紙の上の円
十一月の月曜日、俺は講義のあとで理玖をつかまえた。
「理玖」
経済学部と理学部である。
講義棟が違うため、学内で出くわすことはあまりないが、今日は俺が理学部に出向いていった。
「葛西。久しぶりだな。その後、何か新しいものは見えたか」
その後というのは、柔道部との合同稽古のあと、ということだ。あの稽古で、ブチさんの足元に円の端っこのようなものが見えたことは、メッセージで伝えてあった。
「まだ見えない。だけど、もしかしてと思うことならある」
「フォイエルバッハだな」
「うん」
同じことを考えていたようだ。
「今日、時間ある?」
「ある。が、今日はメロンソーダって感じではないな」
理玖は少し考えてから、言った。
「うちに来るか。紙も道具もある。デッサン人形も役に立つかも知れん」
大学から汐見駅まで十五分歩き、電車で四駅。降りた駅からも、住宅街を十分ほど歩いた。
玄関で理玖がただいまと言うと、奥から女の人が出てきた。
「母さん、高校から一緒の葛西」
「初めまして。葛西湊です。入院してたときには、理玖にお見舞いまで来てもらって」
「ああ、葛西くん。いらっしゃい。もうすっかりいいの?」
「はい。体はもう。ものの見え方には、少し影響が残ったんですけど」
「あら、後遺症? 大丈夫なの?」
「それがなかなか面白いんだ」と理玖が言った。「今日はその話をしに来てもらった」
「病室では、講義のプリントの話ばかりだったけどな」
「あれも大事な話だった」
理玖のお母さんが笑った。ゆっくりしていってね、と言われ、俺は、お邪魔します、と頭を下げた。
階段を上がりながら、俺は少し笑った。
「なにか笑うようなことがあったか」理玖が訊いた。
「うん、お前も家に帰ったら、ただいま、なんて言うんだなと思って」
「よく分からないが……普通、言うんじゃないか」
「そう、それだ。理玖が普通だったことが面白かったんだ」
「やはりよく分からないが……俺は普通だと思うぞ。お前の目に比べれば」
それはまあ、そうかも知れない。
部屋には、本棚とベッドと、古い学習机があった。机の端には、シールを剥がした跡がいくつも残っている。
本棚が、学習机の脇から窓の手前まで続いていた。
理玖が古書堂で取り寄せた『整数論講義』の函は、角の丸くなった幾何学の本に挟まっている。
その隣に厚い物理の教科書。
別の段には、劇場の断面図を表紙にした建築の本と、部屋の残響を調べる本が並んでいた。四月に会館の大広間で、美晴たちの音出しを聞いたときのことを思い出した。
「音響が好きなのか。音出しのときも何か手を叩いて調べてたもんな」
「興味はある」
下の段には、背のまだ新しい、古武道の足運びを扱った本があった。付箋が何枚もはみ出している。
「へえ、古武道」
「お前が稽古の話をするからな。足の運びは図だけじゃ分からん」
「分かった?」
「あんまり」
横には『遠野物語』と、土地ごとの怪談を集めた聞き書きが並んでいた。
「怖い話」
「怖い話だ」
小説の並ぶ一角には、『ドン・キホーテ』や『罪と罰』、漱石の文庫があった。新しい小説は見当たらない。
「小説は古いものばかりだな」
「古典は時代の試練をくぐってる。外れを引くことが少ない」
「だけど、それだと今まさに時代をつくってるものに触れる機会がないんじゃないか」
俺は自分の流行遅れを棚に上げて言った。
「お前、ツバメ古書堂のばあさんみたいなことを言うんだな」
「おばあさんに、そんなこと言われたのか」
「ああ。新しい本も読め、と。自分の店は古い本ばかり扱ってるくせに、変なばあさんだ」
「あのおばあさん、損得とかあんまり考えてなさそうだもんな」
三千円分の商品券を、断りきれずにもらった日のことを思い出した。
