九十キロの山
旧文化会館は、緊急点検のために閉鎖された。
柱や梁などに、差し迫った損傷が見つかったわけではない。ただ、一階東通路の壁を試験開口したところ、一区画の補強が竣工図と食い違っていた。
なぜそうなったのかは、まだ分からない。
分かったのは、二十年前の竣工図が、もはや現況の証明にはならないことだった。
会館は三日間閉鎖されたのち、扉を開けた。
「使っていい、という意味ですよね」
俺が確認すると、小田島さんはすぐにはうなずかなかった。
「そう言っていいのかどうか……。とにかく、今すぐ閉めなければならないという所見までは出なかった、ということだけれども」
条件が付いていた。
玄関と二階の階段口には、新しい注意書きが貼られた。
既存団体の通常利用に限る。大規模な催しは禁止。東側の壁際には重量物を置かない。震度四以上の揺れがあれば即時休館。他部の学生は、名簿への記載と人数制限の範囲で参加できる。
そして、二階道場の同時滞在人数は十五人まで。
再開した最初の土曜日、矢野は道場の入口に立ち、上がってくる人間を一人ずつ数えていた。
宮下新主将が最初に組んだ交流稽古の相手は、同じ汐見大学の柔道部だった。向こうは大所帯なので、今回は六人だけに絞ってもらっている。
階段を上ってくる足音がした。
みし、みし、と古い段板が鳴る。いちばん重い足音が途中で止まり、低い声が上がってきた。
「岳。ここの階段、なんか狭くなってないか」
「なってねえ。ブチが広くなったんだよ!」
宮下先輩が入口まで迎えに出た。
先頭の男と拳を合わせ、そのまま互いの肩を一度ぶつける。どちらも、ぶつけられたくらいでは位置が変わらない。大きな身体が二つ並ぶと、引き戸の幅だけが急に頼りなく見えた。
「畳、青っ」
後ろから来た柔道部員が言った。
「青いな」「青いですね」「青い」
六人が口々に同じ感想を述べるので、なぜか俺たちの側が少し誇らしくなった。
矢野が最後の一人を数え、名簿へ線を引いた。
「十五」
「余裕だな!」
宮下先輩が言った。
「上限いっぱいですよ。余裕はありません」
「余裕で、上限いっぱいにして見せたんだよ。お前が」
「それはまあ、副将の仕事ですので」
「頼もしいな!」
全員の名前を確かめ、矢野がバインダーを閉じた。
宮下先輩の友人、岩淵さんは柔道部の三年生で、副将だった。公称九十キロ。
見上げるほど背が高いわけではない。だが、肩から腰までが厚い。身体に重なる三角形は低く、裾野が広かった。外にある三つの光も、遠くへ逃げず、畳の近くにどっしり居座っている。
山だ、と俺は思った。
山は入口できちんと靴をそろえ、俺たちへ丁寧に頭を下げた。
礼のあと、八雲さんが稽古上の決まりだけを短く伝えた。
投げを行う組は一組ずつ。互いに受け身を確認する。無理に勝負を決めず、崩しと体捌きを中心にする。
準備運動から、文化の違いはよく分かった。
柔道着は、こちらの道着より厚い。襟を借りてつまんでみると、指先で布を折るだけでも力が要る。立礼は浅く、鋭い。打ち込みでは、四人の足がほとんど同時に畳を踏んだ。
最初に投げを試したのは、宮下先輩と岩淵さんだった。
「軽めにな」
「岳が?」
「お前が」
襟と袖を取り合う。
宮下先輩の身体が前へ出た。岩淵さんの足が、その勢いの下へ入る。次の瞬間、宮下先輩の大きな背中が畳へ落ちた。
どん、と腹の底まで届く音がした。
道場にいた全員の視線が、一度だけ床へ落ちた。
岩淵さんの手は、最後まで宮下先輩の袖を引き上げていた。頭も肩も強く打たせていない。投げられた宮下先輩はすぐに起き、畳を二度叩いた。
「よし! 床は抜けてねえ!」
「不安になること言わないでください! ちょっと葛西!」
紺野さんが声を上げた。
「なんですか」
「この建物、ほんとに大丈夫なんでしょうね」
「なんで俺に訊くんですか」
