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四年分

 大隈さんは、自分の引退演武の進行表を、自分で作っていた。


「それ、俺がやりますって言ったじゃないですか」

 宮下先輩が、壁の紙を見上げて言った。

「うん。だから、進行はお願いします」

「そういうことじゃなくて」

 大隈さんは、何か抜けているだろうかというように、紙を見直した。

 四年生三人の名前が、丁寧な字で並んでいる。高瀬、羽鳥、大隈。そのあとに挨拶と、新幹部の紹介と、写真撮影。終わる時刻まで書いてあった。


 秋季審査から六日後の土曜。

 いつもより早く来たつもりだったが、こういう日は、みな同じのようだ。部員たちは、そろい始めていた。俺は、軽く雑巾がけをすることにした。半分ほど濡らしてしぼり、乾きのよさを第一とする。

 動くと、茶帯の端が腿(もも)に当たった。新しい帯は、まだ腰に馴染んでいない感じがする。


「おはよう」

 高瀬さんが入ってきた。

 七月のまつりでは、ずっと一階と二階を往復していた人だ。あのときはシャツ姿だった。今日は道着の襟を合わせながら、壁の前で足を止めた。

「大隈、これ、ちょっと斜めだな」

「そう?」

 高瀬さんは進行表の端を押し上げた。一歩離れて確かめ、もう少しだけ戻した。

「こんなもんかな」

 

 その後ろから、羽鳥さんが大きな鞄を抱えて入ってきた。閉まりきらない鞄の口から、分厚い本の角が出ている。院試の勉強で来られない人、として覚えていた。

「重そうですね」と袴田さんが言った。

「道着だけなら軽いんだけどね」

 鞄を下ろすと、床がこつんと鳴った。


 三人が揃うと、宮下先輩は時計を見た。

「まだ時間あります! 身体、温めましょう!」

「宮下、聞こえてるよ」と高瀬さんが言った。


 羽鳥さんは足首を回し、畳の空いているところへ出た。片膝をつき、手を伸ばして、前へ転がる。とん、と一度、畳が鳴った。

 起き上がった羽鳥さんは、誰に言うでもなく言った。

「おお、いけるわ」

 袴田さんが場所を空けると、羽鳥さんは反対側でもう一度転がった。


  ※


 最初に、高瀬さんが来栖さんと組んだ。演武は三本。

 最初の一本では、高瀬さんが半歩ぶん深く入りすぎ、足を置き直した。二本目からはそれもなく、来栖さんが立ち上がるたび、二人は迷わず同じ間合いへ戻った。久しぶりでも、距離感は残っているらしい。