「たしかにな。だが、俺の時間は限られてる。あと百年あるかないかだ。外ればかり引いてはいられない」
「何歳まで生きるつもりなんだ」
「俺の知りたいことが、多少は分かるまでだ。さて、やるぞ」
理玖は押し入れから低い机を出して、床に置いた。俺も向かいに座り、鞄から、ツバメ古書堂で買った幾何学の本を出した。
理玖は白い紙に三角形と、それを囲む円を描いた。それから、本棚の脇に置いてあった木製のデッサン人形を取った。以前、俺の部屋へ持ってきたやつだ。
図のそばの余白に、人形を台ごと置く。
さらに本棚の上から、赤と銀のロボットを下ろしてきた。胸の塗装が剥げ、左肩の飾りが一つ欠けている。人形の向かいに、両足を開いて立たせた。
「そっちは?」
「超激破壊神スラッシュ。小学生のとき好きだった」
「お前も、こういうの好きだったのか」
「だから普通だと言ってるだろ」
扉を叩く音がして、理玖のお母さんが顔を出した。盆には、紅茶のマグカップが二つと、クッキーを載せた小皿があった。
「ここ、置いても大丈夫?」
理玖が紙を少し手前へ寄せ、机の隅を空けた。
「ありがとうございます」
お母さんはカップを置くと、ロボットに目を留めた。
「あら、懐かしい。それ、お風呂にまで持って入ってたのよ」
「そこまでは話さなくていい」
「はいはい。冷めないうちに飲んでね」
お母さんが出ていくと、理玖は何事もなかったようにロボットの足を揃え直した。
それから、二体を順に指した。
「デッサン人形がブチさん。スラッシュがお前。紙の図は、ブチさんの足元に見える三角形と外接円」
「うん」
「形は仮でいいとして、お前はどこにいた」
俺はロボットを、円の縁の近くへ置いた。人形の膝を少し曲げ、両腕をロボットに触れさせる。右手で俺の左襟を、左手で袖を取った格好である。
「はじめは、こんな感じだ」
人形には、どういうわけか、人間のような七つの光はない。木の丸い頭や、ロボットの角張った胴に、物としての薄い光があるだけである。
「俺が左へ動くと、ブチさんもついてきた」
俺はロボットを、左腕のある側へ少しずらした。
理玖は人形の右足を前へ出し、台ごと少し向きを変えた。人形の胸が、またロボットへ向く。
「こんな感じか」
「そう。ブチさんの襟を取ってるから、俺の肩もそっちへ持っていかれる。それで、もう一度足を置き直した」
「弧が見えたのは?」
「その途中。ブチさんの踏み出す足と、俺の引いた足のあいだだ」
俺は鉛筆を借り、円の内側に短い弧を描いた。
「先にこれが見えて、そこへ動いたのか」
「それが分からない。見ようとして出したんじゃないんだ。動いている途中で見えてることに気づいた」
「そのとき、どこを見てた」
「焦点を外してた。シムソン線を見つけるときの見方で。視界には、ブチさんの胸も、足も、床の図も、全部入ってる」
俺がロボットを動かすと、理玖は人形をもう一度、そちらへ向き直らせた。
俺は二体の足元を見た。木の脚もロボットの脚も動いたが、紙の三角形も円も、同じ場所にある。
「でも、これじゃ、図が止まったままだな」
俺は言った。
「本当なら、ブチさんが足を踏み替えれば、三角形は向きも形も変わる。円もずれる。俺は、それを見続けていたんだと思う」
俺は紙の端に触れた。
「回してみようか」
「なら、こっちにしよう。今描いた弧が邪魔になる」
理玖は人形とロボットを机の端へ移し、別の紙を出した。新しい紙に、三辺の長さが違う三角形を描いた。その中と外に、七つの光が点っていた。
焦点を外してみたが、止まった紙には七つの光しか見えない。
「外心と垂心を教えてくれ」
理玖が言った。
俺が二つの光を指すと、理玖はそこへ小さな印をつけた。定規で二つを結び、その真ん中にNと書く。