何となく笑いが起きたが、みんなどこか真剣に俺の返事を待っているようでもあった。
「俺に見える範囲では、今までと同じですよ。床の強さまでは分かりませんけど」
「そんならいいのよ」と紺野さんはあっさり言った。
「彼、ご意見番なの?」と岩淵さん。
「たまに、俺たちより先に異変に気づくんだ」と宮下先輩が言った。「あとは決まりを守ってやるだけだな」
そんなに信用されても困るが、見えるものがいつもと同じなのは本当だった。
八雲さんが次の組を呼んだ。
受け身の掌が、たん、ぱん、と畳を鳴らす。大きな身体が落ちると、その下から、どん、と低い音が響いた。
三日間、人の消えていた会館に、畳の音が戻ってきた。
前半は、襟や袖を取られたところから位置を変える稽古になった。
矢野が次の組を呼ぶ。
「岩崎さん、お願いします」
声の途中で、向こうの畳がどん、と鳴った。
「ん」「はい」
低い声と澄んだ声が重なった。
「おい、ブチ。お前のどこが岩崎さんなんだ」宮下先輩が言った。
「だって、岩って」
名字の後半が聞こえなかったらしい。
「一文字しか合ってねえだろ。その図体で」
「図体の話なら、岳もこっち側だろが」
宮下先輩は岩崎さんを見て、岩淵さんを見て、自分の肩幅を確かめた。
反論に使えそうなものはなかった。
「……よし。こいつはブチ。そんで、岩崎さんは……」
宮下先輩が一度、息を吸い直した。
「すずちゃん、でどうだ!」
「ためが入ったな」と岩淵さん。
「ためてねえ! すずちゃんはどうだ!」
「だめです」
隣で来栖さんと組んでいた紺野さんが即答した。
「すずちゃんは、私たちがすずちゃんを呼ぶときの呼び方なんですよ」
紺野さんと来栖さんが顔を見合わせた。
「ねー」
声がそろった。
岩崎さんは小首をかしげ、肩を少しすぼめた。顔つきは分からないが、照れているようだった。
「つまり、なんだ。お前ら、独占か」
「はい」
紺野さんが答え、来栖さんも頷いた。
「お前ら……独占禁止法で死刑になるぞ」
「なるわけないでしょ」と紺野さん。
「仕方ない……岩崎さんは岩崎さんで」
岩崎さんはもう岩淵さんへ向き直っていた。
「ブチさん、お願いします」
「俺のほうは即決か」ブチさんは笑った。
右襟を取られた岩崎さんは、しばらくその手を見ていた。
「痛くないですか」
ブチさんが訊いた。
「大丈夫です。もう一度、同じところを持ってください」
いったん離れた太い指が、同じ場所へ戻る。
岩崎さんは手首を返した。ブチさんの手は外れない。肘を入れてみる。襟の布が少しねじれただけだった。力を入れ直すたび、かえって肩が上がり、足が畳へ縫われていく。
ブチさんは引き倒そうとはしなかった。ただ、逃げた方向へ半歩ついていく。その半歩が速い。九十キロの身体が、岩崎さんの正面を外さないまま、静かに場所を変える。
「もう一回、お願いします」
岩崎さんは、今度は自分から最初の位置へ戻った。
指ではなく、腰から向きを変えた。襟を引かず、取られている場所を残したまま、その下から身体を抜こうとする。ブチさんの肘が少し伸び、岩崎さんの右肩が外へ出た。
だが、襟はまだつかまれている。
「もう一回」
三度目は、ブチさんが左の袖も取った。
岩崎さんは一瞬、目を丸くした。すぐに顎を引き、右へ行くと見せて左へ足を置く。袖の手が外れた。襟の手も指二本ぶん浮いたが、そこからブチさんが身体ごと向き直り、また正面をふさいだ。
岩崎さんの口から、短い息が漏れた。
悔しそうにも、笑ったようにも聞こえた。
「交代です」
矢野が告げた。
「あと一回だけ」
「一組四分です」
「もう四分たったんですか?」
岩崎さんは壁の時計を見た。本当に意外だったらしい。
ブチさんが襟から手を離し、太い指を開いた。
「俺も二分くらいだと思ってました」
「次は両方、外します」
