七つの光
八月に入って最初の朝だった。
水の入ったコップを持ち上げようとして、俺の手が止まった。
何の変哲もない病院のコップだ。
その水の、七分目の高さの真ん中あたり。
そこに小さな光が一つ、点っていたのだ。米粒くらいの、白っぽい淡い光。
まばたきをしたり、目をこすってもみたが、消えない。
コップをずらすと、水中の位置を保つように光も動いた。
顔に引き続き、なにか新しいことが始まったようだ。
一瞬ナースコールを押そうとしたが、ためらった。「見えるはずのものが見えません」の次に「見えないはずのものが見えます」を申告したら、おそらく退院は水平線の向こうだ。
暇つぶしをかねて実験をした。水入りのコップのほか、いろいろなものを観察した。
壁の時計、ティッシュの箱、消灯のスイッチプレート、五百円玉、テレビ。
よく見ると、どれも中心に一つずつ、白っぽい点が浮かんでいる。窓の外の、遠い川向こうの、丸いガスタンクにもある。
メモ用紙に円を描いてみた。なるべく丁寧に。すると、点いた。小さく、しかし堂々と、中心に。
中心。
どうやら俺の脳は、見ているもののど真ん中に、旗を立てる係を新しく雇ったらしい。
代わりにクビにしたのが、人の顔を認識する係というわけだ。一体、どういう人事だろう。
ただ、新入りの仕事ぶりは、ひとまず一貫しているようだ。仕事の意図はさっぱり分からないが。
「葛西さん、コップに何か?」検温に来た五十嵐さんが高い声で言った。
「……いえ。水が。今日は何だかきれいだなと」と、俺はごまかした。
「いつもの水道水ですよ」と五十嵐さんは言った。
その後もノートに図形を描いていた。そして最大の発見。
三角形を描いたとき、内側に点が四つ灯ったのだ。ほぼ同じあたりだが、確かに四つ、別々の点だ。
さらに三角形の外側の、紙の余白部分に三つ。
合計七つの光が、描き終えた瞬間に、ぽぽぽっと浮かび上がった。
俺はしばらくノートと睨み合った。再びいろいろな図を描いてみる。
円、四角形、星型、五角形、ぜんぶ一つ。
ハート、へたくそな似顔絵、もっとへたくそな犬、ぜんぶ一つ。
三角形。七つ。
三角形だけ七つだった。内側に四つ、外側に三つ。
三角形の形を変えると、七つの点はそれぞれ勝手な方向へするする動いた。細長くすると、外にある点は遠くへいった。ぺしゃんこにすると内側の四つのうち二つが、するりと外へ抜け出した。
この観察は、なかなか楽しかった。「家出癖のあるやつが二人いる」と俺はノートの端にメモした。
答え合わせか、新たな問いか。
昼の薬の時間に、五十嵐さんが入ってきた。彼女の体に、光が点いていたのだ。
それも、一つじゃない。俺は薬の袋を受け取りながら数えた。四つ。いや、七つだった。
胸のあたりから腰へ、縦に四つ。右肩と脇腹と膝のそばに、離れて三つ。
目を凝らすと、七つの光の奥に、あるかないかの淡い三辺が見えた。人の体にうっすら重なる、三角形のようなもの。五十嵐さんが動けば、それも傾き、形を変えた。
ただ、外に浮いた三つだけは、その動きを待たず、一瞬先へ出るようだった。
「葛西さん?体温計、挟めます?」
「挟めます」
三十六度五分。体温は正常だった。
夕方、母さんが来た。
母さんの体にも、三角形が重なっていた。縦の光の間隔も、外への張り出し方も、五十嵐さんとは違う。
顔は相変わらず分からない。だが病室の戸口に立った三角形を見た瞬間、声を聞くより先に、なぜか「母さんだ」と分かった。分かって、感動した。
顔の代わりに名札が来たのだ。今までの俺には見えなかった、いや、きっと他の誰にも見えない、俺だけのための名札が。
母さんの三角形は、上のほうだけが、わずかに傾いでいた。何を意味するのかは分からない。ただ、その形が何かを語っているように思えた。
事故からずっと、隣の市から電車で一時間かけて通ってくれている。俺が気を失っていた六日間の付き添い。りんごを剥く手つきは同じでも——。
「母さん、今日はもう帰った方がいいよ。ちゃんと寝て」
「どうしたのよ、急に」
「いいから。分かるんだよ」
「分かるって、何が」
「疲れてるのが。なんとなくだけど」
母さんは剥きかけのりんごを持ったまま、俺の顔をじっと見た。
「そりゃあんた、自分の子が事故で入院してたら、心労のない親はいないわよ。おまけに後遺症で母さんの顔を忘れちゃうなんて」
「忘れたんじゃないよ。単に、人の顔が区別できなくなっただけで」
「似たようなもんじゃないの」と母さんは言った。「でもそれにしては、今日は母さんのことすぐ分かったわね。あんたなりに適応してるってことかしらね」
帰り際、戸口で振り返った母さんの三角形は、来たときよりまっすぐに立っていた気がした。俺はそれをノートに書きつけた。
「母。たて四つ。少し傾ぐが帰りに戻る」
できそこないの俳句のようだ。
だがそれが、あの夏、俺が書いた、人に点った光についての最初の観察記録だった。
※
その後、天井を見ながら考えた。
たいていのものは点が一つ。三角形には七つ。人間にも七つ。
一点のときは、どうやら「中心」を表しているらしい。だがそれなら、七つというのは何なんだ。そして、あの淡い三角形は何だ。どうして人の周りに三角形がみえるのか。
寝る前に、洗面所の鏡を見に行った。
そういえば鏡のなかの男には、光が一つも点いていなかった。俺だから、か。それとも、鏡だからか。
ためしにコップに水を入れて鏡に映してみた。手のなかの現物の中心には、白い光が点っていた。ところが、鏡にはそれがない。どうやら鏡ごしには見えないようだった。
ベッドに戻る。窓の外で、今年最後かもしれない蝉が鳴いていた。
分からないことは多い。だがこの光は、でたらめに点いているわけじゃない。現実の、何かに反応しているのだ。
三角形と人間に点る七つの光。
それらは同じものなのだろうか。
そうだとしたら——人間は、三角形なのか。




