最初から、最後まで
今日の岩崎さんは、帯が気になるようだった。
端を引き、結び目を押さえ、道着の裾を撫でる。しばらくすると、またほどいて、同じことを繰り返した。
十月第三日曜。
県連盟から審査員が一人来る。
いつもの旧文化会館二階、いつもの青い畳。だが道場は、いつもより少し冷えて感じられた。
受審者は五人。俺と矢野が一級、紺野さんが初段。岩崎さんと、もう一人の一年生が、その下の級を受ける。
岩崎さんは経験者だが、少年部時代の級を継いでいない。受審級だけなら、もう一人の一年生と同じだった。
壁際に並んで座ってから、岩崎さんの手がまた帯へ伸びた。
「岩崎さん」
「はい」
「帯、さっきからずっと合ってるぞ」
岩崎さんは結び目を握った。
「見てたんですか」
「さっきから、三回かな」
「数えないでください」
「まだ直すところがあるのかなと思って」
「何となくです」
帯から離した手を、膝の上へ置く。だが今度は、指を組んだりほどいたりしはじめた。
「緊張してるのか」
「してません」
「そうか」
「……ほんの少しだけです」
審査開始の十五分前まで、道場にはまだ人の動きがあった。
「いいか、お前ら。審査は試合じゃない。普段どおりやれ、普段どおり」
宮下先輩が、五人を壁際へ集めて言った。
「俺は初段のとき、普段どおりでいようとしすぎて相手の名前を忘れた。お前らはそうなるな」
「それを聞いて、何に気を付ければいいんですか」
紺野さんが言うと、宮下先輩は少し考えた。
「とにかく気合いだ」
「ふわっとしすぎです」
紺野さんは一年生に向き直った。
「つまり、平常心と緊張感の両方を保てということよ。呼吸を深くしていなさい」
「それだ。さすがは紺野」と宮下先輩は言った。
板の間では、小田島さんが五つの湯呑みに麦茶を注いでいた。高さはどれも同じだった。
「こういう日はね、多い少ないがあると、気になるもんだから」
着替える前に、美晴から一通だけ届いていた。
『審査がんばれ』
その下で、犬が三匹、同じ高さまで跳ねていた。
美晴の傍心が、出張してきたみたいなスタンプだ。俺は読んで少し笑って、電源を切った。
八雲さんが俺の横へ来たのは、そのあとだった。
「葛西」
「はい」
「技の終わりが、いつも半拍早い」
「終わりが、早い」
「投げた瞬間に、お前の中で技が終わっている。本当の終わりは、もう少し先だ」
それだけ言って、八雲さんは離れていった。
心当たりはあった。
たしかに、投げが決まったと分かった瞬間、俺の中では答案を出し終えている。
視線が切れ、重さが後ろの足へ戻っている。
だが、そのもう少し先に何があるのか、本当のところはよく分からなかった。
九時半になった。
「整列」
八雲さんの声で、畳の上から人の動きが消えた。
受審者五人が下座の前列へ並び、ほかの部員がその後ろへ座る。道着の膝が畳を擦る音まで止むと、道場が広くなる気がする。
全員が正座したところで、八雲さんだけが立ち、入口まで迎えに出た。
県連盟から来た榊先生は、七十を過ぎた小柄な人であった。
道場へ入る前に、一度、八雲さんの名を呼んだ。
「透」
「先生」
八雲さんは礼をした。俺たちへ返すときより、ほんの少し深い礼だった。
俺はそれを、どこか不思議な思いで見ていた。
八雲さんにも、今のように教える側ではなく、ただ透と呼ばれて教わっていた時間があったのだ。
榊先生は、袴の裾さばきに音がなかった。縦に並ぶ四つの光は、研がれ続けた彫刻刀のように細い。外の三つも、手の届くところへ小さく畳まれていた。
榊先生が上座へ座ると、大隈さんが受審者名簿を差し出した。
榊先生はそれを膝の上で開いた。指が五人の名前を順に下り、途中で止まった。
「岩崎すず」
下座の前列で、岩崎さんの背筋が伸びた。
「はい」
榊先生は、名簿から顔を上げた。
「六年ぶりだ」
「……はい」
岩崎さんの手が膝を離れ、帯の結び目を一度だけ押さえた。
榊先生は再び名簿へ目を落とした。
そうか、と俺は思った。岩崎さんが子どものころ通っていたのは、八雲さんが以前、「俺の先生のところだ」と言った道場である。その先生が、いま上座に座っている。
名簿の確認が終わると、榊先生は紙を脇へ置いた。
八雲さんの声で、全員が礼をした。
※
一年生の審査から始まった。
名前を呼ばれ、岩崎さんが列を出ようとしたときだった。
「先輩」
「ん」
「私の番、見ていてください」
「見てるよ。見させてもらう。技は岩崎さんの方が先輩だからな」
「ううん。そういうのじゃなく」
「応援もしてる」
「はい」
少し下を向いて、正しい帯の結び目をもう一度直した。それから前を向き、もう一人の一年生と並んで畳へ出た。