「はい。次はこっちも外されないようにします」
そうして、互いに礼をした。二人の中で、次があると決まったようだった。
岩崎さんが壁際へ戻ってきた。息が少し弾んでいる。
「最後、襟の手も浮いてたよ」
俺が言うと、岩崎さんは足を止めた。
こちらを見て、帯の結び目を一度押さえた。
「じゃあ、次は切ってみせます」
水筒を拾うと、もうブチさんのほうを見ている。声の端だけが、少し上を向いていた。
休憩に入ると、上の階から軽い足音が下りてきた。
美晴だった。
「下、あとどれくらい?」
「三十分くらい!」
宮下先輩が答えた。
「分かりました! 今日、柔道部の人もいるんですね。道理で、譜面台が少しずつ窓のほうへ歩くわけだ」
床の振動がいつもと少し違うのだろう。
「悪いけど、ちょっと窓から離しといてくれる?」と俺は言った。
「はあい」
美晴は引き戸の外から道場を覗き、岩崎さんと目が合うと軽く手を上げた。
「岩崎さん、お疲れさま」
「お疲れさまです」
岩崎さんは水筒を持ったまま、いつもの調子で会釈した。
美晴は俺に向き直った。
「終わったら連絡ちょうだい」
「分かった」
「じゃあ、またあとで」
それだけ言って、三階へ戻っていった。
休憩が終わった。
「葛西、いけるか!」
宮下先輩に呼ばれた。
「はい」
「ブチ、次こいつ。受け身はうちでいちばん多く取ってる」
「お褒めに預かりまして」と俺は進み出た。
「おう、褒めてるぞ!」と宮下先輩は言った。
ブチさんと向かい合った。
礼をする。
「さっき見てました。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
ブチさんの右手が、俺の左襟を取った。
厚い指だ。握りつぶすような力ではない。それでも、襟の一点が動かなくなると、鎖骨から腰まで、俺の身体の置ける場所が急に少なくなった。
左手が袖を取る。
ブチさんが引いた。
俺は外へ足を置き、焦点を外した。三角形が床へ置き直される。外接円の縁へ足を運び、三つの粒が並ぶ場所を探す。
シムソン線は出た。
そこへ入ろうとしたときには、ブチさんの右足がもう場所を変えていた。
三角形が向きを変える。外接円がずれる。
さっきまでの線は、俺の踵の外へ逃げた。
追って半歩出た。
ブチさんは、その半歩にもついてきた。
山は、形を保ったまま、素早く動いた。
襟が上へ引かれ、袖が横へ運ばれた。俺の足が畳から離れる。視界が一度回り、背中が落ちた。
どん。
俺の背中も、畳を低く鳴らした。
ただ、衝撃は大きくない。ブチさんが最後まで袖を持ち、落ちる速さを殺してくれた。
「大丈夫ですか」
「はい」
起き上がる。
「親切な投げ方ですね」
「その褒め方は、ちょっと変な感じですね」
二本目。
今度は、先に円を決めないようにした。
取られた襟から来る圧を受け、ブチさんが動いてから足を置く。
だが、待てば間に合うというものでもなかった。俺が右へ外れれば、ブチさんの胸が右へ向く。左へ回れば、袖の手が短くなり、別の足が前へ出る。
ひとつの形ができたと思うたび、次の形がその上へ重なった。
俺は袖をたぐろうとした。その手に力を入れた瞬間、ブチさんの腰が沈んだ。
また足が浮かされた。
今度は横から畳へ落ちた。掌で受け身を取る。ぱん、という音のすぐあとに、俺の背中が、どん、と鳴った。
立ち上がると、矢野が残り時間を見ていた。
ブチさんも、いったん手を下ろしかけた。
「もう一回!」
壁際から声がした。
岩崎さんだった。
自分の番ではないことに、声が出てから気づいたらしい。水筒を両手で持ったまま、少しだけ姿勢を正した。
「……すみません。私が言うことじゃなかったです」
ブチさんが笑った。
「いや、俺も、もう一回やりたいです」
「葛西は?」と宮下先輩。
「お願いします」俺は言った。
矢野が八雲さんを見た。
