受けても、取り
道場の壁に、秋季審査の申込用紙が貼られた。
締切まで四日。審査まで三週間。
名前を書いたのは、俺と紺野さんと矢野、それから一年生が二人で、計五人。
最近の稽古は、審査技の反復が中心である。審査を受ける者は形を確かめるし、受けない者も、その受けを取る。
窓から入る風は涼しくなったのに、稽古が始まれば、道着の背中はすぐに色を変えた。
九月最後の土曜。
着替える前、スマホに美晴から短い連絡が来た。
『終わったら連絡ちょうだい』
俺は『分かった』と返して、鞄へしまった。
開始まで、まだ十分ほどあった。
東雲が今日の稽古に来ることは、大隈さんから聞いていた。
演武会で交わした約束で、北稜にも話は通っている。
南の階段を上がってくる足音がして、岩崎さんが雑巾がけの手を止め、顔を上げた。
「東雲さん」
その声のあとで、張った一本の線が戸口に現れた。
東雲蓮だった。
二か月前、北稜の道場で俺だけを見ていた線が、今日はうちの道場の戸口に立っている。よその畳で見たときと、張り方は変わっていなかった。
岩崎さんが、雑巾を持ったまま立ち上がった。
「来てくださったんですね」
演武会の日にも、岩崎さんは同じ言葉を口にした。
「はい」
それだけ言って、二人は頭を下げた。
※
準備運動が終わり、二組と相手を替えたところで、八雲さんが言った。
「東雲。葛西と組め」
東雲と向かい合って礼をした。
対抗稽古の日と違い、畳の中央は空けられていない。隣では宮下先輩と一年生が組んでいる。反対側では紺野さんが、矢野の足の位置を直している。
勝つための場所ではない。
ふつうの稽古をする場所である。
「片手取り四方投げ」と八雲さんが言った。
最初は俺が取りになった。
東雲の右手が、俺の右手首を取る。
演武会と同じ形だった。
俺は、読まない、と決めた。
東雲の外心から糸が下り、畳に円が広がっている。その内側に三角形。円周へ足を置けば、線が出る。
見えている。
東雲の手が、わずかに押してきた。
俺は、その圧を確かめてから足を送り、手を返した。額の上を通し、転換する。東雲の腕が上がり、重さが片足から外れる。
腰を落として、腕を導いた。
東雲が受け身を取った。
畳が鳴った。正しい技と、正しい受け身の音だった。
だが、演武会の一つの音とは違った。
東雲は立ち上がった。
「今のは、演武会のものとは違いました」
「分かりますか」
「はい。今は……出そうとしていました」
俺は、自分が立った場所を見た。
円周に、きちんと右足が乗っている。
技は通った。失敗したわけではない。
正しい四方投げと、あの日の一本は、同じものではないらしい。
「出そうとすると、違う」
「多分」
「出そうとしないように、出す」
「それでも、出そうとしていますね」
そのとおりだが、難しいことをいう。
俺たちは左右を替えた。
やがて取りと受けを交代した。
東雲の技には、やはり起こりがほとんどない。俺が手首を取ったと思ったときには、俺の腕は額より高く運ばれ、東雲の背中はその下を回り終えていた。
俺も受け身を取った。
東雲は何も言わず、次の半身に構えた。
確かめに来た側が受け、確かめられる側が取り、と決まっているわけではない。形稽古では、どちらも半分ずつやる。
東雲は、どちらをしているときも、こちらを見ていた。
※
通常稽古が終わった。
礼のあと、一年生が窓を閉め、矢野が雑巾を集めていく。
東雲は帯を解かず、道場の中央に残っていた。
八雲さんが、畳の浮いた角を足で踏んで直している。
東雲はその前まで進み、頭を下げた。
「八雲先生。一手、ご指導いただけますか」
「うん」
八雲さんは、それだけ言って畳の中央へ戻った。
大隈さんは壁際で帯を畳む手を止めた。岩崎さんは閉めかけた窓から手を離した。宮下先輩を含め、片付けの途中だった者たちは壁際へ戻り、もう一度、正座した。
東雲と八雲さんが向かい合う。
東雲のオイラー線は、弓に掛けたままの弦のように張っていた。
八雲さんには、静かな一点だけがある。
東雲が右の拳で突いた。
八雲さんの体が、その内側へ半歩入った。手が東雲の手首と肩口へ触れる。東雲が向きを変えたときには、その足が着くはずだった場所に、八雲さんの足があった。
張った線が傾いた。
畳が一つ鳴った。
東雲のオイラー線は、切れなかった。
鳴ったあとの弦のように震え、東雲が立ち上がると、元の張りへ戻った。
もう一度、東雲が間合いを詰めた。
今度は八雲さんの目と、前の足を交互に見ている。
突き。
八雲さんが手首を取り、外へ返そうとする。
東雲はその動きに合わせて足を送り、返される側へ自分から回った。
八雲さんの最初の崩しが、止まった。
東雲は、八雲さんの技を一つ外した。
だが、八雲さんは止まらなかった。
手は東雲の肘の後ろへ移っていた。
