六百二十三羽鶴
中庭へ出る許可がおりた。
病院の敷地の中を歩くくらいなら大丈夫だという。
一階。
乗っていた人たちに続いて、最後にエレベーターを降りた。
俺の背後で、扉が閉まりはじめた。
そこへ、大きな紙袋を抱えた女の子が歩いてきた。同い年くらいの背格好である。閉じかけた扉を見て、足を速めた。俺は扉のあいだへ手を差し入れ、閉まるドアに猶予を与えた。
彼女は小さく頭を下げた。だが、なぜか乗ろうとしない。何やら、俺の方をうかがっている様子である。
「どうぞ」
「……うん」
うん、と言ったのに、やはり乗らなかった。
彼女の体にも、うっすら三角形が重なっていた。たての四つを結ぶ線は、まっすぐ立たず、やわらかくしなっている。
俺は手を引いた。
しばらくすると、エレベーターは閉まった。
彼女は、まだ俺を見ているようだった。
知り合いだっただろうか。
だが、覚えがあるかどうかという話ではない。
俺にはその子の顔が分からないのだ。
分からないまま、顔のあるあたりに視線を置いて会釈し、その横を通りすぎた。
三歩ほど行ったところで、背中から声が来た。
「葛西くん……で、合ってるよね?」
よく通る声だった。教室の一番後ろまで届きそうである。
「そうです」と俺は振り返って言った。
「よかった。語学クラスの遠野です。遠野美晴」
その名前には聞き覚えがあった。
ただ正直に言うと、俺は遠野美晴のことをほとんど知らなかった。語学クラスに、よく笑う子がいるな、とは思っていた。その子が紙袋を抱えて、俺の目の前にいる。
「事故に遭ったって聞いて。お見舞いに来たんだけど……出かけるとこ?」
「ああ、うん。今朝、中庭に出てもいいって言われたので」
「もう歩いて大丈夫なの?」
「中庭までなら」
「頭は? まだ痛い?」
「ううん。いえ、今はもう、ほとんど」
「そっか」
遠野さんは、小さく息を吐いた。
「じゃあ、ついてっていい?」
「中庭?」
「だめかな?」
「だめじゃない」
※
自動ドアを抜けると、消毒液の匂いが切れた。
小さな中庭である。低い植え込みと、ベンチが二つと、若い木が何本か。
それでも、久しぶりに屋根のない空気を吸った。
「大学、後期から戻れそう?」
「たぶん」
「よかった。じゃあ、また語学、一緒だね」
俺の歩幅は、まだ本調子ではなかった。
遠野さんは最初、それに合わせて歩いていた。
だが、話しているうちに、二歩ばかり前へ出た。気づいて、戻ってくる。
「ごめん。私が先に行ってどうするんだろ」
「遠野さん、歩くの速いんだな」
「普段はそうでもないと思うんだけど……中庭って、なんかよくない?」
それから遠野さんは、俺の半歩後ろを歩いた。合わせ方が極端である。
風が来た。
中庭の若い木が、いっせいに枝をしならせた。
遠野さんは、紙袋を風から守るように胸へ抱いた。
肩までの髪がなびき、彼女の三角形が、ゆっくり傾いだ。
たて四つを結ぶ線が、向こう側の枝と重なった。
どこまでが木の枝で、どこからが人の光か、一瞬、分からなかった。
若枝だ。
呼び名が見つかった。俺は少し笑った。
「なに?」
「いや」
俺は、風に揺れている枝を指した。
「これ、遠野さんに少し似てるかなって」
「これ?」
「この枝」
遠野さんは、俺と枝を一度ずつ見た。
「……ええと。葛西くん、そろそろ戻った方がいいかな」
何が「ええと」なのかは分からなかったが、言われてみれば、足は少し重くなっていた。
「そうだな」
戻りのエレベーターには、今度こそ遠野さんも乗った。
※
病室に戻ると、遠野さんは紙袋をベッドの端に置き、姿勢を正した。
「あらためまして」と遠野さんは言った。
「あらためまして?」と俺は訊いた。
「これ、お見舞い。はい」
なんと千羽鶴だった。人生で初めてもらった。
