五つの心
ファミレス「サニーズ」汐見駅前店。窓際のいちばん奥の四人掛け。
そこが理玖の指定席らしい。紙ナプキンに折り目をつけてみたり、グラフや計算を書きつけたりして、日々、何やら数学の研究をしているようである。そこに俺が加わり、紙ナプキンの消費は加速した。あの店にはいつか菓子折りを持っていくべきだと思っている。
俺が着いたとき、理玖はもう座っていた。四人掛けの窓側に、限界まで浅く。テーブルにはドリンクバーのメロンソーダ。理玖はストローでそれを、ゆっくり几帳面に混ぜていた。俺もドリンクバーを頼んだ。入院中にあまり飲まなかったせいか、コーヒーがやけにうまかった。
「で」理玖がストローを置いた。「見せたいものと、訊きたいことってのは何だ」
俺は話した。円の中心の光のこと。人間に灯る七つのこと。厚紙の三角形にも同じ七つが点いたこと。釣り合いの一点、「重心」のこと。平べったい三角では内側の光が二つ外に逃げ出したこと。二か月、医者にも母親にも言っていないこと。そうした全てだ。
話し終えるまで、理玖は一度も口を挟まなかった。俺は少し身構えていた。信じるにしても、疑うにしても、こいつはどちらかを即答してくるはずだ。しかし理玖は予想に反して、言った。
「検証しよう」
……第三の選択肢だった。信じない。疑わない。確かめる。考えてみれば、いちばん、こいつらしい選択とも言える。理玖はパーカーのポケットから四色ボールペンを出し、紙ナプキンを一枚、テーブルの真ん中に広げた。
「俺が三角形を描く。お前は何も考えずに、一回につきひとつ、光の位置に点を打て。俺が訊かないうちは何も言わなくていいし、先に俺の答えを聞くな。いいな」
「なんだか試験前の注意事項みたいだな」
「そのとおり。試験前の、注意事項なんだよ」
黒インクで、理玖が三角形を一つ描いた。描き終わった瞬間、ナプキンの上に七つ、ふっと灯る。俺は内側の「重心」に、赤で点を打った。
理玖は無言で、青インクに切り替えた。三角形の各頂点から、向かいの辺の真ん中へ、線を三本。
三本の線は、一点で交わった。俺の赤い点の、ど真ん中で。
「……次」
今度は細長い三角形。俺が点を打ち、理玖が図をかき、重なる。
そして三つめ。さらに四つ目。理玖の作図の手つきがどんどん速くなる。五つ目で、理玖は別の光を指定してきた。
「七つの点は、だいたい同じ場所に固まってるんだろう?光り方の違いとかは?」
「何となくだけど、ある。区別はできる」
「じゃあ今度は、外に逃げるって言ってたやつだ」
俺が点を打つ。理玖が今度は別の作図——各辺に垂直な線を立てて——交点が、三角形の外、俺の赤い点の上に落ちた。
六枚目で、理玖はいきなり四角形を描いた。「さっきと同じ点はついているか」俺は正直に「点いてない。重心ならある」と申告した。理玖は頷いて、五角形を描いた。「これも重心だけ」と俺は言った。次は星形。「これも」俺がそう言うと、理玖は初めて口の端で笑った気配を見せた。
「対照実験だ。三角形だけ七つ、他は一つと、矛盾なく申告し分ける一貫性は、お前の芝居では保てないだろうからな」
「俺が嘘ついてる可能性まで検討してたのか」
「可能性はつねに検討するためにある」
その他の点についても調べ上げた。ひと通り終わったときには、二十数枚に及ぶ紙ナプキンが、それぞれ、いくつかずつ図形をのせて広がっていた。理玖は四色ボールペンをかちりと納めて、メロンソーダを一口飲んだ。混ぜ続けて完全に気の抜けた、ぬるい緑を。
「葛西」
「うん」
「お前……最高だな」しみじみと、そう言った。
——最高か。理玖がそういうと、悪い気はしなかった。こいつは心にもないことを言うやつじゃないからだ。高校のころから、今日まで、理玖がいい加減なことを言ったのを、聞いたことがない。
二か月間、俺の頭の中身は「症状」だった。医者にとっては経過で、母さんにとっては心配で、俺にとっては得体の知れない現象。それが理玖によって「検証されたデータ」になり、最高だと言われた。
いったい、理玖は今、どんな顔をしているんだろうな。俺は、どんな顔をしているんだろう。
