今、名前で呼んでくれたら
数分後に返信が来た。
『保険つきの娯楽だって言ってたくせに』
九か月間、覚えていたらしい。俺の間抜けな返答を。
『でも、いいよ。行こ』『水曜。夜の回がいいな』
『分かった』
誘って、断られなかった。
それだけのことで、心臓がどきどきしていた。
『今やってるやつの二本目、白黒だって』
『白黒か。寝てたら起こせばいい?』
『寝ないもん。私は保険つきの娯楽だなんて思ってないから』
ピリオド代わりに、笑顔の顔文字がついていた。
根に持ったふりをして、遊んでいるのだ。
『俺も、保険は外すことにしたんだ』
映画のことも。
美晴のことも。
既読がついたまま、しばらく何も来なかった。
それから、揺れる犬のスタンプが一つ。
『じゃあ二本とも楽しみだね! でも風邪、ちゃんと治してからね』
犬のおまわりさんが敬礼するスタンプを返した。
そのあと俺は、胸の前で作ったこぶしを追いかけ、部屋の中を二周した。理由は、あった。
※
風邪は三日で抜けた。
残ったのは、銀色のシートだけである。
十二錠のうち二錠を風邪で飲み、残り十錠。
水曜、十五時二十分。
俺は水と一緒に、一錠を飲み込んだ。
風邪のためではなく、顔を見るために飲む。その最初の一錠だった。
残り九錠。
ノートへ時刻を書いた。
机の上に五百円玉を置き、待つこと、およそ三十分。
その中心の光が、すうっと薄くなって、消えた。
洗面所へ行くと、鏡の中に顔があった。
三日ぶりの、俺の顔だ。
コップも、時計も、ノートの三角形も、みな沈黙した。
十五時四十九分。
世界は、静かだった。
※
十七時前に、汐見シネマの前に着いた。
駅前は、もうすぐ帰りの時間である。人が多い。
手描きの看板が二枚。
一枚は、拳銃の男が三人並ぶ、色あせた外国映画。
もう一枚は白黒の日本映画で、岬の突端に灯台が描いてある。
俺は、美晴を探した。
いつもの、若枝のようにしなる三角形は見えない。
今日だけは、誰の光も点いていない。
なら顔で探せばいいわけだが、ここで単純な事実に気づいた。
いま駅前にいる百人の顔、そのどれが美晴なのかを、俺は知らない。
俺は立ち尽くした。
買いにきた本のタイトルを忘れた、本屋の客のようであった。
そこに「葛西くん」と声がかかった。
声のしたほうを向いた。
一瞬、世界から音が消えたような気がした。
そこに、顔があった。
ほんの二メートル先に、ほとんど初めましての、美晴の顔。
大きく、少し下がった目。小さな鼻。その下で、上唇の輪郭が真ん中にくっきりと山をつくっている。今日は髪を上げているので、耳までよく見えた。
その全部が、一枚に読めた。
可愛い、というのは、こういうことか。
どこが、とは訊かないでほしい。
もう一度、目や鼻や唇に分けたとしても、到底、答えられそうにない。
問題は、ひとつひとつの部品を点検することじゃない。全部であること——。
お前以外はみんな、だいたい同じ値を出す、と理玖は言った。それは本当らしい。
あらゆる工程をすっ飛ばし、結論が出ている。ほとんど悔しいくらいだ。
「……どうしたの」
「いや」
「二回、目が合ったよ、さっき」
「悪い。考えごとしてた」
「ふうん」
美晴は少し首をかしげた。
その角度に、覚えがあった。
光で見ていたときの、あの傾ぎ方だ。同じ人が、今は顔でそれをやっている。
首をかしげると、左の頬に髪が少しかかった。
「私の顔、なんかついてる?」
「ついてない」と俺は首を振りながら答えた。
顔になんかついているのではない。
顔が、ついているのである。
美晴が笑った。
口元だけではなかった。頬が持ち上がると目尻が下がり、さっきまで別々に見えていた部分が、同じ笑いの中でいっせいに動いた。笑顔というものは、口元に現れるのではなく、顔全体が一枚のまま動くことらしい。
笑う〇・五秒前を世界で一人だけ知っていた俺は、そのあとに来る〇・五秒を、これまで一度も見たことがなかった。
「葛西くん? 今日、なんか変だよ」
「そうかな」
「目がきょろきょろしてる。落ち着きのない柴犬みたい」
「柴犬……柴犬なら分かる」
「なにそれ」
美晴が、また笑った。目尻が少し下がった。
俺の中の遠野美晴は、こうして毎秒のように更新されていく。
六時間の予算を使い切るまで。
窓口でチケットを二枚買った。おじいさんが半券をちぎった。
釣りを受け取るとき、百円玉を一枚落とした。美晴が拾ってくれた。
「やっぱり今日、そわそわしてる」
「そんなことない」