色とりどりの折り鶴が、糸でつながっている。
「授業で折ったの、先生にもらってきたんだ」
「授業で?」
「折り鶴の英文をやったの。そしたら、鶴の折り方を知らない人が、けっこういて」
「そうなのか」
「先生が、じゃあ折ってみましょうって。折った枚数に応じて、小テストに加点しますって言ったら、みんな急に折り始めた」
「語学の授業だよな」
「うん。途中から、ほとんど誰も喋ってなかったけど」
学生だけで、五百羽ほど折ったらしい。
「授業のあと、先生のところにまとめてあったの。それで、葛西くんに持っていっていいですかって訊いたら、先生も折ってくれた。二十羽くらい。折り紙は英語でもオリガミなんですよって言いながら」
遠野さんは、束をそっと持ち上げた。
「だから、正直にいうと千羽はないんだよね。六百二十三羽。中途半端でごめんね」
鶴の列は、きちんと同じ長さに揃っていた。
「七本に分けたの。一つ八十九羽ずつ」
七かける八十九。なるほど、六百二十三だ。
「あとの百羽くらいはどうしたの」
授業で五百羽、佐伯先生が二十羽。六百二十三まで、あと百ほど足りない。
「んー。残りはまあ、有志からってところかな」
「遠野さんも、有志のひとり?」
「うん。まあ、少し」
遠野さんは、鶴と鶴のあいだの糸を、指で直しはじめた。
「先生ってば、葛西くんに辞書を差し入れようとしてたんだ。全力で止めておいたから安心して」
「と、止めてくれてありがとう」
「どういたしまして」
六百二十三羽。
俺はその数字が、千よりずっといいと思った。千羽鶴は世の中に山ほどあるが、六百二十三羽鶴は、たぶんこれ一つじゃないか。
束の端の一羽を見た。
翼の下に、いくつも折り目が重なっている。
「俺も、折れないな」
「鶴?」
「なかなか覚えられないんだ。四角くなるところまでは覚えてるけど」
「四角くなるところ、何回かあるよ」
「じゃあ、最初のほうの四角だ」
「折ってみる?」
遠野さんは紙袋の底から、使い残しの折り紙を出した。ベッドのテーブルを寄せ、俺は青、遠野さんは黄色の紙を手に取った。彼女は丸椅子に座って、俺の手が追いつくのを待ちながら、順に折ってみせてくれた。やがて、覚えのある四角になった。
「ここまでは覚えてる?」
「うん。この先が分からない」
「ここ、開いて。指を入れて、こう」
俺も同じところを開こうとしたが、紙がついてこなかった。
「一枚だけ。下のは、そのまま」
遠野さんは、自分の紙を少し戻して、もう一度やってみせた。
今度はできた。俺が折り目を押さえているあいだに、遠野さんが訊いた。
「ほかに、誰か来た?」
「南理玖っていう、高校からの友達が」
「南くん」
遠野さんは、その名前を一度繰り返した。
「自転車で転んだって聞いたんだけど、何かにぶつかったの?」
猫を避けようとしてタイヤが滑り、自転車ごと堤防から落ちた。そう説明すると、遠野さんの指が止まった。
「よく帰りに通るよ。あそこ、下、コンクリートだよね……それで、頭を?」
「うん。六日間、目が覚めなかった」
「怖かったね」
「一瞬だったから、怖がる暇もなかったよ。ひっくり返って、衝撃があって、目が覚めたら、ここ」
遠野さんは、少し黙っていた。
俺は、もう一つのほうも話すことにした。
「猫は無事だったって」
「そう。それは……よかった」
「そいつ、俺のたこ焼きを食べようとしてたって」
熱そうにしていたらしいと話すと、猫舌だもんね、と彼女は言った。
俺の紙を見た遠野さんは、今度は裏も同じように、と教えてくれた。さっき表でやったことなのに、もう怪しい。彼女の手元を見て、もう一度折った。
「葛西くん、猫、好き?」
「好きだよ」
「そっか」
「遠野さんも?」
「うん。見かけると、つい呼んじゃう。あんまり来ないけど」
