犀は満開で、俺はこれから、顔のない六千人の中へ飛び込んでいく。


 通学路は商店街を抜ける。二か月ぶりの汐見銀座の朝の匂いがした。パン屋の発酵、八百屋の土っぽさ、そして角を曲がったところのソースと出汁。

 蛸八の大将が、開店前の焼き台を磨いていた。会釈したら、布巾を持った手が五センチほど上がり、ねじり鉢巻きが軽くうなずいた。大将の「(おう)」だ。


 アーケードの下、俺は自分の視界の賑やかさに、あらためて呆れていた。

 時計屋の看板の丸に光が一点。自転車の車輪にも、前後で二点。

 マンホール、四角い道路標識、六角形のボルトの頭、菱形の交差点マークにも、一点ずつ。丸だろうが四角だろうが、みんな律儀に、ど真ん中へ光る旗を一本立てている。世界は中心だらけだった。


 理玖に言わせれば「図形はたいてい正直なんだ。中心を一個しか持たない」。ただ一つ、三角形をのぞいて。あいつだけが、中心を七個も抱えている。

 そして人間は、三角形のほうの仲間だった。だから人の人生は、マンホールの構造より複雑になるし、時として、三角関係なんてものが生じるのだろう——というのは、まあ単なる軽口である。


  ※


 汐見大学(シオダイ)は駅から歩いて十五分、商店街を抜けた先にある。正門をくぐった瞬間、俺は自分の立てた作戦がいかに机上のものだったかを知った。すなわち「人名鑑を充実させ、声と歩き方と光で個体識別し、平穏な学生生活を送る」。


 現実はこうだ。

「おーい」正門の先で、誰かが手を振る。誰だろう。声は聞こえない距離で、光は初見。だが手はこっちに向かって振られている。迷うが、俺も振り返す。だがその誰かは、俺を素通りし、三歩後ろにいた別の誰かと合流する。

 なるほど。俺に振ったんじゃなかったのか。んんんっと咳払いする。

 朝の往来で他人に全力で手を振った男は、何食わぬ顔で歩き出すしかない。もっとも、何食わぬ顔ができているかどうか、自分の顔さえ分からない俺には、保証のしようもない。

 

 学習した俺は、次に手を振られたとき、振り返さなかった。すると相手はわざわざ進路を曲げてこっちへ来た。「葛西! 久しぶり、退院したんだって?」声で分かった。高校の同級生の江藤だ。同じ大学に進んでいたのを忘れていたのだ。俺は無視を詫びた。江藤は気にしないそぶりだったが、去り際の「お前、なんか雰囲気変わったな」は地味に刺さった。変わったのは雰囲気じゃなく脳の一部だ。

 作戦が二度までも裏目にでた俺は、昼までには方針を確定させていた。

 よし、分かった。もう、全部に振り返してやる。

 俺宛てだろうが、人違いだろうが、手が振られたら、振り返す。人違いなら、咳払いでもしてごまかす。無視はよくない。単純な期待値の計算である。これぞ経済学部の面目躍如。


 この方針の副作用が判明したのは、一週間後だった。

 語学の教室で、前の席の男二人がこう喋っているのが聞こえた。

「経済一年の葛西って知ってる?めっちゃ愛想いい奴」

「ああ、誰にでも挨拶するやつな。俺も試しに、遠くから手を振ったら振り返してきたよ。本当だった」

「サークルの勧誘にも、全部笑顔で手え振り返してるって」


 俺は大学に、存在しない人格を一人、育ててしまったようだ。道理で、俺の下駄箱まわりには勧誘ビラが同期の三倍集まるわけだ。テニス、映画研究、アカペラ、囲碁。「めっちゃ愛想のいい葛西くん」の需要は、意外と高いらしい。

 ある日、中庭でアカペラサークルに捕まった。「葛西くんですよね!挨拶の神の!」と、初対面の女子に称号つきで呼び止められた。なんと、挨拶の神……神格化までされていたとは。

「うちのサークルは挨拶を大事にしててぇ」と勧誘が始まり、断る理由を探すうちに、あれよあれよとハモりの実演が始まった。通行人が足を止める往来の中央、俺は、なんとも贅沢な位置で、四人のコーラスを浴びる羽目になった。