八雲さんが一度だけうなずいた。
「一本だけです」
「副将、話が分かるな!」
「一本だけです、主将」
三本目。
また襟と袖を取られた。
ブチさんの握りはさっきまでと同じだった。俺は左手で、ブチさんの右袖を取る。だが、ブチさんの足はもう、さっきまでと同じ場所にはいない。
俺は、先に答えを置くのをやめた。
襟の圧が変わる。袖が引かれる。ブチさんの胸が向き直る。俺の足も動く。
一つを見てから次を見るのではなく、その全部を視界の中へ残した。ブチさんの三角形。足の位置。床へ置き直される三角形。動く円。自分の肘と踵。
どれかが止まるのを待っていたら、また投げられる。
だから、止めない。
俺が左へずれると、ブチさんが正面を保つために向きを変えた。九十キロの重さが、片足からもう片方へ渡っていく。その途中で、床の三角形と外接円のあいだに、見慣れないものが浮かんだ。
線ではなかった。
円だ。
だが、全部ではない。薄い弧だけが見えた。
ブチさんの踏み出す足の先と、俺の引いた足の脇をつなぐように、ほんの短いあいだだけ光った。
見えたから動いたのか。
動いていたから見えたのか。
考える時間はなかった。
俺は左へ逃げるのをやめ、向き直るブチさんの懐へ斜めに一歩入った。
取られた襟を引き戻さず、袖を取られた右肘を落とす。左手に持ったブチさんの袖は、腰が向きを変えるぶんだけ運んだ。腰と足と手が、途中でばらけずに進んだ。
ブチさんの大きな胸が、俺の肩の横を通った。
山は、その重さのまま、行く先だけが変わった。
ブチさんの足が畳から離れた。
俺は袖を離さず、最後まで身体の向きを変え続けた。
どん。
ひときわ大きな音がした。
ブチさんは仰向けのまま、しばらく天井を見ていた。
俺は、握っている袖を見ていた。強く押した感触も、引き倒した手応えもない。けれど、足は確かに動いていた。腰も腕も、最後まで働いていた。
ブチさんが上体を起こした。
「……なあ、岳」
「おう!」
「今の、どういう技だ。俺が自分で転がったような気がするんだが」
「きれいだったぞ!」
「感想じゃなくて、何が起きたか解説してくれ」
宮下先輩が俺を見た。
「葛西、説明!」
「俺も、途中からしか分かりません」
ブチさんが立ち上がった。
不機嫌な様子はない。むしろ、さっき岩崎さんと組んでいたときより、声が少し弾んでいる。
「もう一回、お願いします」
今度はブチさんのほうから頭を下げた。
矢野が口を開くより早く、八雲さんが言った。
「確認だけだ」
四本目。
ブチさんは、右ではなく左で俺の襟を取った。間合いも近い。
俺はさっきの弧を探した。だが探した途端、見えなくなった。
同じ場所へ足を置こうとして、足だけが先に出る。腰が残る。ブチさんの重さが襟からまっすぐ入り、俺は片膝をついた。
「そこまで」
八雲さんの声がした。
ブチさんはすぐに手を離した。
「すみません」
「いえ。今のは俺が、さっきの真似をしようとしたんですけど、よく分からなくて」
「じゃあ、次までの課題ですね」
「次もあるんですね」
「あるでしょう。同じ大学なんで」
ブチさんは当然のように言った。
俺たちは礼をした。
壁際へ戻ろうとすると、八雲さんが俺を呼び止めた。
「葛西」
「はい」
「今、何を見た」
俺は床を見た。
もう、三角形と外接円しかない。さっきの短い弧は、どこにも残っていなかった。
「よく分かりません。円の端っこみたいに見えました」
「いつ見えた」
「分かりません。動く前だったか、動いたあとだったか」
八雲さんは、それ以上訊かなかった。
「そうか」
道場の反対側で、宮下先輩がブチさんを手招きしていた。
「最後、俺と一本!」
「軽めにな、岳」
「お前がだよ!」
二人が組む。
すぐに、どん、と畳が鳴った。
古い床が一度だけ軋み、その上へ、柔道部と合気道部の笑い声が重なった。




