病室の人名鑑
八月の半ば、隣のベッドに台風が入院してきた。
権藤さん。七十六歳、元大工。屋根の修理中に足を滑らせて落ち、大腿骨を折った。
本人いわく「六十年やって初めて落ちたんじゃから、勘弁せい」
声もテレビの音もでかい。相撲中継に「そこじゃ!」と怒鳴って看護師さんに注意されていた。
「耳は遠くないんですから」と言われて、「耳は遠くないが、応援を送っとる中継場所が遠いんじゃ」と答えていた。堂々たる屁理屈である。
妙な言い草だが、権藤さんが怒られているのを聞くと、なんだか元気が出た。
カーテン一枚を挟んだだけの隣人だ。顔は例によって部品の集合だが、権藤さんは顔以外の情報が多かった。やたら大きなドラ声、豪快な笑い方。
そして光。
権藤さんの七つの光は、それまで見た誰よりも個性的だった。たてに並ぶはずの四つが、背中でカクンと折れていた。まるで、目的があってそうしているような、道具めいた折れ方。
メモにはこう書いた。「権藤さん。たて四つが背中で折れる。道具っぽい」。
我ながら雑な観察記録だが、このメモこそが、のちに俺のインフラとなる「人名鑑」の創刊号なのだった。
人名鑑の話をしよう。母さんに普通の大学ノートを一冊持ってきてもらった。
中身はこうだ。一人一ページ。名前、声の特徴、歩き方などの癖、そして光の配置の簡単な図解。
——五十嵐さん。声高い。縦四つは小刻みに揺れがち(働き者の揺れ)。
——真壁先生。ペンをノックする。縦四つ、やや前のめり。
——権藤さん。たて四つが背中で折れる。道具っぽい
ノートへの手書きは暗記の基本だ。一週間もすると、遠目に光の配置だけでも、角を曲がってくるのが誰か当てられるようになった。
※
軽いリハビリをやった。頭を打った俺のメニューには、体だけでなく「注意力と指先」の課題が入っていた。担当は作業療法士の柏木さんという若い男性で、光のたてのラインが姿勢よく並んでいる。柏木さんは大きな厚紙のカードを何枚も持ってきた。丸、四角、三角、いろんな形で、厚みが不均一らしい。
「集中力の課題です。このカードを、指一本の上でバランスさせてください。倒れない一点を探す遊びだと思って」
柏木さんが手本を見せた。四角いカードを人差し指に載せ、少しずつ位置を直して釣り合わせる。「厚みが均一じゃないので、意外と難しいかも知れませんよ。三角からやってみましょうか」
カードには、光が点いていた。柏木さんがやってみせた四角のカードには一つ。やり方を見学しながら、俺は、心の中で、あっと叫び声を上げていた。彼はまさに、点の下に指を添えることでカードをバランスさせていたのだ。
俺に手渡された三角形には光が七つ。内に四つ、外の空中に三つ。もし、光が物体の「中心」を表しているのだとしたら——。
「葛西さん?自信がなければ、もう少しやさしめのカードから——」
「いえ。やります」
きっと内側の四つのうち、どれかが「倒れない一点」だ。俺は勘で、真ん中へんの一つを選び、その真下に指を当てた。カードは水平のまま、指の上でぴたりと止まった。
「一発でしたね!」柏木さんの声が半音明るくなった。「偶然かな。次、これ」
二枚目。細長い三角。同じ光を選ぶ。ぴたり。
三枚目。もっと歪んだ三角。ぴたり。
柏木さんは相槌を打たなくなった。十枚目が終わったとき、ボールペンで頭をかきながら訊ねた。
「んーっと、葛西さん。……前職、何かされてました?」
「大学一年ですから、前職はないです」
「ですよね。じゃあスポーツ経験かな」
「それも特にないです」
柏木さんの光のラインが、心なしか、のけぞっていた。
この遊びで、俺は一つ学んだ。七つの光は等価じゃない。どんな形の三角でも、指の上で釣り合うのは決まって「あいつ」だ。内側のやつらの中で、何となく偉そうなポジション。そこに指をあてるとカードが釣り合うから、俺はそのままの意味で、そいつを「重心」と呼ぶことにした。
※
理玖が見舞いに来たのは、その週の土曜だった。
病室の戸口に、七つの光が立った。その中の四つが、上から下まで定規で引いたように等間隔。
「やあ葛西。生きてるか」
