フォイエルバッハは見えていたか
人の中に七つある、と言った人が、俺より前にいた。
「その人も、七つって言ったのか」
メロンソーダを混ぜていた理玖のストローが、止まった。
ファミレス「サニーズ」汐見駅前店。窓際のいちばん奥。俺は向かいの席で、権藤さんから聞いた話を、もう一度、順番に思い出していた。
「人には七つあるって言ってたらしい。丸いものの真ん中に光が点く、とも」
「光」
「そう言ってた」
「三角形はどうだ。やはり七つ点くのか」
「それは聞いてない」
「人に点く光の配置は。四つが縦に並んで、三つが外にある、とか」
俺は首を振った。
「それも聞いてない。俺の見てるのと同じかは、分からないって」
理玖はストローから手を離した。
テーブルの端に置いた紙ナプキンに、七つ、と書く。その下に、丸の中心、と書いた。
「本人に訊きにいこう」
「俺もそう思ったんだけど……今は会えないところにいるって」
いつも威勢のいい権藤さんが、湯呑みに視線を落とすようにして話してくれた。
思い出して、俺も下を向いた。
「……そうか」
しばらく沈黙したのち、理玖は言った。
「だが、名前くらい訊いたんだろう」
「そう。それだ。それがな、理玖。聞いて驚くな。いや、聞いて驚け」
「どっちだ」
「お前が決めていい。その人の名は、八雲玄斎。八雲さんのお祖父さんだったんだ。八雲治療院ってとこを始めた人」
理玖は、八雲玄斎、と書き足した。
「驚いたか」と俺は言った。
「まあ、いちおう驚きはしたが……」
「いちおうって何だよ」
「お前が、驚けとか驚くなとかいうから、その間に、何となく想像がついてな」
「ああ、それは……悪かった」
俺は素直に謝った。
「まったくだ。映画のネタバレに遭ったような気分だ。しかし、別の意味で驚いている」
「別の意味というと」
「想像がついて、しかもそれほど驚かなかった。そのことに驚いている。どういう人物なんだ、八雲さんは」
「それな」
それから俺たちはしばらく、黙って自分の飲み物をすすった。
運ばれてきた俺のハンバーグから、まだ湯気が上がっている。理玖のフライドポテトは、話を始めてから一本も減っていなかった。
「その話、八雲さんには」
「話したよ。だけど八雲さんは、お祖父さんにそういうものが見えてたって話は、聞いたことがないって」
「そうなのか」
「ただ、八雲さんの今の技と体のいくらかは、玄斎さんに教わったことから来てるって」
少し前、八雲さんと東雲が稽古をした。同じ畳の上で二人の技を見ながら、俺は考えていた。八雲さんの技のどこまでが、お祖父さんから来たものなのだろう、と。
だが、俺が今知りたかったのは、技の由来ではない。
「俺は権藤さんの話を聞いて、ちょっと安心したんだ」
「安心? 何に」
「この目、俺だけじゃなかったかもしれないって」
理玖は何も言わず、紙ナプキンを自分のほうへ引いた。
その横に、調べ方、と書いた。
慰める代わりに、調査を始めるらしい。
※
「もし、過去にそういう目を持った人がいたとしよう」
俺がハンバーグを半分食べたころ、理玖は言った。
「武道家だった可能性はある。だが、それだと厄介だ。技だけを見て、昔の人間が何を見ていたかまでは分からん。映像もない時代まで遡れば、なおさらだ」
「じゃあ、ほかの仕事なら?」
「お前と同じものが見えて、仕事に使うとしたら、か」
理玖はそこで、俺を見た。
「幾何学者だな」
図と証明なら残る。
三角形の新しい中心を見つけた人。点の並びを見つけた人。俺たちの知らない関係を、定規とコンパスだけで紙の上へ移した人。
そういう人の中に、俺と同じものが見えていた人がいたかもしれない。
「ナーゲル点。ジェルゴンヌ点。候補を増やせば、名前はいくらでも出てくる」
「それも光って見えるかな?」
「それはあとだ。新しい点を増やす前に、今、確実に見えている七つから探そう」
理玖は、紙ナプキンの七つという字を丸で囲んだ。
「外心、重心、垂心の三つ。それと、内心と三つの傍心で四つ」
「三つと四つ」
「その二組が、一つの図の中に出てくる定理がある」
