じゃあ今日は、喜ぶ方針で
市議会の傍聴席では、拍手をしてはいけない。
入口でもらった紙には、そうあった。
俺はその紙を筒状にまるめ、膝の上で握っていた。右隣には紺野さん、左隣には小田島さんが座っている。
九月末日。
ここへ来るには、何時にどこへ行けばいいですか。
小田島さんにそう訊いたのは、先週の俺である。
一年前、道場の隅で九月議会と十二月議会の話を聞いたときは、どちらもずいぶん遠く感じた。時間の長さもそうだが、「議会」なんて単語が、自分には縁のないものに思えた。あの日は、ただ自分の入部届に名前を書くだけのことでも、階段をひとつ上ったような気がしていたのだ。
議場には机が並び、名札が立っていた。知らない人たちの三角形が、それぞれの席に収まっている。
誰がどんな顔で聞いているのかは、分からない。資料をめくる音だけが、音のよく響く議場のそこここから上がっていた。
市側の担当者が立った。
手元の紙を揃え、これまでの利用状況について読み始めた。利用している団体の数。集会や練習に使われた日数。保存を求める署名。
俺は、膝の上で紙筒を握った。
「七月の合同利用行事の来場者は、ええ——」
「二百八十六」
隣で紺野さんが、ほとんど声にせず言った。
「——二百八十六人に上り、施設が現在も地域活動の拠点として利用されていることを、改めて確認しております」
七月の合同利用行事。
旧文化会館まつりは、ここではそう呼ばれるらしかった。
あの日、受付の紙には、正の字がいくつも並んでいた。最後に、上のほうへ寄った一の字があった。
来栖さんが鉛筆を置き、紺野さんが合計を書いた。
小田島さんは、その紙を受け取ってから、ようやく椅子に座ったのだった。
担当者が、次の紙をめくった。
「旧文化会館については、現施設を保存、改修し、地域活動の拠点として継続利用することを、基本方針といたします」
保存、改修――。
俺は、小田島さんを見た。
小田島さんは前を向いたまま、一度だけうなずいた。
担当者は続けて、詳しい建物の診断と改修設計、費用の積算を進めること、本体の改修予算は十二月議会で審議されることを説明した。
言い終えると、腰を下ろした。
もう少し何かあるものだと思った。
だが、議場では次の人がマイクを引き寄せていた。紺野さんが小さな手帳に一行書き、ペンに蓋をした。
俺も前を向き直った。
膝の上で、握った紙筒がくしゃっと、へこんでいた。
※
市役所の外へ出ると、風があった。
小田島さんの封筒からはみ出した紙がめくれ、紺野さんが端を押さえた。
「これで、残るんですね」
「残す方針が決まったんだけども」
「同じじゃないんですか」
「違うねえ。決まったのは、方針だけだからね」
小田島さんは紙を封筒の奥まで入れた。
「どこを直して、いくら掛かるか。そこをこれから詳しく調べる。工事のお金は、十二月だよ」
「では、まだ勝ってはいないんですね」
紺野さんが言った。
「いや。今日は勝った日でいいんだ。方針が決まらなきゃ、予算の話にもならんからね」
小田島さんは、俺たちを交互に見た。
「壊す方へ進めていた話を、残す方へ向けたんだ。そこは、ちゃんと喜んでいい」
紺野さんが、封筒から手を離した。
俺はもう一度、背後の建物を見た。さっきの席へ戻っても、やはり拍手はできないのだろう。
「ちょっと、電話するね」
小田島さんは、上着の内ポケットを探った。
出した携帯電話に片手で番号を呼び出し、耳へ当てる。
「ああ、常盤さん」
いつもの声だった。
「うん。決まったよ。残す方、で」
最後だけ、声が少し揺れた。
電話の向こうで、常盤さんが何か言った。
「うん」と小田島さんは答えた。
しばらく、次の言葉を言わなかった。
紺野さんと俺は、並んで待っていた。
※
旧文化会館に着いたときには、もう暗くなっていた。
一階で常盤さんへ紙を一枚渡し、三人で南の階段を上がった。三階から、ベースの低い音が下りてきた。
二階の道場では、稽古終わりの礼が済んだところだった。
まだ全員が道着を着ている。大隈さんが壁から秋季審査の申込用紙を外し、画鋲を手のひらへ受けていた。
四日前に見た五人の名前が、そのまま並んでいた。
「締め切るよ、葛西くん」
「はい。お願いします」
大隈さんは俺の返事を聞いてから、用紙を裏返して机に置いた。
審査まで、あと二週間と少しである。
「小田島さん、どうでした」
宮下先輩がタオルを首から外した。
雑巾を取りに行きかけていた一年生たちも、戸口で足を止めた。
「決まったよ。建物は残して、直して使っていく。市の方針は、そっちになった」
宮下先輩はタオルを置いた。
何を思ったか、帯の結び目を両手で締め直し、畳の端まで下がった。
どん、と畳が鳴った。
起き上がったと思ったら、もう一度転がっていた。
宮下先輩の三角形が、次々と天地を入れ替える。
端まで行くと向きを変え、今度はこっちへ戻ってきた。