「声で分かるよ、理玖」
南理玖。高校も大学も同じ。理学部数学科だ。頭が良いのだが、どれくらい良いのかは、俺にはちょっと測りかねる。こいつならどこの大学も好きに選べたはずだが、家から近い汐見大に通っている。
理玖は丸椅子に、限界まで浅く座った。重心が前に偏った。見舞いの紙袋から出てきたのは、前期の講義プリントの束と、単位取得規程のコピーだった。
「休学しなくても、後期から追いつける。教務にも確認した」
「見舞い品が事務手続きなんだが……」
「果物なんかは親がもってくるだろ。俺の管轄は書類だ。だが、そこのコンビニで買ったアイスモナカがある。半分こしよう」
俺は礼を言ってプリントとモナカを受け取った。それから、自分の視線のことに気づいた。さっきからずっと、理玖の胸のあたりに固定されている。あの縦一列が、見ていて妙に落ち着くのだ。整いすぎていて、目が離せない。
「お前さっきから、俺の胸元ばっかり見てるが」
「えーっと……胸筋、鍛えた?」
「いや。数学科を何だと思ってる」
光のことは、理玖には話そうと思った。理玖なら何か、この現象に説明をつけられるかも知れない。俺がどこから話そうかと迷っていると、理玖は言った。
「お前、相貌失認なんだってな」
「うん。あ、母さんから聞いた?誰が誰だか、顔だけじゃ区別できない」
「じゃあ俺の顔も」
「分かんない。今も、目をつぶって声だけ聞いてるのと大して変わらない」
「ふうん。じゃあ俺、今どんな顔してると思う?」
「さあ」
「泣きそうな顔だよ」声はいつも通りだった。理玖はそういう男だった。よくみると、体とその周りに点った七つの光が、かすかに揺れて明滅するようで、泣いているように見えなくもなかった。
アイスモナカを食べ終えると、理玖は帰っていった。光のことは、また今度、話そうと思った。
エレベーターまで見送ったあと、部屋に戻った。
人名鑑「理玖。たて一列がまるで定規。泣きそうになると光が揺れて明滅」
※
光のことを最初に打ち明けた相手は、母さんでも理玖でもない。我ながらちょっと意外だが、権藤さんだった。
消灯後、深夜まで何となく寝つけずにいたら、カーテンの向こうから声が来た。
「兄ちゃん、寝とらんなあ」
「……権藤さんも」
「歳を取ると、夜が余ってなあ。それで、兄ちゃんは何で入院しとるんかな、と思うてな」
俺は入院のきっかけになった事故のことを話した。
深夜のせいだろうか。それとも、権藤さんが話しやすい人だったせいだろうか。
気づいたら、いつの間にか、何もかも話していた。
円の中心のこと。人間に灯る七つのこと。医者にも言わないでいること。
教会の告解室を連想した。
なにかの映画でみたことがある。教会の神父さんに秘密の罪を打ち明ける部屋。
人にはきっと、顔が見えない相手になら話せることというのがあるのだ。まあ、人の顔が分からなくなった俺が言うのも変だが。
権藤さんは、笑いも疑いもしなかった。ふうん、と一つ唸って、こう訊いた。
「わしのは、どう見える」
「たての光が、背中でカクンと折れてます」
「まるで曲尺じゃな」権藤さんはそう言って愉快そうに笑った。深夜の病室で、そんなに大きな声で笑っていいのかと、心配になった。
「曲尺っちゅうのは直角に折れた、大工の測り道具でな。そうか、そうか。六十年、屋根の上で膝を折り、腰を曲げて働いとるうちに、ついにわし自身が曲尺になってしもうたか。勲章みたいなもんじゃな」そして、こう続けた。
「兄ちゃん。わしもな、木の癖が見える方なんじゃ。兄ちゃんの目と、どこか似とるかも知れん。節の裏の割れも、反りの出る向きも、見りゃ分かる。じゃがな、兄ちゃん。木の癖が見えたって、鉋をかけるのは手じゃ。見えるだけでは一枚の木も削れん。これまで、どれほどの木を削ったか。どれほどノコを引いて、組み上げたか」
見えるだけでは、一枚の木も削れん——その言葉は、その夜の会話で印象に残った。
俺は枕もとの小さな明かりをつけて、人名鑑の、権藤さんのページに書きとめた。