「あるのか」
「ある。フォイエルバッハの定理だ」
初めて聞く名前だった。
「フォイエルバッハ」
「ドイツの数学者。十九世紀だ。三角形の幾何では有名な定理だが、お前の七つと一緒に考えたことはなかった」
理玖は、ようやくポテトを一本食べた。冷めていたらしく、少し嫌そうな顔をした。
「そういえば、ツバメ古書堂に、三角形の幾何学をまとめた本があったな」
「覚えてるのか」
「棚の位置までな。常連だから」
数日後、俺たちはツバメ古書堂へ行くことになった。
※
ツバメ古書堂は、相変わらず狭かった。
店先には均一価格の文庫が箱に詰められ、その奥では、床から天井まで本が壁を作っている。二人並べば肩が触れる通路を、理玖は迷わず数学の棚まで進んだ。
開いた図版や、台の上に伏せずに置かれた本の頁で、丸や三角形が光っていた。前に美晴と来たときと同じ、本の夜景である。
「いらっしゃい」
帳場のおばあさんが、眼鏡の上から俺を見た。
「今日は、あの女の子は一緒じゃないの」
「今日は理玖と、本を探しに」
「そう。このあいだは、手ぇつないで通ってったから」
少し先で、理玖が棚から抜きかけた本を戻した。
「葛西……」
「本は戻さなくていいだろ」
「いつからだ」
「……七月」
「今は十月だ」
「知ってる」
理玖は俺を見たまま、しばらく黙っていた。
八雲さんに目のことを話したときも、俺はこいつに一か月言わなかった。そのときは、技の人に先に話すのが正しい、と言われた。
今回は、たぶん、そういう正しい順番はない。
「そうか。よかったな」
「……うん」
理玖は、戻した本をもう一度抜いた。
おばあさんは、何も付け足さなかった。帳場で頁をめくる音がした。俺も、理玖が開いた本を横から覗き込んだ。
※
理玖の記憶どおり、目当ての本は数学棚の下から二段目にあった。
函のない、布張りの本だった。角は丸く擦れ、背の文字は半分ほど薄れている。
理玖は目次を開き、一行を指で押さえた。たしかにフォイエルバッハとある。
それから前へ頁を繰り、扉の書名と著者を確かめた。表紙を閉じかけたところで、手が止まった。
「葛西、見ろ」
見返しの隅に、小さな文字があった。
青黒いインクで、二文字。
G.Y.
「玄斎・八雲……?」
「GとYの人間は、ほかにもいる」
「分かってる」
「分かってない声だ」
言われて、もう一度見た。
Gが名前で、Yが姓なら一致する。だが、順番が逆かもしれない。もしかすると、人の名前ですらないかもしれない。誰が、いつ書いたものかも分からない。
それでも、探しに来た一冊に、その二文字があった。
俺は本を持って、帳場へ行った。
「おばあさん、この本、どこから入ったか分かりますか」
「どれ」
見返しを見せると、おばあさんは眼鏡を上げた。本を裏返し、背を見て、また戻す。
「ずっと前に、何冊かまとめて入ったうちの一冊だねえ。どなたの本だったかまでは、分からないよ」
「この字も?」
「うちで書いたものじゃないね。前の持ち主か、その前か」
分かったのは、そこまでだった。
「買います」
俺が言うと、理玖は止めなかった。
何も確かめられてはいない。それでも、持ち帰って調べられる手掛かりにはなった。
代金を払い、本を俺のものにしてから、フォイエルバッハの章を開いた。
頁の中では、一つの三角形と、いくつもの円が重なっていた。
※
「ここで描いてもいいですか」
理玖が訊くと、おばあさんは店の奥にある台を貸してくれた。
梱包前の本を置くための台で、二人が向かい合えば、肘の置き場所を譲り合わなければならない広さである。
理玖は鞄からノートと筆箱を出した。小さな定規。コンパス。色の違うペンが三本。
「数学科は、本屋へ行くのにコンパスを持ってくるのか」
「今日は図を調べに来たんだぞ。お前も持ってこい」
もっともだった。
理玖が、ノートに三角形を描いた。
三辺の長さが少しずつ違う、鋭角の三角形だった。
「七つ、見えるか」
「見える」
俺は理玖のペンを借りて、光のある場所に印をつけた。
一本に並ぶ三つ。外心、重心、垂心。それとは別の場所に内心が一つ、三角形の外に傍心が三つ。