 思い返してみると、ハモり自体は、なかなか良かったと思う。しかし今一つ集中できなかったのが、正直なところだ。急に自分の立ち位置が心配になったのだ。いろんな意味で。


 講義は、思ったより何とかなった。

 教授というのは、教壇という定位置に立ってくれる上、九十分間しゃべり続けてくれる。個体識別の難易度でいえばレベル1である。人名鑑の教員ページは初週で埋まった。


  ※


 学食は、ちょっとした問題だった。トレーを持った数百もの三角形が、雑然と流動する。

 あれは今思えば、「群れ」というものを俺が初めて「光の集合」として眺めた場所だったのだが、当時の俺の感想は一つだけだった。座る場所がない。

 トレーを持って漠然と立ち尽くしていたら、奥の席から手が振られた。反射で振り返しかけたが、やめた。学習の成果である。だが、よく見れば分かった。しなるような光のライン。振った手に合わせて、いちばん上の光が、ぴょこっと跳ねている。

 遠野美晴だった。光の配置だけで名前を言い当てられるようになった、数少ない相手。彼女は向かいの椅子を、トレーの端でずいと押して空けてみせた。座れ、ということらしい。

「相席いい?」と訊いたら「むしろどうぞ」と返ってきた。「葛西くんが来てくれてよかった。あのままだと、知らない人と相席になっちゃうもん」

 俺は座った。日替わり定食が二つ、差し向かい。

 彼女はよく食べた。そして、よく喋った。

 今日の日替わりは鯖で、いちばん当たりは水曜だという話、語学の小テストで出された問題の理不尽さ、たこ焼きは、何個入りが正義かという話。相槌を打ちながら、俺は内心、妙なことに感心していた。顔の分からない相手との食事でも、これほど間が持つものなのか、と。声と、話の運びと、跳ねる光。顔がなくても、遠野美晴は、遠野美晴として、テーブルの向こうに、ちゃんと座っていた。

 小さなことかも知れないが、俺にとっては発見だった。この二か月、顔のない世界は、俺にとって基本的に不便で、寂しいものだった。だが、この昼食は、不便でも寂しくもなかった。ただ普通に楽しい昼食だった。


 人名鑑の遠野美晴のページに、その日、一行足した。「学食、鯖。よく喋る。顔が分からなくても平気だった数少ない相手」。

 最後の一行を書いたあと読み返していると、何かこう、小っ恥ずかしいような気がした。一瞬、消そうかと思ったが、残しておいた。


  ※


 空きコマには、図書館に通うようになった。

 きっかけは理玖の講義だ。五心、オイラー線。ほかにないか、続きが知りたくなった。

 大学図書館の地下二階、分類番号512番台——幾何学の棚。

 古い本ばかりだ。借り手がいるのかいないのか、背表紙の金文字が剥げかけた幾何学の教科書、作図法の本。

 試しに一冊抜いて開いて、俺は息を呑んだ。

 ページのそこらじゅうで三角形が光っていた。印刷された図版の一つ一つに、七つの光が律儀に灯る。教科書というより夜景の写真集だ。しばらく立ち読みし、貸出カウンターで初等幾何の入門書を二冊借りた。経済学部一年の貸出履歴としてはいささか変わっている。俺は閲覧席で一時間、ページをめくるたびに点いたり消えたりする街明かりを眺めて過ごした。


  ※


 後期の語学は、前期と同じ顔ぶれだった。いや、まあ「顔ぶれ」という言葉を、俺が使っていいのかは分からないが。

 英語の佐伯先生は、教室に入ってくる音がしない。すり足なのだ。俺の人名鑑にもそう記録されている。気配より先に、前傾した光の列がぬっと視界に入る。初回の講義の前に、先生は俺の席までやってきて、言った。

「葛西くん。お帰りなさい。大変でしたね。体はもういいのですか?」

「ありがとうございます。帰りました。おかげさまで、だいたい元気です。あの、鶴、二十羽も折って下さったって」

「ああ」先生は眼鏡の位置を直した。「気にしないでください。折り紙は、指の語学ですから」

 この先生は、森羅万象を語学に回収しようとするのだ。意味が分からず答えに窮していると、「ところで葛西くん、君はずいぶん数学が好きなようですね」と、急に問われて驚いた。