「ここが九点円の中心だ。ここを押さえて回す」
円の輪郭は描かなかった。Nの字にも、新しい光は点らない。
理玖は左の人差し指でNを押さえ、右手で紙の端を送った。三角形が、ゆっくり回り始めた。七つの光も、紙と一緒に動いていく。
俺は外側の一つを目で追った。
はじめのうちは、光が移るだけで、何も出なかった。
だが、その一点を追うのをやめ、どの光にも焦点を合わせず、回る三角形ごと視界に残していると、やがて薄い弧が浮いた。
理玖の指のまわりに、淡い光が曲がっていた。
三角形の辺は回っているのに、その弧は同じ場所に留まっている。鉛筆の線が、弧の上を通り過ぎた。
「出た」
「どこだ」
「お前の指のまわり。だけど短い」
理玖は紙を送り続けた。
俺も、弧の端だけを追わず、図全体を見続けた。
一瞬、輪の全体が見えた。
「見えた。円になった」
理玖の指を囲む、小さな円。七つの光より淡いが、鉛筆では一度も引かれていない輪郭が、全部見えた。
理玖の手が止まった。
俺も身を乗り出してしまい、輪を見失った。七つの光は残っていたが、円の輪郭はもうなかった。
「もう一回。今度は俺が回してみる」
俺はNを押さえ、紙の端を送った。
最初は、自分の右手が気になった。顔を引き、三角形全体が入る距離へ戻すと、また薄い弧が出た。
逆向きに回しても、見えた。
「たしかに、動いている方が形をつかみやすいことは、ありうる」
理玖が言った。
「俺の目じゃなくても?」
「たとえば、曲げた針金の影をスクリーンに映す実験がある。止めておくと平たい線に見えるが、針金を回すと、影に奥行きが見えてくる」
「影が平たいままでも?」
「そう。脳が動きを手掛かりに、立体の形を捉える。お前に起きていることも同じ仕組みかどうかは、まだ分からんが」
俺は紙を回しながら、薄い輪を見た。
「円だけ止まって見える」
「押さえているところが中心なら、そう見える。じゃあ、次は中心の印なしでやろう」
理玖はもう一枚の紙に、横に長い三角形を描いた。さっきの紙と本を、脇へ退ける。
「円が見えたら、その上に三つ、印をつけてくれ」
俺は紙の端に近いところを押さえて回した。
今度は、見えるまでに何度もかかった。薄い円も三角形と一緒に場所を移るので、視線がばらつくのだ。
何とか見えるたびに紙を止め、直前まで見えていた弧の上へ短い印をつける。回し直して、もう一つ。さらに、もう一つ。
三つそろってから、理玖が定規とコンパスを取った。
外心と垂心を作図し、その中点にコンパスの針を置く。三角形の一辺の中点まで脚を開き、円を描いた。
鉛筆の線が、俺のつけた三つの印を通った。
「これだ」
俺は、描かれた円を指した。
理玖も、三つの印を順に見た。
「この紙の上では、九点円でよさそうだな」
「畳の上のも、これかな」
「そこはまだ分からんが、可能性はある」
俺はうなずいた。
ブチさんのときは、もう一度見ようとしても駄目だった。それを思うと、今日は見ようとしてもう一度見られただけで収穫だった。
「動かして初めて見えるものがあるとは知らなかった。止めた方が、よく分かると思ってた」
「調べやすくはなる。だが、ベルクソンなら、それで動きまで分かったことにするなと言うだろうな」
「誰?」
「哲学者。止まった姿をいくつ並べても、動くことそのものにはならない、と考えた」
「足運びの本を見ても、分からなかったみたいな?」
「俺の読解力の問題もある。それは保留だ」
理玖は紅茶を一口飲んだ。俺もカップを取った。もう、湯気は立っていなかった。
理玖は本を開き、フォイエルバッハの図と、今描いた円を並べた。それから紙の端へ、今日の日付を書いた。