「コンパスと定規なしで打てるのは、実に便利だ」
「使いどころがよく分からないけど」
「今、使ってる」
理玖は外心と垂心を赤い線で結び、その中点に小さく印をつけ、Nと書き込んだ。
「ここが九点円の中心Nだ」
「九点円?」
「見てろ」
理玖は各辺の真ん中に点を取った。三つ。
それから、高さが各辺へ落ちる場所に点を取った。これも三つ。
さらに、各頂点と垂心を結んだ線の真ん中を取った。これも三つ。
合計九つ。
点Nにコンパスの針を立て、最初の点まで脚を開く。
鉛筆が、かりかりと一周した。
円が閉じると、その中心にも光が点った。コップの底や時計で見るのと同じ光だった。
九つの点は、一つ残らず円周の上に載っていた。
「九つ通るから、九点円」
「すごいな……。だけど、名前のつけ方が素直だな」
「そこはな」
次に内接円を描いた。
内接円は、九点円に内側から触れていた。
それから三つの傍接円を描こうとして、理玖の手が止まった。最初の一つが、ノートの外へ大きくはみ出したのだ。
「狭い」
「店も、ノートもな」
「紙ならあるよ」
おばあさんが包装紙を一枚持ってきた。
「裏を使いな」
台いっぱいに紙を広げた。
俺が左の端を押さえ、理玖が中央に、さっきより少し小さな三角形を描き直す。
理玖が線を引き、俺が光を確かめた。二人の点は、どれも重なった。
九点円を描いた。内接円と、三つの傍接円も。
内側の小さな円が、一か所で触れた。
外の大きな円も、一つ、九点円に触れている。
俺は紙の上を目でたどった。
もう一つ。さらに、もう一つ。
「四つとも?」
「四つともだ。これが接触定理だ」
理玖は接する場所へ、青いペンで小さな印をつけた。
一つは内側から。三つは外側から。
そこには、どれも光は点らなかった。
「重心は?」
「この接触定理に直接は出てこない。ただし、外心と重心と垂心は同じ直線上にある」
「オイラー線」
「ああ。九点円の中心は、外心と垂心の中点だから、同じ線上だな」
俺の目には別々に見えていた七つが、一枚の紙の上で、同じ関係の中にいた。
「いい定理だろ」
「四つとも接するところが?」
「そうだ。大きさも居場所も違う四つの円に、九点円はそっと一回ずつ挨拶して回ってる。おまけに、その中心はオイラー線上にある。行儀がいい。実に感じがいい」
「感じがいいって、それも数学用語?」
「好みの話だ」
理玖は、できあがった図を眺めた。
「俺の中では、四番目くらいに美しい定理だ」
「ずいぶん具体的だな」
「上の三つは変動する」
四番目は固定らしい。
※
本には、カール・ヴィルヘルム・フォイエルバッハという数学者の名と、一八二二年という年が載っていた。
二百年ほど前に、この人は、この四つの接触を紙の上に置いた。
「フォイエルバッハにも、見えてたのかな」
俺は紙の上の七つを見ながら言った。
「候補にはなる」
「証拠には?」
「なるもんか」
理玖は即答した。
「この定理が正しいことと、フォイエルバッハが何を見ていたかは別の話だ」
俺は四つの印を順に見た。
俺に見えるのは、七つの光までだ。だが、この定理は、その七つのあいだにあるものまで紙に残していた。
「ただ、もしもお前と同じものが見えていたなら、定理を見つける足場にはなっただろうな」
「そこから証明が始まる?」
「ああ」
理玖は本の頁を指で押さえた。
「見えたものを、そいつ一人のものにしないためにな」
俺は、紙の上へ目を戻した。
「なあ、理玖」
「なんだ」
「理玖にも、俺の見てるものが見えるのか」
「光ってはいない」
「うん」
「だが、見えないわけじゃない」
理玖の指が、外心から赤い線をたどった。重心を通り、九点円の中心を通って、垂心で止まる。
「お前には光って見える。俺には、線を引けば見える。そこまで来る手順が違うだけだ」
それから、内心と三つの傍心を順に指した。
「だから、お前にしか分からないものだと、勝手に決めるな」
紙の上には、俺にしか見えない七つの光があった。
そのあいだを、理玖の指が迷わず進んでいた。