遠野さんはそこに猫がいるみたいに、呼ぶときの手つきをしてみせた。
「しゃがむと来るのもいるよ」と俺は言った。
「ちゃんとしゃがんでるけど、来ないもん。でも、次に会うと、また呼んじゃうんだよね」
猫に向かってしゃがんでいる遠野さんを、俺は想像した。
「たこ焼きは、商店街の蛸八?」
「うん」
「美味しいよね、あそこの」
遠野さんの声が、少し大きくなった。あの、中がとろっとしたたこ焼きが、彼女も好きらしい。ただし、いつも買うのは六個入りだそうだ。
「俺はいつも十二個。六個だと、もうちょっと食べたかったってなるかも」
「ああ、少し分かる。ふふ、食べたくなってきちゃった」
気がつくと、俺のほうからも、いろいろ話していた。
折り方が分からなくなると、遠野さんの手を見た。訊きたいことがあれば、顔を見た。
正確にいえば、顔のあたりに視線を置いていた。
事故の前の俺には、絶対にできなかったことだ。ほとんど初対面の女の子に、自分から話しかけ、その返事を顔の前で待つなんて。
今は、そこから逃げなくていい。読めない本は、俺を責めてこない。
手元へ目を落とすのも、次にどこを折るのか見たいからだった。
「このちくちくが頭と尻尾になるところ」
「どっちでもいいんだっけ」
「うん。好きなほうを頭にして」
片方の先を折り曲げて、翼を左右へ開いた。
「できた」
「これで完成です。遠野さんの、折り鶴講座でした」
テーブルに置いた。青い鶴は、首が少し太かった。
「こっちは、よく食べそうだな」
「十二個食べるほうだ」
遠野さんは笑った。
口元と頬が一緒に動いた。
一つずつなら、その動きは見える。けれど、それが合わさってどんな笑顔になっているのかは、分からなかった。
どんな顔で笑っているのか、見たかった。
無いものねだりだ。
遠野さんが残りの折り紙を重ねるあいだに、俺は二羽を床頭台へ移した。
「黄色いほうも、もらっていい」
「もちろん」
「じゃあ六百二十三羽といっしょに飾っとく」
そのとき、彼女の肩のそばの光が、空中で一つ、ぴょこっと跳ねた。
跳ねてから、笑った。
「そうして。それじゃ、私、そろそろ行くね」
「今日はありがとう」
「うん、またね。お大事に」
彼女が廊下の向こうに消えてからも、俺は戸口を眺めていた。
さっきのは、何だったんだろう。
光が、笑うより先に笑ったように見えた。何だか、とてもいいものを見たような気がした。
人名鑑「遠野美晴。語学クラス。たて四つの線は風を受けた若枝。よく通る声。笑ったとき、肩のそばの光が先に跳ねた」
※
退院は、九月の第三週に決まった。
真壁先生は最後の診察で「顔の方は、正直、戻る気配がないですね」とペンをノックしながら言った。「ただ、認知機能はとてもいいですね。少しばかり……良すぎるくらいです」と首をひねっていた。たぶん、あの指で支えるカードのことだろう。
荷物をまとめた朝、権藤さんが手招きした。ベッドの柵にはまだ、俺の描いた七つの点の紙が貼ってあった。
「兄ちゃん、退院か」
「はい。権藤さんも、リハビリ頑張ってください」
「おう。ときに兄ちゃん。兄ちゃんのかいてくれた点の絵、ありがとうな。妙に励みになりよる」
「それはよかった」
「守り神じゃ。歩く練習が、まだ長くなりそうなんでな」
「権藤さんならきっと、大丈夫ですよ」と俺は心からいった。
「ええか、兄ちゃん。手じゃぞ」と権藤さんは言った。
「手ですか」
「そうじゃ。見えても、肝心なのは手じゃ。兄ちゃんの目で見たもんを、手に伝えるんじゃ。ええな」
「心得ておきます」と俺はいった。
床頭台の二羽は、小さな空き箱に入れた。
最後に、窓際の六百二十三羽を外した。
鶴がなくなると、病室は、入院した日の白さに戻った。