「あるよ。さっきから私の顔ばっかり見て、見たと思ったら、すぐ逸らすし」
図星だった。
顔を見るために飲んだ薬で顔が見えるようになったのに、美晴と目が合いそうになるたび、看板や、床や、自分の靴へ視線を落としていた。
顔がなかった一年、俺は誰の顔でもまっすぐ見られる男だった。
今日はもう、見られない男に戻っている。
※
場内は狭い。
座席は二百もない。中ほどの列の、通路寄りに並んで座った。
照明が落ち、俺はそこで初めて気づいた。
暗いのだ。映画館というのは、本来、こんなに暗い場所なのか。
この一年、俺にとってスクリーンは騒がしい場所だった。画面に丸が映れば中心が点り、三角形が出れば七つ点る。物語の背後で、光が絶えず生まれては消えていた。スクリーンの人に、七つの点が灯らないのが救いだった。
今日は、映っているものが、ただ映っているだけだ。
一本目の作品が始まった。
泥棒が三人で、金庫を開けようとする話である。
三十分ほどしたところで、隣の気配が動いた。美晴が、こちらへ体を傾けてくる。
「ねえ」
「ん」
「あの人、絶対、途中で鍵を落とすよ」
低く抑えた声と一緒に、息が耳へ当たった。
目の前に、美晴の左の頬がある。
美晴が笑うと、そこに浅い窪みが生まれ、笑いが深くなるにつれて、窪みも少しずつ深くなった。
ああ、これがえくぼなのか。
なんていうものなんだろう、えくぼというものは。
去年の十二月に、この人は俺の手首をつかんで、俺の指をここへ運んだ。あのとき指の腹で知ったものが、いまは光を受けて、目に見える形でそこにある。
肩のそばの一点が跳ねたあとに、何が起きていたのか。
その答えが、ここにあった。
「落とすかな」
「……たぶん、落とす」
十分後、男は鍵を落とした。
美晴が肩を揺らして笑い、前の席の客が振り返った。
※
十分間の休憩になった。
場内が明るくなると、俺は途端に彼女の顔が見られなくなった。
座っていられなくなり、売店でポップコーンを一つと、烏龍茶を二つ買った。
「葛西くん、今日、返事が短いね」
「そうか」
「そうだよ。ほら。さっきから『ん』と『そうか』しか言ってないよ」
「今日、俺そんなに大人しい?」
「大人しいっていうか」
美晴は烏龍茶の蓋を回した。
「なんか、口のとこまで来てるのに、出さないでいる感じ」
この人は、よく見ている。
着ぐるみの中から、一年ぶん人を見てきた人である。
見ているに決まっているのだ。
※
二本目が始まった。
白黒映画。岬と、灯台と、そこに住んでいる夫婦の話。
俺は、途中から筋を追うのをやめた。
灯台の光が客席をめぐる。目の中に映った二つの小さなスクリーンを、海の光が左から右へ横切る。そのたびに美晴の頬は白く浮かび、また影へ沈んだ。光の加減で、顔の印象はめまぐるしく変わっていく。なのに、そのどれもが遠野美晴だった。
美晴はスクリーンを見つめている。だから俺は、いくらでも見ていられた。
見返されないから、いくらでも見ていいんだよ。
去年の十二月に、この人はそう言った。感じ悪いでしょ、とも言った。
そうだ。感じは悪い。
なんてずるいんだろう。俺は今、それをやっている。
美晴の手が、膝の上のポップコーンへ伸びた。
俺の手も、ちょうど同じところへ行った。
指が触れた。
美晴がこちらを見た。
そして、俺がずっと自分を見ていたことに気づいた。
俺も、美晴も、手を引かなかった。
美晴が、触れた指で、そっと俺の指を持ち上げ、箱の外へ連れ出した。
美晴は指を一本ずつ、俺の指と交差させた。
俺は手を返した。
手のひらが重なった。
稽古あがりのベース弾きの手を、俺は一度、知っている。
美晴の手は、あのときと同じに、湿って、熱かった。
映画は、それから四十分ほど続いた。
俺の時間は、繋いだ手のことになった。
筋はまったく、頭に入ってこなかった。
※
外に出ると、二十一時を過ぎていた。
駅前の店は、半分閉まっている。
夏の夜の、生ぬるい風が吹いていた。
小屋を出た客は、正面の広い道へ流れていく。
俺たちは、なんとなく建物の脇の路地へ入った。
繋いだ手は、そのままだった。
「ねえ、葛西くん」
「ん」
「今日の葛西くん、私の顔を見てるよね」
質問ではなかった。
「ずっと変だと思ってた」と美晴は言った。「葛西くん、私を見てるのに、私の顔を見てないみたいなときがあるから」
俺は足を止めた。
美晴も止まった。
俺には今、彼女の顔が見えている。
けれど、そこに書かれたことが全部分かるわけではなかったし、きっと顔に書かれていないこともある。