「どうしてですか。あ、もしかして、こないだ、先生も図書館にいらっしゃったんじゃ」

「はい。幾何学の難しそうな本を、なにか綺麗なものでも見るかのような目で眺めていましたね」

 実際に、俺はあの本を、綺麗だと思いながら見ていた。

「ちょっと入院中に、世界の見え方が変わったみたいで」と答えると、先生は「それはまさに、語学の本懐ですね」と満足そうに頷いた。何かの誤解が成立したような気がしたが、訂正はしないことにした。


 その日の講義は、例文の反復練習だった。同じ構文を、単語を替えて何十回も口に出す。後ろの席の男子が、休憩がてらに手を挙げて、間延びした語尾で質問した。

「先生ぇ、これ意味あります?文法とか、考えながらでも喋れれば良くないすかぁ」

 佐伯先生は、黒板を書き書き、振り向かずに言った。

「文法はね、考えなくなったときに、初めて身についたと言うんですよ」

「はあ」

「考えながら話しているうちは、それはまだ外国語で、あなたの言語ではありません。はい、続きを」

語尾の伸びる男は「きびしー」と小声で言い、教室は反復練習に戻った。隣の席で遠野美晴が「いいこと言うね、先生」と小さく笑った。たしかに、いい言葉だ。俺は人名鑑の佐伯先生のページの余白に、その言葉を書き留めた。


  ※


 その遠野美晴だが、後期の語学では、俺の隣が彼女の定位置になっていた。

 初日、俺が席に着いたら、当たり前みたいに隣に座ってきて、こう言ったのだ。

「私、ここね。前のほうは黒板の字がまぶしいから」

 二回目からは、俺が教室に入ると、彼女の隣が一つだけ空いている。空けておいてくれている、と気づくのに、三回かかった。


 彼女の識別は、もう間違えない。しなる枝のような四つの光のライン。よく通る声。そして、笑う直前にぴょこりと跳ねる、いちばん上の光。跳ねの観測記録は病室の一回から順調に増えて、この時点で十四回を数えていた。なんと、打率十割。彼女が笑う〇・五秒前、俺は世界で一人だけ、先に知っている。そう思うと、なんだか妙に、誇らしいような気がした。


 水曜の昼前だった。キャンパスの銀杏並木の向こう、三十メートルは先から、誰かがこっちに手を振った。

 一週間前の俺なら、条件反射で振り返して終わりだ。だがその日は違った。距離があって、声はまだ届かない。それでも、縦四つのしなり方と——振られた手の動きに合わせて、いちばん上の光が、ぴょこ、と跳ねたのが見えた。

 遠野美晴だ。間違いなく、俺に向かって、振っている。

 俺は、初めて確信を持って手を振り返した。期待値の計算のない、ただまっすぐな一振りを。六千人の顔のない大学で、三十メートル先から確信できる相手は、まだ彼女一人だけだった。一人いれば、キャンパスの色は変わる。俺はうれしかった。きっと笑顔だったはずだ。

 駆け寄ってきた彼女は、開口一番こう言った。

「ねえ葛西くん、今の、なんで私って分かったの? 結構遠かったよね」

「……雰囲気で」

「雰囲気」彼女は俺の言葉を、手に取って裏返すみたいに繰り返した。「あそこから分かるかなあ」

「分かる。誰でもってわけじゃないけど」

「私、分かりやすい?」

「分かりやすい。それに遠野さんこそ。気づいたのはお互いさまだし」

「ふうん」

 彼女はそれ以上追及しなかった。

「ま、いいか」美晴はそう言って、鞄を掛け直した。「私、次の講義あるから、もう行くね」

「ああ。……また、隣の席で」

「うん。また」

 それだけの会話だった。

 彼女は駆けてきた並木道を、歩いて戻っていく。歩調に合わせて、光の列がひょこりと揺れていた。


 人名鑑に、その日、こう書き足した。「遠野美晴。三十メートル、確信」

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