東雲が体勢を取り返すために踏み出した足を、八雲さんが半歩先で迎えた。
最初の技が終わった場所から、別の崩しが始まっていた。
東雲の体が浮き、直後に、畳が鳴った。
俺のやっていることの、いくらかは祖父から来ている。
八雲さんは前に、そう言った。
今の技のどこまでが、玄斎さんから来たものなのだろう、と俺は思った。
すぐに立ち上がって、三度目。
東雲の右肩が動いた。
八雲さんは動かない。
肩だけだった。
一呼吸遅れて、本当の突きが伸びた。途中で速さが変わる。東雲の拳が届く直前にだけ、八雲さんの一点がほどけた。
東雲は手首に触れられると、すぐに位置を替えた。
崩される側へ回るのではなく、八雲さんの横へ出て、その腕を取り返そうとする。
八雲さんは、取り返される方向へ腕を渡した。
東雲が主導権を取り戻しかけた、その方向へ、二人の体が続いた。
東雲の足が、ととっと走らされる。
一歩、二歩、そして三歩目が畳から離れた。
音がした。
弓弦が、また震えた。
「お前は、受けても取りだな」
八雲さんが言った。
東雲は立ち上がり、道着の袖を直した。
「いけませんか」
「悪いとは言っていない」
八雲さんは、東雲を見た。
「だから面白い」
八雲さんが、自分以外の学生へ直接、面白いと言うところを、俺は初めて見た。
その理由は、俺にも分かった。東雲は投げられるたびに同じ速さで立ち、二度目には八雲さんの技を変えさせた。
東雲は相手の目と足から、起きる前の答えを取る。
俺は、光の動きを読み、そこに答えを探してきた。
見ているものは違っても、起きてからでは遅いと思っているところは、よく似ていた。
東雲は一歩退き、八雲さんに礼をした。
「ありがとうございました」
八雲さんも礼を返した。
さっきまで俺は、東雲が俺のどこを見るのかを見ていた。
今は、東雲を見ていた。
※
着替えを終えた東雲と、南の階段まで一緒に歩いた。
道場ではまだ、雑巾を洗う音がしている。踊り場の窓は開いていて、九月の風が入ってきた。
「東雲さん、演武会には岩崎さんに誘われて来たんですよね」
「いいえ」
「え。でも、岩崎さんに聞いたって」
「岩崎さんは、合同稽古の日に、葛西さんが演武に出ると教えてくれたんです」
「はい。だから、どうして東雲さんに教えたのかな、と」
「さあ」
「東雲さんに一目ぼれでもしたのかな」
東雲は、少し笑ったようだった。
「葛西さん、あなたは人を見ているようで、見ていないですね。見当ちがいですよ」
「そうですか。前からの知り合いでもないんでしょう」
「違います。ただ、あの人は、人をよく見ているようです」
東雲は踊り場で足を止めた。
「葛西さんとの、一本目ですよ」
北稜大学の道場を思い出した。
最初の一つだけ、俺の技で畳が鳴った。残りはすべて、東雲に読まれた。
「あのとき、僕は葛西さんが動く前を読めませんでした。二本目からは、焦点と足を読めば止められた」
「はい」
「僕が取りになってからも、技はすべて通りました。あの日、勝ったのは僕です」
東雲は、前と同じ静かな声で言った。
「でも、一本目だけは、分からないまま残りました」
階段の下から、玄関の戸が動く音がした。
「演武会でも、葛西さんは答えを探さなかった。岩崎さんを投げて、足元を見るまで、一度も」
「それで、自分の体で受けようと思ったんですか」
「はい」
「今日は、出ませんでした」
「はい。分からないままです」
東雲は、もう一度やらせてください、とは言わなかった。
今日の俺からは出ないと、分かったのだろう。
東雲は、そこで俺から目を外さなかった。
「あのとき、僕は怖かったんだと思います」
「俺がですか」
「葛西さんが怖かったというより、分からないまま勝ったことが」
対抗稽古の日、この人の喉元の一点は、ほんの少し上がった。
今度は、上がらなかった。
「だから、千回なんて言いました。葛西さんにというより、自分に言ったんでしょう」
分析し終えた技のことを話すような声だった。
東雲は、分からなかった一本を分かるものにするため、演武会へ来た。
そこで増えた分からないものを、今度は受けに来た。
受けても、取り。
だが今日は、分からないまま持って帰ろうとしている。
「俺の技になったら、東雲さんには分かりますか」
「分かります」
「そのときは、写しじゃないと言ってください」
「言います」
東雲は、道場のほうを一度見た。
「ただ、そのときは、言葉より先に畳が鳴るでしょう」
「じゃあ次は、その音を聞かせます」
「同じ入りは、二度見落としません」
「俺も、同じ入り方はしません」
東雲は、来たときと同じ深さで頭を下げた。
俺も返した。
階段を下りていく縦の線を、踊り場から見送った。
東雲に勝ちたい、と思ったわけではない。
ただ、次に組むまでの時間が、急に長く思えた。