まあ、最高かもな。少なくとも、悪い気はしなかった。
※
「講義を始める」と理玖は言った。頼んだわけではないが、どこかでそれを待っていた。
「三角形には、中心がある。それも一個じゃない。お前が見てる七つの光——あれは全部、名前のついた点だ。まず内側の四つから行く」
新しい紙ナプキン。黒で大きめの三角形。理玖の講義メモは、意外なほど整っていて見やすい。
「一つ目。各頂点と、向かいの辺の真ん中を結ぶ。三本の線は必ず一点で交わる。これが重心」
「俺も、そこを重心って呼んでる」
「まあ、名前通りの実感があるだろうからな。ここは実際に、物としての釣り合いの点だ。厚紙が指の上で水平に止まるのは、重心の真下を支えたときだ。二つ目にいくぞ。各辺の真ん中に、辺と垂直な線を立てる。これも一点で交わる。外心。三つの頂点から等距離の点だ。だから外心を中心に円を描くと……」
理玖は赤に持ち替えて、三角形の三つの頂点を通る円を、ふわりと描いた。
「三つの頂点が全部、円に乗る。外接circleだ」
出た。こいつは興が乗ると、サークルだけ英語になる。高校時代からの奇病で、どういうわけか本人に自覚はない。
「英語になってたぞ、今」
「なってない。三つ目、垂心。各頂点から向かいの辺へ、垂直に線を下ろした交点だ。四つ目、内心。三つの角をそれぞれ半分に割る線の交点で、こっちは三つの辺から等距離。内側に円がぴったり収まる。内心と重心は絶対に三角形の中にいる。だが外心と垂心は——」
「平べったい三角だと、外に逃げる」
「そう。ひとつの内角が九十度を超えると、外に出る。お前が病室で見た『脱走』の正体だ」
二か月引きずっていた謎が解けた。あの平たいカードで外に逃げていた二つは、外心と垂心。律儀に内側に残っていたのは重心と内心。脱走しているのではなく、定位置だったのだ。
「外にある三つは?」
「傍心。各辺を延長すると、三角形の外側に、三直線に接する円が……こんなふうに三つ描ける。その中心たちだ。必ず外にいる」
「内側に四つ、外に三つ。……七つ」
「重心、外心、垂心、内心、そして傍心が三つ。傍心を一種類と数えて、昔から『五心』と呼ぶ。三角形の、五つの心だ」
五つの心。七つの点。
俺は自分のグラスの水面を見た。丸い縁の真ん中で、点が一つ、静かに灯っている。円の中心は一つだ。だが三角形には、七つある。人間にも、七つある。二か月間ただの「光」だったものたちに、いま、一斉に名前が配られていく。点呼を取られた新入生みたいに、七つの光が急にそれぞれの名前を、持ち始めた。
「じゃあ、人間の外に浮いてる三つは、傍心なのか。……みんな、体の外に衛星を三つ連れて歩いてるのか」
「お前の観察が正しければな。本人の輪郭の外にあるのに、本人の三角形の一部。傍心とはそういう点だ。外にいることが、仕事なんだ」
外にいることが仕事。俺は病室の窓際に浮かんでいた母さんの三つを思い出した。廊下側に一つ、はみ出していたっけ。
※
「訊きたいことがある」と、今度は理玖が言った。「内側の四つは、どう並んで見える」
「縦。だいたい縦に一列。……ただ、四つのうち一個が、少しずれてる」
理玖の目が——目つきは相変わらず部品でしか分からないが据わった気配がした。
新しい紙ナプキン。作図。
重心、外心、垂心の三点に、青で印。
「見ろ。この三つは、どんな三角形でも、必ず一直線に乗る。証明されてる。発見者の名前を取って、オイラー線と呼ぶ」
定規も使わず、理玖はその三点を貫く一本の線を引いた。ぶれのない、綺麗な直線だった。
「内心だけは、この線に乗らない。乗るのは二等辺三角形のときだけだ。だからお前の見てる『半歩ずれた一個』は、十中八九、内心のことだ」
「仲間外れなのか」
「仲間外れじゃない。基準が違うだけだ。他の三つは形の話をしてる。内心だけは、辺との距離の話をしてる。……いいか、ここからが本題だ」
理玖はメロンソーダを一口飲み、グラスを置いて、小さな三角形を三つ、並べて描いた。一つは細長く、一つは平たく、一つは正三角形。