 三本を終えて列へ戻ると、高瀬さんは腿に手を置いて息を整えた。

「三本って、こんなにあったっけ」

「ありましたよ」

 来栖さんが笑った。


 続いて、羽鳥さんと袴田さんが中央へ出た。

 こちらも三本。羽鳥さんは、一本を終えるごとに少しずつ呼吸が早くなった。畳を離れていた時間は、技より先に、持久力に出たらしかった。

 羽鳥さんは礼をして戻ると、高瀬さんの隣へ座り、道着の胸元をぱたぱたさせた。

「暑いな」

「うん」

 開けた窓から入る風は、もう十月の終わりの風だった。俺たちは座っていると足先が冷えたが、二人の襟元は汗で暗くなっていた。


  ※


「最後、大隈さん。受け、宮下」

 自分の名前を読み上げてから、宮下先輩が立った。

 大隈さんも立ち上がる。

 並ぶと、宮下先輩のほうがずっと大きい。道着の肩幅も、畳を踏む足も。その隣を、大隈さんは普段と変わらない歩幅で進んだ。


「大隈」

 八雲さんが呼んだ。

「最後だが、いつも通りだ」

「はい」

 大隈さんは中央に座り、宮下先輩と礼をした。


 正直に言うと、俺は、大隈さんの演武というものをうまく想像できずにいた。

 一緒に稽古をしたことは、何度もある。手首も取ったし、投げられた。基本に忠実で、手順が分からなくなると、同じところからもう一度やってくれる人だった。

 だが、どんな技だったかを思い出そうとすると、休憩を知らせる声や、予定を確認する姿の方が先に出てくる。畳の上より、畳の外の仕事の方が記憶に残る。そんな人である。


 宮下先輩が、正面から打ち込んだ。


 大隈さんの足が、斜めに入る。

 手は打ち込まれた腕に触れ、もう片方が肘の近くへ添う。宮下先輩の大きな肩が向きを変えた。大隈さんが進むと、宮下先輩の膝が折れ、広い背中が畳へ近づいた。

 一教。

 この技は何度もやっている。俺も、矢野も、岩崎さんたち一年生も。


 宮下先輩の手が畳を叩く。

 大隈さんが押さえを解いた。手を離し、立ち上がり、間合いへ戻る。宮下先輩が膝を起こしたときには、大隈さんはもう、その先にいた。

 急いではいない。宮下先輩も、急がされてはいなかった。


 反対側から、もう一本。

 同じ一教なのに、細かな所作が不思議と目を引いた。


 肘を押さえるところだけではない。大隈さんが膝をつくとき、道着の裾が畳を、すっ、と擦る。その小さな音までが、技の中に入っている。

 解いた手が、だらりと落ちることがない。かといって、見せるために構えているわけでもない。宮下先輩が起き、向き直るまで、その手は二人のあいだに残っていた。


 三本目は、手首を取らせた。

 宮下先輩の握力で掴まれると、まず、掴まれた場所のことを考えてしまう。

 大隈さんは足を動かした。

 握られた手首が、そのまま身体の前へ来た。宮下先輩の腕が伸び、大きな身体が回った。二人が同じ方を向いたかと思うと、もう、宮下先輩は受け身に入っていた。

 どん、と畳が鳴った。

 大隈さんの足は、その音の前から、そこに収まっていた。


 そのとき、俺は、はっとして背を起こした。

 大隈さんの三角形が、いつもよりはっきり見えたからだ。


 三角形の内側に四つ。

 その外に、傍心がひとつ。もうひとつ。

 俺は大隈さんの身体だけを追うのをやめ、周りの畳まで目に入れた。

 三つ目が、あった。


 大隈さんの傍心を、俺は初めて、三つともはっきり見た。

 初めて会ったとき、露光を三段落としたようだと思った光である。今日は、それがよく見える。

 三角形は崩れなかった。大隈さんが足を運ぶたび、身体と一緒に動いた。どこか一つだけが置いていかれることもない。その全部を連れて、大隈さんは宮下先輩の横へ入った。


 大きな身体が、反り返る。

 高くは飛んだりはしない。大隈さんの腕に沿って向きが変わり、腰が下り、丸くなった背中が畳に触れる。そこへ下りるのが自然だったように、宮下先輩は受け身を取った。


 誰も、声を出さなかった。隣の矢野は両手を腿に置き、紺野さんは背筋を伸ばしたまま動かなかった。

 俺たちは誰も、特別なものを待っていなかったと思う。この一本を見終わったら、次の一本も見たかった。

 窓の外を車が通った。道場の中では、足の裏が畳を擦る音がした。


 宮下先輩が、また立ち上がる。大隈さんの襟元に汗が滲んでいた。息を吐き、吸う。その呼吸のあいだに宮下先輩の手が来て、大隈さんの足が動いた。最後も、普段の稽古で見る技だった。