二人が上座へ礼をする。
榊先生が最初の技を告げた。六年ぶりだからといって、その声がほかの受審者より柔らかくなることはなかった。
岩崎さんの唇が、小さく動いた。息だけの声で、呼ばれた技名を反復したようだ。
向かい合って、もう一度礼をする。
岩崎さんの三角形は、普段より縮んでいた。肩も、わずかに上がっている。
相手の一年生が、岩崎さんの手首を取りに来た。
指が閉じきるより先に、岩崎さんの後ろ足が動きかけた。手と足が、一瞬だけ別のものになる。技は、少し浅い円を通って相手を導いた。
左右を替える。今度は落ち着いていた。相手の手が届き、五本の指が手首へ収まる。その接触を待って、足が出た。動きが一つにつながった。
榊先生は何も言わない。岩崎さんも、できたという顔はしなかった。元の位置に戻り、次に呼ばれた技を、また唇だけで一度繰り返した。
稽古より、わずかに硬い。ただ、組むたびにほどけるようではあった。相手の力がどこから来るか。どちらの足を退けば、手と腰が一緒に動くか。触れたところから、自然と、順序が組み上がる。
取りと受けが替わった。
岩崎さんの受け身は、小さく、速い。掌が畳を打つ。ぱん、という音が消えないうちに足が収まり、もう次の動きへ移れる場所にいる。姿勢を崩すこともない。
一度は早く出た足だが、その後は二度と慌てなかった。
上座への礼を終えて列へ戻り、膝をそろえるところまで、俺は見ていた。
岩崎さんはこちらを見なかった。両手を腿の上に置き、次に呼ばれる組へ道を空けた。
※
「葛西、矢野」
俺たちは畳へ出た。
一級の審査では、同じ組で取りと受けを交代する。矢野が先に、取りを務めた。
一本目、矢野の手と足が、わずかに二つへ分かれた。足が作った場所へ、手が一瞬、遅れてやってくる。崩しが浅い。俺の重さが少し残った。
だが、矢野はそれを表に出さない。位置を戻して左右を替え、同じ技に入る。今度は足が着くのと手が導くのが同時だった。俺の重さは残らず、畳へ落ちた。矢野は稽古のときと同じだった。小さく乱れた一本を畳へ捨てていくのではなく、その上へ次の一本を置く。さっきより半足ぶん正しい場所へ入り、さっきより指一本ぶん余らせずに回る。
俺は受けを取った。
受け身は、俺のいちばん確かな得意科目になっていた。一年間、誰より多く投げられてきた自信がある。矢野の手から離れず、崩された方向へ先に体を渡す。畳を打ち、背を丸め、次の技を受けられる位置へ戻る。
後方受け身から起きたとき、榊先生が一度、深くうなずいた。
取りと受けを替わった。
俺が取りになる。
矢野の三角形と、床にある円を見る。手首を取らせ、矢野の重さが戻れない線へ足を運ぶ。呼ばれた基本技は、どれも大きく崩れずに通った。
矢野の重心が円周を越える。投げは成立した。
だが、そう分かった瞬間、俺の目は、すでに次の指示を待つほうへ動いていた。矢野の掌は、まだ畳に触れていない。三角形も、まだ動いている。それなのに、俺の腰から先に力が抜け、重さが両の踵へ戻っていた。
半拍早い。
八雲さんが言ったのは、ここだ。
次の技では、投げた姿勢を残そうとした。伸ばした腕を止め、前足へ重さをかけたまま固める。
矢野が受け身を取り、立ち上がる。
形は残った。だが、形を残しただけだった。体はまだその形にあっても、息はもう抜けていた。俺と矢野のあいだにあったものは、先に切れていた。
審査は進み、やがて俺たちは最後の礼をした。失敗したわけではない。呼ばれた技には応えてみせた。けれど、畳を下がる俺の中には、答案の裏にまだ一問だけ残っているような感触があった。榊先生の細い光は、上座で少しも動かなかった。
紺野さんの初段審査は、そのあとだった。
受けは宮下先輩だ。
紺野さんの技は、投げるというより、置く。宮下先輩の勢いを受け、その勢いが収まるべき場所を先に空けておく。
自由技で一度、宮下先輩が予定より大きく踏み込んだ。紺野さんの傍心が一つ、いつもの線より遠くへ運ばれる。だが紺野さんは元の形へ戻そうとしなかった。一歩ぶん場所を譲り、動いた先で腰を立て直す。次の円は、初めからそこにあったように閉じた。宮下先輩が畳へ落ちた。
技が終わっても、紺野さんの三角形は崩れなかった。
合宿の夜に聞いた残心という言葉を、俺は初めて、光の側から見る思いだった。
※
五人の審査が一巡した。
全員が壁際へ正座した。榊先生は手元の紙を確かめてから、八雲さんを見た。
「透。葛西は」
「はい」
「終わりが早いな」
「本人にも言いました」
榊先生の目が、俺から岩崎さんへ移った。
紙を一枚めくる。
「葛西。岩崎」
「はい」
俺と岩崎さんの返事が重なった。
「この二人で、もう三本」