「お前の目には見えているはずだ。三角形が歪んでいるほど、オイラー線は長くなる。三つの点の間隔が開く。逆に、三角形が正三角形に近づくほど、点と点は寄っていく。そして完全な正三角形では」
理玖は正三角形の真ん中に、点を一つだけ打った。
「重心も外心も垂心も内心も、全部が、この一点に重なる。線は、消える」
「……確かに」すべて理玖のいうとおりだった。
「オイラー線ってのはな、葛西。三角形が正三角形からどれだけずれてるかの、記録なんだ。ずれがあるから、線になる。線は、ずれの記録だ」
線は、ずれの記録。俺の頭の中で、二か月ぶんの観察が、音を立てて並び直した。母さんの、疲れて上が傾いだ縦の列。権藤さんの、六十年で背中の折れた曲尺。遠野さんの、しなる若い枝。理玖の、定規で引いたような一列。あれは全部、記録だったのだ。その人がどう生きて、どうずれて、どう立っているかの。
「背骨みたいだな」と、俺は言った。
理玖は三秒黙った。こいつにしては長考だ。
「悪くない比喩だ。ただし正確ではない。数学のオイラー線は、直線だ。曲がったオイラー線というものはない。……だがお前の話だと、権藤さんのは折れてたんだろ」
「かくんと。曲尺みたいに」
「なら、お前が人間の上に見てる線は、オイラー線に似ているが、オイラー線じゃない何かだ。お前の見ているものにつけている名前は、数学用語から借りているだけだと思っておけ。俺たちはまだ、それが何なのか証明したわけじゃない」
「なあ。ずれてるのって、駄目なことなのか」
訊いてから、少し後悔した。答えによっては、母さんの傾いだ線も、権藤さんの折れた曲尺も、駄目の記録になってしまう。理玖は例によって即答した。
「三角形に、良いも悪いもない。あるのは形だけだ。細長い三角形は細長い仕事に向いてて、平たい三角形は平たい仕事に向いてる。正三角形は、まあ美しいが、単に美しいだけとも言えるからな。もっとも、それが最も重要なことだという意見はあるが」
「なんで人間に三角形と同じような点があるんだと思う?」
「分からない。人体を力学的に近似すると両肩と骨盤で三角形になる、みたいな説明は可能だろうが、あまりしたくはない。雑な説明は嘘より悪い。今は保留しよう。数学では、それを未解決問題と呼ぶ」
※
閉店が近づいて、テーブルの上は破れた紙ナプキンの山になっていた。理玖のペン先は作図に熱が入ると紙を突き破る。
「最後に一個だけ、いいものを見せてやる」
理玖は三角形を描いた。わざとそんなのを描いたのだろう、潰れて、ねじれて、お世辞にも美しくない三角形。
「どんな三角形でもいい。三つの角を、それぞれきっちり三等分する線を引く。隣り合う線の交点を三つ取ると——」
歪んだ三角形の内側に、小さな三角形が浮かび上がった。理玖はその三辺に、同じ長さを示す印を付けた。
「正三角形になる。例外はない。どんなに歪んだ三角形の中にも、同じルールにより浮かび上がる一個の正三角形がひそんでいる。モーリーの定理。証明されたのは百年ちょっと前。三角形なんて二千年掘り尽くされた鉱山だと全員が思ってたところに、まだこれが埋まってた」
「へえ」
「へえで済ませるな。俺はこれを、人類の発見の中で三番目に美しいと思ってる」
「一番と二番は」
「いや、それが同率一位がたくさんあって……」理玖の発言としては、一、二を争う適当さである。
俺はもう一度、紙の上の小さな正三角形を見た。歪んだ外側と、その内側で澄ましている正三角形。ふうん、と思った。理玖はそれを丁寧に四つ折りにして、パーカーのポケットにしまった。
会計は、一円単位の割り勘だった。誤差のない、厳密な友情と言っておこう。外に出ると、九月の夜風が吹いていた。それが商店街から、たこ焼きソースの匂いを運んできた。
「で、大学はどうするんだ」と理玖が言った。「後期、来週からだぞ」
「行くよ。行くけど……うちの大学って、学生何人いるんだっけ」
「学部だけで約六千」
六千か。俺は夜空を見上げた。顔のない六千人。名前も知らない六千通りの、五つの心。六千の三角形が、月曜に待っている。