 立ち上がった宮下先輩は、もう打ち込まなかった。二人は向かい合い、膝をついた。

 礼をする背中を見て、終わったのだと分かった。


 大隈さんが、八雲さんへ向き直る。

 両手が畳についた。


「四年間、よく通った」

 八雲さんは言った。

 大隈さんの頭が、もう少し下がった。しばらく、そのままだった。


 体を起こしたとき、大隈さんの三角形と、いつもは薄くて見えない七つの光が静かにそこにあった。

 この人は、今日だけ七つ全部になったのではない。

 ずっと七つ全部で、ここにいたのだ。


  ※


 四年生三人が、前に並んだ。

 高瀬さんは膝の上で手を重ね、羽鳥さんはまだ少し、息を弾ませていた。大隈さんの声は、演武の前と同じ薄さだった。


「四年間、ありがとうございました。この部で良かったです。あと——」

 そこで一度、言葉が切れた。

 宮下先輩が、まっすぐ座り直した。

「気配が薄いのは、便利ですよ。こつこつ続けるのに、向いてます」


 高瀬さんが、隣でふっと吹いた。

 それで、俺たちも笑えた。

 大隈さんは、笑いが収まるのを待ち、いつものように小さく頷いた。


「あんまり来られなかったけど、戻ると必ず誰かいたので、助かりました」

 高瀬さんはそう言って、来栖さんたちの方へ頭を下げた。

 羽鳥さんは「今日、投げる方も残ってて、ほっとしました」と言った。

「明日は筋肉痛だと思います。ありがとうございました」

 その明日が少し羨ましいような気がして、俺は拍手をした。


 新しい幹部の紹介は、大隈さんがした。

「次の主将は、宮下くんです。そして、副将は、矢野くんにお願いします」


 宮下先輩が「はい」と答えた。

 隣で矢野が、少し遅れて返事をした。矢野も前もって話は受けていたらしい。それでも、いざ名前を呼ばれると、腰の新しい帯へ手をやった。


「本当に俺でいいんですか。紺野さんじゃなくて」

「いや、私より矢野でしょ」

 紺野さんは、すぐ言った。

「俺も、矢野くんがいいと思います」俺は言った。

「なによ葛西。あんた、私じゃ副将は務まらないって言うわけ」と紺野さん。

「はしごを外しに来るのやめてくださいよ」

 道場が少し笑った。それが収まるのを待って、俺は続けた。

「俺が入ってから、矢野くんが稽古を休んだのを見たことがありません」

「でも、紺野さんのほうが強いので」

「副将は、二番目に強い人って意味じゃないでしょ」

 矢野は口を閉じた。

 反論を探しているというより、その意味を確かめているようだった。


「そう。矢野くんは、四月から一日も休んでいません」

 大隈さんが言った。

「ああ……休むと、次に来るのが億劫になるので」

「うん。そういう人が一人いるとね、部は続きますから」


 矢野は、また帯の端に触った。それから、手を腿へ戻した。

「やります」

 短い返事だった。

 隣で聞いたその声は、普段より少し硬かった。


「では、新しい主将から、一言」

 大隈さんが宮下先輩を見た。


 宮下先輩は、胸を張った。

 口を開いた。

 何も出なかった。


 咳払いをひとつして、もう一度、口を開いた。

「えー」


 そこから先が続かない。

 あの身体に、それだけ息を吸って、どうして声が出ないのかと思うほど、胸が大きく上下していた。

「ちょっと、待ってください」

 宮下先輩はそう言って、道着の袖を目元へ押し当てた。


 来栖さんが下を向いた。笑ったのかと思ったら、鼻をすすった。

 俺は笑ってしまった。

 笑いながら、膝の上の手を握った。


「まだ、いますよ」

 大隈さんが言った。

「分かってます」

 宮下先輩の返事は、ひどく湿っていた。

 また少し待ってから、先輩は袖を下ろした。


「来週も、いつも通りやります。よろしくお願いします」


 最後のところだけ、ようやく大きな声になった。

「お願いします」と、俺たちの声が重なった。


  ※


「打ち上げ、何時からでしたっけ」

 岩崎さんが訊いた。

「六時半!」

 宮下先輩が答えた。もう、いつもの声だった。

「分かりました」

 岩崎さんが返事をし、その隣で、もう一人の一年生も頷いた。


 写真は、壁際の椅子にスマホを立てて撮った。

 前に四年生三人と八雲さん、小田島さん。その後ろへ俺たちが並んだ。来栖さんが画面を確かめて、列へ戻ってくる。

「宮下、もうちょっと左」と高瀬さんが言った。

「はい」

「行きすぎ」

 俺と矢野が、半歩ずつ詰めた。

 電子音がして、一枚の写真になった。


 それから椅子を戻し、壁の紙を外した。

 袴田さんが窓を閉め、岩崎さんたちが雑巾を洗いに行った。更衣室からは、高瀬さんと羽鳥さんの話し声がした。

 俺が着替えて戻ると、宮下先輩はまだ、ときどき鼻をすすっていた。


「大隈さんは?」

 訊くと、先輩は窓際を見た。

「そこにいなかったか」


 いなかった。

 荷物もなかった。

 来栖さんは、さっき麦茶を飲んでいたと言った。矢野は、更衣室で帯を解いていたと言った。どちらも、帰るところは見ていなかった。

 ほかの人にも訊いたが、誰も見ていなかった。


「最後まで、そうなんだからな」

 宮下先輩が言った。

 今度は、笑っていた。


 俺は鞄から人名鑑を出し、大隈渉のページを開いた。

 いちばん上には、「主将。声も光も薄い」と書いてある。

 それは消さず、末尾に足した。


 引退。光は薄いまま。演武で初めて、七つ全部を見た。四年分。

 去るときは、いつも通りに去っていった。

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