目は、まっすぐ俺を見ていた。それ以上は、分からなかった。
「たぶん、遠野さんの思ってる通りだ」
美晴は何も言わなかった。
「俺には、他の人には見えてないものが見えてる。だけど、他の人が見えてるものが、見えてない」
繋いだ手に、少し力が入った。
「だけど、それが何なのか、俺は、まだ言う勇気がないんだ」
「それは、全員に秘密なの?」
美晴は少し目を伏せた。
「それとも、知ってる人がいる?」
「理玖が知ってる。それから、病室で知り合った権藤さんって大工さんと、八雲さん」
「そっか」
美晴は一度、俺たちの手を見た。
「私には、まだ内緒?」
「……うん」
「いつまで?」
「いつか、話せるときが来るまで」
「どうして私には、話せないの」
言葉が、喉のところで止まった。
十二枚の便箋を使ったときと、同じ場所。
だが、今日のための手紙は準備していない。
俺は言った。
「遠野さんのこと、俺、大好きなんだ」
美晴の目が、少し大きくなった。
「だから、話すのが怖い」
顔が動いた。
目が大きくなったあとで、眉が下がり、口元がゆるみかけた。いくつもの変化が同じ顔の上に現れた。そんな表情にも、人は何か名前をつけているんだろうか。困っているような、笑っているような顔だった。
「私だけ知らないの、ちょっと嫌だな」
「うん。ごめん」
「仕方ないなあ」
美晴は俺の手を、もう一度握り直した。
「じゃあ、待つ」
「うん」
「忘れないけどね」
俺たちは、また歩き出した。
路地の向こうから、自転車が一台来た。
美晴が、建物の脇についている鉄の外階段を二段上がって、道を空けた。
自転車が通り過ぎたあとも、彼女はそこに立っていた。
俺の目の高さより少し上に、彼女の唇があった。
「遠野さん」と俺は呼びかけた。
「ん」
「少し、屈んでくれる」
美晴の呼吸が止まった。
「……それ、私のやつでしょ」
「うん」
「葛西くんに、とられた。ずるい」
美晴は一度、下を向いた。耳が赤い。
肩が小さく上下している。呼吸が浅い。
鉄の手すりを握った手を少しゆるめて、息を大きくひとつ。
それから、顔を上げた。
「今、名前で呼んでくれたら、かがむ」
路地の奥で、換気扇が回っている。
俺は、口の中で何百回も呼んできた名前を、初めて声に出した。
「美晴」
美晴は、屈んだ。
※
俺は、目を閉じなかった。
まつ毛の束が、上から下りてくるところを、ずっと見ていた。
十月の夜、俺に見えたのは、離れていくときの、伏せたまぶたの上のそれだけだった。
今日は、閉じていく途中が見えた。
唇が触れた。あの夜の記憶は、柔らかさだけだ。
今日のは、目でも覚えておく。
息が少し苦しくなった。美晴の鼻から出た息が、俺の頬に当たった。
手すりを握っていたほうの手が離れて、俺の腕をつかんだ。
離れたとき、美晴はまだ一段上で、俺を見ていた。
息を浅くして、目が少し濡れていた。
「……内緒ね」と美晴は、また言った。あのときのように。
「今のは、嫌だ」俺は言った。「内緒にしたくない」
美晴は、俺の胸のあたりを、とん、と一回叩いた。
「……ばか」
そう言って、手は離さなかった。
※
二人で、駅のほうへ歩いた。
「ねえ。灯台のとこの人、最後どうなったんだっけ」
「……分からん」
「見てなかったでしょ」
「見てた」
「嘘つき」
その「嘘つき」と言った顔を見ようとして、俺は見られなかった。
目は目へ。
鼻は鼻へ。
口は口へ。
部品は全部、そこにある。
まつ毛も、頬の窪みも。
だが、一枚の絵として読めない。
同時に、街灯の中心が白く点った。
自動販売機に一つ。ガードレールの支柱に一つ。信号機の丸に、三つ。
そして、美晴の体に、若枝のようにしなる三角形が戻った。
七つの光も、あるべき場所に点っていた。
二十一時二十分。
服用から、ちょうど六時間だった。
俺は、さっきまで見ていた顔を思い出そうとした。
組み上がらなかった。
目を思い出せば鼻が抜け、鼻を置けば口が逃げていく。
記憶の中でも、俺の手は同じところで遅れる。
残ったのは、見た、という事実だけだった。
「葛西くん」
「ん」
「……ううん。やっぱ、言わない」
肩のそばの一点が、ぴょこりと跳ねた。
〇・五秒後に、美晴が笑った。
その手を、俺はまだ握っていた。
俺はまた、この人が笑うことを、〇・五秒前に知る役へ戻った。
今日一日休みだった、世界で一人だけの役である。
一般解は、消えた。
美晴は、消えなかった。