袴田さんが、進路に置いてあったタオルを拾い上げた。
宮下先輩はその場所を通り過ぎ、最後の一回で立った。
「宮下先輩」
「なに、紺野」
息が切れていた。
宮下先輩は、帯へ手をやったまま止まった。
「大声出して喜んでいいところです」
先輩の手が、帯から離れた。
「よっしゃああああ!」
俺は肩をすくめた。
一年生が笑い、誰かが手を叩いた。隣で紺野さんも、二度、三度と拍手をした。
三階のベースが止まっていた。
少しして、階段を下りてくる足音が重なった。
「何? 何が決まったの?」
美晴の声だった。
後ろからケイさんとナっちゃんも顔を出した。美晴は右の袖だけ肘までまくっている。
「会館、残す方針になったって」
俺が言うと、美晴は袖を下ろしかけた手を止めた。
「ほんとに?」
小田島さんがうなずいた。
ケイさんがナっちゃんの肩を叩いた。ナっちゃんは叩き返し、美晴はその二人の間へ片手を出した。三人の手が、ぱん、と鳴った。
※
小田島さんは、机の上に方針書の写しを広げた。
俺が市役所の外で聞いた話を、もう一度した。建物の診断はこれからで、改修予算は十二月議会である。
皆が紙の周りへ寄った。稽古の終わった道場に、道着と普段着が入り交じっていた。
「じゃあ、十二月も勝ちゃいいんすね」
宮下先輩が言った。
「そうしていきたいねえ」
来栖さんが、紺野さんの袖を引いた。
「ちゃんと二百八十六って言ってた?」
「読まれる前に、言ってやったわよ」
「なんでよ」
「なんか読み上げるのにモタついてたから」
来栖さんは一度、紙へ目を落として、ふふっと笑った。
「正の字、市議会まで行ったんだ」
「行ったね」
二人はもう一度、肩を並べて紙を覗いた。
俺も横から見た。数字は、下から三行目にあった。
袴田さんが、拾ったタオルを宮下先輩へ渡した。その向こうの壁に、守る会のポスターが貼ってある。
「じゃあ、ポスターはまだ剥がさない方がいいですよね」
「うん。十二月までは、そのままにしようかね」
「分かりました。端が浮いてるのが二枚あるんで、明日、直しときます」
宮下先輩が、タオルを受け取る手を止めた。
「お前か、貼り直してたの」
「通り道だったから」
袴田さんは手を離した。
タオルが落ちかけ、宮下先輩が慌てて掴んだ。
戸口にいた矢野が、机のほうへ一歩寄った。
「よかったです」
小田島さんが顔を上げた。
「俺、この道場、好きなので」
小田島さんは「うん」と言った。
矢野はそれを聞くと、一年生たちと雑巾を取りに行った。
三階へ戻る足音がして、道場でも片付けが始まった。俺は机の写しを人数分に分けるのを手伝った。紺野さんは鞄から道着を出し、これから少し体を動かすという。
大隈さんが、机の下に置いてあった鞄からクリアファイルを出した。
中に、四つ折りの紙が入っていた。
二人一組の欄が、上から下まで線で消してある。
七月の進行表だった。
大隈さんは一度それを取り出し、折り目を指で押さえた。それから、市の方針書の写しを後ろへ重ね、二枚を同じファイルへ戻した。
「一緒にしておきます」
「うん」小田島さんはうなずいた。
大隈さんはファイルを鞄へしまい、袖をまくった。
※
一階へ下りると、常盤さんが掲示板の前に立っていた。水彩画教室のお知らせと、来月の休館日が書いてある。
その隣に貼られた、方針書の最後の角へ、画鋲を押し込んでいるところだった。俺が渡されたものと同じ紙だった。
「お疲れさまです」
「お疲れさま。葛西くん、今日、議会に行ったんだって」
「はい」
常盤さんは画鋲を押し込むと、俺に向き直った。
「ありがとう」
「聞きに行っただけですよ、俺」
「それは、分かってる。それでもさ」
常盤さんは奥へ歩いて行った。その背中を、しばらく見送った。
俺が靴を履いていると、三階から美晴が下りてきた。ベースケースを背負っていた。
「お待たせ」
「俺も今、下りてきたところ」
美晴は掲示板の前で少し止まった。
俺も、靴紐を結んで立った。
「勝ったんだよね?」
「小田島さんは、方針だけって言ってたけどな」
美晴は紙からこちらへ顔を向けた。
「そっか。じゃあ今日は、喜ぶ方針で」
俺はうなずいて、玄関の引き戸に手を掛けた。
途中で少し引っかかった。
「小石だ」
小石が溝に入っていた。戸をガタガタと動かした。
「取れた」
つまんで外に放ると、戸は、今度はからからと開いた。
美晴が先に出た。
戸を閉めて、追い付いて、並んだところで美晴に手をとられた。
まくっていた袖は下りていて、その先から出た指が、俺の指の間へ入ってきた。俺も握り返した。
路地へ曲がる前に、美晴が振り返った。
俺も、同じほうを見た。
二階と三階の窓が、ともに明るかった。
二階では、まだ畳が鳴っていた。三階からは、ギターの短い音が聞こえた。途中でやめて、同じところをもう一度弾いていた。




