建物の健康診断
建物の健康診断には、問診票の代わりに図面を使うらしい。
十月末の月曜日、休館日の旧文化会館のロビーには長机が二台並べられ、その上に何十枚もの大きな紙が広げられていた。一枚は、六十年前の手描き図面を焼いた青図。事務室にあった唯一の図面だ。
その隣には、大判のコピー用紙の束。約二十年前に実施された耐震改修の「竣工図」——完成図である。会館の保存方針が決まったのを受けて、市の文書庫から運び込まれたものだという。
九月末、市議会で会館を「残す方針」が決まってから、一か月近くが経っていた。
七月のまつりの二百八十六人の来場実績と、商店街から集めた署名。それらが解体の流れを押し戻したのだ。だが、残すと決まったからといって、建物が直ちに丈夫になるわけではない。市が改修の予算を組むためには、どこをどう直せばいいのか、二十年前の補強がどう効いているのかを、正確に調べ直す必要があった。
「葛西くん、お茶、ここ置くよ」
常盤さんが湯呑みを二つ、机の端に置いた。
「すみません、常盤さん。休館日なのに」
「それはこちらの言葉だよ。わたし一人じゃ図面も運べんからね。市の建築指導課から、耐震の詳細診断が入るから立ち会ってくれって言われてさ。権藤さんも来てくれるって言うし」
肌寒い朝だった。人のいない一階の板の間からは、しんとした冷気が足の裏へ上がってくる。
玄関の引き戸がからからと鳴り、男たちが上がってきた。
先頭は、作業着の上にウインドブレーカーを羽織り、首から巻き尺のストラップをぶら下げた四十代半ばの男だった。市から診断を委託された、一級建築士・神谷さん。手にはA3のバインダーとレーザー距離計を持っている。
後ろから、開口部を即座に塞ぎ直すための内装職人と、そして擦り切れた腰袋を肩に担いだ権藤さんが入ってきた。
「おう、兄ちゃん。早かったな」
「おはようございます、権藤さん」
「神谷先生、こいつが手元の葛西じゃ。何でも使ってやってくれ」
「神谷です。よろしくね、葛西くん」
神谷さんは穏やかに言い、会釈した。
「今日はあらかじめ許可を取って、壁の試験開口を数か所行う予定なんだ。少し埃っぽいところもあるけれど、手伝ってもらえると助かるよ」
神谷さんは長机の完成図を広げ、色鉛筆を抜いた。
「じゃあ、始めましょう。まず、二十年前の改修図で、主要な耐力壁として計上されている箇所を確認します。改修図の中でも、補強量の大きい箇所の一つです」
図面が指し示された。一階の東側——ロビーから奥へと続く、長い通路の外壁側だ。図面には『東面一〜四区画・筋交い新設・外壁側構造用合板張り』と注記され、太い斜線が四つの区画にわたって引かれている。「ここが図面通りに効いているかどうかが、今回の診断のベースになります」二十年前の書類では、この四区画はすべて施工済みとなっている。
全員で東側の通路へ移動した。淡いベージュの壁は、見た目には狂いも綻びもない、ただの静かな壁である。壁は柱と柱のあいだ——約一間ごとに、四つの区画に分かれていた。
表面の長方形には、それぞれ真ん中に、小さな白い光が一つずつ灯っていた。南から順に、第一区画、第二区画、第三区画、第四区画。四つの光が、等間隔に並んでいる。
板の形としては問題なく見える。 だが、四つの区画をひと続きの骨組みとして眺めたとき、違和感に気づいた。図面どおり、四つが同じ仕事をしているなら、薄い一点は壁の中央近くに収まるはずだ。だが、点は明らかに南へずれ、第一区画の側へ寄っていた。壁の中に何があるのかは、俺には見えないが、四つが同じ働き方をしていないことだけは分かった。
「……神谷さん」俺は思わず口を開いていた。
「どうした、葛西くん」
「この壁、手前と奥で、同じ働き方をしていないように見えます。手前のほうへ寄っています」
神谷さんはレーザー距離計を下ろし、図面を見直した。
「いや、図面を見る限り、四区画は同一仕様だよ。柱も筋交いも交互に配置されて、釣り合いが取れているはずだが」
横で腕を組んでいた権藤さんが、ふっと顎を動かした。
「兄ちゃん。どっちに寄っとるように見える」
「南です。一番手前の、第一区画のほうに」
権藤さんは何も言わず腰袋から金づちを抜いた。樫の木の柄の尻で、壁をコン、コンと叩いた。第一区画の中央から、中身の詰まった、手応えのある音が返ってくる。権藤さんは二歩、奥へ歩いた。第二区画。同じように柄の尻で叩く。