翌朝、権藤さんは「わしの七つ、絵に描いてみせてくれ」と言った。俺は描いた。折れたライン上の四つと、外の三つ。権藤さんはその紙をベッドの柵にテープで貼り、「守り神じゃ」と満足そうに言った。看護師さんに「これは何ですか」と訊かれて「わしを守っとる七福神じゃ」と答えていた。
※
面会に女の子が来た。
戸口に立った光は、初めての印象を与えた。四つの光をのせた、たてのラインが、しなるようだった。ぴんと張っているのに硬くない。まるで風を受けた若い枝を思わせた。
「こんにちは葛西くん。語学クラスの遠野です。遠野美晴」
よく通る声だった。教室の一番後ろまで届きそうだ。正直に言うと、俺は遠野美晴のことをほとんど知らなかった。同じ語学クラスで、よく笑う子がいるなとは思っていた。その子が紙袋を抱えて、俺の病室にいる。
「クラスのみんなから。はい」
なんと千羽鶴だった。色とりどりの折り鶴が糸で束ねられている。人生で初めてもらった。
何でも、授業で折り鶴に関する英文をやったらしい。そのとき、折り方を知らないという学生が意外に多いことを受けて佐伯先生が立ち上がった。折った枚数に応じて小テストに加点と発表したところ、その時間中に五百羽ほども集まったとのこと。
「だから、千羽は正直ないんだよね」と彼女は言った。「六百二十三羽。中途半端でごめんね。佐伯先生も二十羽くらい折ってくれたよ。折り紙は英語でもオリガミなんですよって言いながら」
「あとの百羽はどうしたの」と俺はたずねた。
「んー。残りはまあ、有志からってところかな」と遠野さんはいった。「先生ってば、葛西くんに辞書を差し入れようとしてたんだ。全力で止めておいたから安心して」
「……止めてくれてありがとう」
「どういたしまして」
六百二十三羽。俺はその数字が、千よりずっといいと思った。千羽鶴は世の中に山ほどあるが、六百二十三羽鶴は、たぶんこれ一つじゃないか。
遠野さんは十分ほどいてくれた。クラスの近況、学食の日替わりが値上がりした話。
新鮮な気分で、楽しい時間だった。
遠野さんは、左の頬にだけ、えくぼがあった。笑うと出る。片方だけ、というのが妙に記憶に残った。
帰り際、俺が「六百二十三羽、飾っときます」と言ったら、彼女の肩のそばの光が、空中で一つ、ぴょこっと跳ねた。跳ねてから、笑った。
「うん。そうして」
俺は彼女が廊下の向こうに消えるまで、戸口の残像を眺めていた。
今のは何だろう。光が、笑うより先に笑った。何だかいいものを見たような気がした。
人名鑑「遠野美晴。語学クラス。たての四つは若い枝。よく通る声。笑う直前、肩の光が跳ねるかも」
※
退院は、九月の第三週に決まった。
真壁先生は最後の診察で「顔のほうは、正直、戻る気配がないですね」とペンをノックしながら言った。「ただ、認知機能はとてもいいですね。少しばかり……良すぎるくらいです」と首をひねっていた。たぶん、あの指で支えるカードのことだろう。
荷物をまとめた朝、権藤さんが手招きした。ベッドの柵にはまだ、俺の描いた七つの点の紙が貼ってある。
「兄ちゃん、退院か」
「はい。権藤さんも、リハビリ頑張ってください」
「おう。ときに兄ちゃん。兄ちゃんのかいてくれた点の絵、ありがとうな。妙に励みになりよる」
「それはよかった」
「守り神じゃ。歩く練習が、まだ長くなりそうなんでな」
「権藤さんならきっと、大丈夫ですよ」と俺は心からいった。
「ええか、兄ちゃん。手じゃぞ」と権藤さんは言った。
「手ですか」
「そうじゃ。見えても、肝心なのは手じゃ。兄ちゃんの目で見たもんを、手に伝えるんじゃ。ええな」
「心得ておきます」と俺はいって、病室を辞した。
病院の玄関を出た。
九月の空はもう秋の高さだった。蝉はもう鳴いていなく、金木犀が薄く香っていた。
二か月ぶりの外の世界は、顔のない人間で溢れていた。そして、そこらじゅうの四角や丸——標識、時計、マンホール——の真ん中で、小さな光が旗を振っていた。
歩きながら、理玖にメッセージを送った。
「退院した。訊きたいことがある」
返信は、三秒で来た。
「サニーズ汐見駅前店。窓際のいちばん奥。メロンソーダが飲みたい」