道場の空気が、わずかに動いた。
「取りは葛西。受けは岩崎。攻撃は片手取り。技は自由」
審査に落ちたのか、と最初に思った。だが、それなら岩崎さんまで呼ばれる理由がない。
岩崎さんが一度だけ目を見開いた。それから俺たちは立ち、畳の中央へ出た。
二人で上座へ礼をし、向かい合う。
一本目。岩崎さんが俺の右手首を取った。俺は円へ入り、向きを変え、腕を導いて投げた。技は通った。岩崎さんが受け身を取り、畳を転がった。
俺は、終わりを残そうとした。腕を伸ばし、腰を落とし、投げ終えた形のまま止まる。だが俺の体に残ったのは力だけで、意識はもう、終わったものの外にいる。
矢野のときと同じだ。榊先生は何も言わなかった。
二本目。今度は岩崎さんが、一歩深く入ってきた。取られた手首から、その勢いを床の円へ渡す。半歩入り、入れ替わり、重さの行く先を空ける。岩崎さんの三角形が傾き、きれいに畳へ落ちた。落ちる、と分かったところで、掌が鳴るより先に、俺の内側が、やはり少し緩む。それが自分で分かる。
岩崎さんが起き上がり、もう一度、正面に立った。
三本目。
岩崎さんは、すぐには手を出さなかった。深い呼吸を二度、三度。肩が下りる。縮んでいた三角形が、呼吸ごとにほんの少しほどけていく。やがて、その揺れも止まった。
「先輩」と、息だけで言った。
審査中である。俺は返事をしなかった。だがその声で、一本目と二本目に引っかかっていた意識が、目の前へ引き戻される感覚があった。
岩崎さんが、ゆっくり息を吐く。
俺は最後の一呼吸を、岩崎さんと合わせた。
ふと、道場が広く、明るくなったような気がした。岩崎さんが、その中心にいる。
そして三角形が、ふいに縮んだ。右手が伸びる。
踏み込んだ足が畳へ着くのと、五本の指が俺の左手首へ収まるのが同時だった。足と手は、もう別々ではない。俺は外へ踏み出し、円に沿って向きを変えた。取られた手を引かず、岩崎さんの肩が通れる場所へ運ぶ。三角形が傾く。俺はその流れへ一歩入り、投げた。
岩崎さんの手が離れ、体が畳へ向かう。掌が畳を打った。
残心を作ろうとは思わなかった。意識はただ、岩崎さんから離れなかった。視線を切らず、腕も腰も固めない。
畳が鳴るのを聞きながら、自分の体が、まだ技の中に残っているのが分かった。技に入る前に合わせた最後の一息。それは、まだ終わっていない。岩崎さんの背が返り、足が収まる。重さが落ち着き、俺の足は、次へ動ける位置へ戻る。
そこで一息が終わり、一本が閉じた。
「そこまで」
榊先生の声がした。
はっとした。その声は、遠くから聞こえたようでもあり、すぐそばで聞こえたようでもあった。
俺と岩崎さんは位置を戻し、互いに礼をし、上座へ礼をした。
「岩崎」
「はい」
「戻ったな」
岩崎さんの指が、道着の脇で一度だけ閉じた。
「はい」
「葛西君」
「はい」
「最後の一本は、終わりまで技だった」
榊先生は、それ以上何も言わなかった。
審査終了の声がかかり、張っていた道場の空気が少し緩んだ。列を離れたところで、紺野さんが俺の横へ来た。
「見事な残心、だったね」
あれが、と俺は思った。
「さっきの紺野さんのを見てたからでしょうか」
「ううん、違う」
紺野さんは、はっきり言った。
「私のは、投げたあとも自分の形を残す。さっきのあんたのは、受けが終わるまで、すずちゃんに心を置いてた。似てるけど、別のこと」
紺野さんは、麦茶を取りに行く岩崎さんを見た。
「あの子も、最後まで、あんたへの意識を切らさなかった。いい一本だった」
※
全員、合格だった。
名前と結果が順に読み上げられる。岩崎さんは小さく息を吐き、隣の一年生とそろって頭を下げた。矢野が膝の上に置いた手を軽く握った。
紺野さんの初段が告げられた。
紺野さんは一度だけ目を閉じ、長く息を吐いた。それから、いつものまっすぐな姿勢で礼をした。
俺と矢野には、小田島さんが折り目の硬い茶帯を一本ずつ渡した。
「茶色は土の色、根っこの張る色だ」
小田島さんは、二本の帯を見比べるようにして言った。
「これからってやつが、土に潜り始めた色だよ」
俺は白帯を解き、茶帯を締めた。
硬くて、腰の前だけが他人のもののように落ち着かない。
一年間締めた白帯は畳んで、鞄のいちばん上へ入れた。
結果の紙が片づけられ、部員たちが湯呑みや座布団を運び始めた。
俺も立ち上がろうとしたところで、岩崎さんが道場の端からやって来た。
「先輩。ちゃんと見てくれてましたか?」
「見てたよ」
「最初から?」
「最初から、最後まで」
岩崎さんの三角形が、一度だけ、ほんの少し縮んだ。
「なら、いいです」
岩崎さんは下を向き、正しい帯を、また少し直した。