ポコン。音が、抜けた。
「おや」神谷さんの眉が、かすかに動いた。
ポコン、ポコン。
さっきより明らかに軽く、空洞を響かせるような音が通路に返った。
第三区画、第四区画も叩く。ポコン、ポコン。
「……音が、違いますね」神谷さんが言った。
「合っとらんな」権藤さんはしゃがみ込み、床と壁の境目にある巾木を指でなぞった。
「常盤さん。二十年前の図面じゃ、巾木も新しく付け替えたことになっとるか」
「ええと……はい。『巾木、既存撤去のうえ新規留め付け』って書いてあるね」
「合わんな。少なくとも、この区画は図面に書いてある仕事と合わん」権藤さんは、巾木の角を親指の腹でこすった。「この角の丸みも、手鉋の跡も、六十年前の栂のままじゃ。図面じゃ新規に付け替えたことになっとる。少なくとも、仕上げまで図面どおりにやった仕事じゃない」
通路の空気が、急に冷たくなった。
「開けてみましょう」
神谷さんが言った。
「予定していた試験開口です。一区画目と、二区画目を開けます」
事前調査を済ませた壁に、内装の職人が集塵機をつないだカッターを入れた。
化粧板と石膏ボードが、四角く切り外される。
まず、第一区画。板が外されると、奥の外壁側構造用合板を背にして、図面どおりの太い松の筋交いが斜めに通っていた。柱との頑丈そうな鋼製の筋交いプレートが、柱と土台へ付けられていた。
「……図面通りに入っていますね」
神谷さんが言った。
「ああ。ここは仕事がしてある」
権藤さんも頷いた。完成図通りだった。
だが、第二区画の板が外された瞬間、職人の手が止まった。
「おいおい……」
職人が呟いた。神谷さんがペンライトの光を差し入れた。何も入っていない、わけではなかった。だが、そこにあるものは、第一区画にあったような太い筋交いではなく、細い小割の角材だった。
鋼製のプレートも見当たらず、角材の端が、六十年前の古い柱に丸釘で斜めに留められているだけだった。背面に新しい合板はなく、六十年前の木摺がそのまま残っている。
「……筋交いプレートがありませんね」神谷さんの声が低くなった。
「材の寸法も足りない。この仕様では、完成図に計上された耐力は見込めません」
権藤さんが指を入れ、材を軽く揺すった。
こと、と乾いた音がして、斜めの木が動いた。
「効いとらん」
権藤さんは言った。
「突っ込んであるだけじゃ。兄ちゃん、三つ目と四つ目も、これと同じか」
俺は奥の壁を見た。薄い光は、依然として第一区画のほうへ引っ張られたままだ。
「……第一の区画と同じ働き方が、奥まで続いているようには見えません」
権藤さんがノミを手に取ろうとしたが、神谷さんが静かに手を上げた。
「そこまでにしましょう」
神谷さんは開口を制した。
「ここから先は予定の開口ではありません」
仕事を放り出すような調子ではなく、淡々とバインダーを取り出し、開いた二箇所の寸法や材料を手帳へスケッチし始めた。小型のカメラを取り出し、接合部の写真を何枚も記録する。
「三つ目と四つ目の中身は、まだ断定できません。ただ、第一区画と第二区画で仕様が違う。これで、この竣工図を前提に調査を続けることはできなくなりました。設計変更か、施工不良か、図面の誤記か、検査の問題か。それを含めて、一度、調査を組み直した方がいい」
通路が静まり返った。
職人が手際よく、開口部に採寸した合板をビスで仮留めしていく。
「三十年、見回っとったんだけどね……」
常盤さんがぽつりと呟いた。壁の白い表面を見つめたまま、動かない。
その背中に、権藤さんが声を落とした。
「誰も、壁の中まで見回れはせんじゃろう」
常盤さんは息を小さく吸い、それから振り返った。俺を見た。
相貌失認の俺には、その顔がどんな表情を結んでいるのかは分からない。ただ、声の掠れ具合と、小さく縮んだ肩の線で、この人の足元がどれほど揺らいでいるかが伝わってきた。
「葛西くん」
「はい」
「これから、ほかにも変に見えるところがあったら、先に言ってくれるかい」
「はい。でも、何が変なのかまでは、俺には分かりません」
「分かるところだけでいい。君が見えることだけでいい。教えておくれ」
「はい」と俺は答えた。
道具を片付け、神谷さんたちが去っていくのを見送った。
仮留めされた二つの四角い板の上には、それぞれ真ん中の白い光が、何事もなかったかのように静かに灯っていた。




