十二錠
俺の世界が顔を失くすことになったのは、一年前の七月十八日。
それは前期試験の初日のことだったが、今年は最終日に熱を出して寝込んでしまった。
試験自体もそうなのだが、七月はどうも何か、俺にとっての魔が襲い来る時期らしい。
三十八度二分。
最後の科目を書き終えて教室を出たときには、もう視界が少し揺れていた。
夏風邪だろう。暑気と冷房に当てられたのだ。
合気道の稽古を休み、薬局で風邪薬を買って、注意書きどおり飲んで寝た。
薬はよく効いた。翌朝には、三十六度台になっていた。
朝食のあと、もう一錠飲んだ。二錠目。念のためである。
ここまでは日本中で起きている、ありふれた風邪の話である。
だが三十分後、俺は洗面台の鏡の前で、動けなくなっていた。
そこに顔があったからだ。
俺の顔だった。
俺は思わず声を上げた。そして鏡の顔に触れた。それから、こちら側の顔にも。
鏡の中の俺が、同じように顔に触れている。
相貌失認が、治ったのか。
記憶の中の俺より、頬が削れて、目つきが据わっていた。
一年前の事故以来、俺の顔は、難解な本のようだった。一文字ずつは知っているのに、まとめて読もうとすると、何をごちゃごちゃ書いてあるのか、文脈がさっぱり分からない、一冊の本。
それがどうだろう。
今、その本は明瞭な文体になり、これはこうで、あれはああで、結局はこういうことだったのです、と堂々と結論を提示してきたではないか。
最初から、そう書いてくれていればいいのである。
我ながら少し精悍になったのは、日々の稽古のためだろうか。
しばらく鏡の前で、笑ったり、しかめっ面をしたりして、顔のある自分を楽しんだ。
それからふと、他の顔のことに思い至って、スマホの写真を見てみた。
相貌失認になって以来、人の顔の写真を撮ることなどなくなっていた。今では学内の掲示を、メモ代わりに写すくらいだ。
だが事故の前、江藤たちと撮った一枚が残っていた。
この一年、写真の中の顔も、俺の認知から失われ、誰が誰だか分からなくなっていた。
それが今朝は、顔をしている。
江藤。藤原。坂井。
十九歳の葛西湊も、屈託なく笑っていた。
懐かしさが込み上げてきた。
だが、それにしても、なぜ急に顔が戻ったのか。
俺は、昨夜から飲み始めた薬に思い至った。
説明書きを改めて読んだが、「相貌失認が治ります」とは、当然、どこにも書いていない。だがほかに、この現象の心当たりはなかった。
それにしても、今日はやけに静かである。
静かといっても、音ではない。
考えてみると、部屋のどこにも光が点いていないのだ。
目覚まし時計もコップも、中心は暗いままだった。
ノートに三角形を描いた。だが七つの光は灯らなかった。
顔が戻り、光が消えた。
そんな契約を交わした覚えはないが、ともかく、そういう交換条件らしい。
俺はノートへ時刻をメモした。
十一時九分。
顔が見えて、光が見えないこと。
銀色のパッケージの商品名。
相貌失認は医者の診断である。
光のことを打ち明けたのは、権藤さんと理玖と八雲さんだけで、いつも相談に乗ってもらっているのは理玖だった。
理玖にメッセージを送る。
『風邪で薬を飲んだら、光が消えた』
返信は三秒で来た。
『サニーズ』
※
ファミレス「サニーズ」汐見駅前店。
窓際のいちばん奥の四人掛けに、理玖はもう座っていた。
俺は向かいの席に座った。
理玖のメロンソーダは、すでにストローでよく混ぜられていた。炭酸の泡は、ほとんど残っていない。
昼どきだった。
俺がメニューを開くと、店員が注文を取りに来た。
「日替わりランチを」
俺はメニューの写真を見たまま言った。
ライスとパンなら、ライス。食後の飲み物は、いらない。
「ついでにオムライスを」と理玖。
店員が離れていくまで、俺の視線はメニューから一度も上がらなかった。
「光が消えた、とだけ送ってきたな。だが顔も見えてるんだろう」と理玖は言った。
「なんで分かる」
「お前が店員の顔を見なかったからだ」
俺は、テーブルの端を見ていた。
「俺の顔も見ていない」
「事故のあと、お前は人の顔のあるところへ平気で視線を置くようになった。いまは、高校のころに戻ってる」
「そんなに違うか」
「三年の付き合いだぞ」
そう言われて、理玖の顔を見た。
記憶より、頬が少し細くなっている。
目の下の隈は、記憶より濃い。まぶたが薄く、眉はほぼ水平だった。光が見えていたとき、理玖のオイラー線は、定規で引いたようにまっすぐだった。顔のほうも、どこか線の多い印象がある。
理玖と目が合った。
俺の視線は、すぐにメロンソーダへ落ちた。
それを自分で確かめ、「本当だな」と俺は言った。「戻っちまった」
理玖は、それ以上そこには触れなかった。
四色ボールペンを出し、紙ナプキンを一枚、テーブルへ広げた。
「順番に話せ。最初に飲んだ時刻から」
俺は話した。
一錠目を飲んだのは、昨夜十一時すぎ。二錠目は今朝十時三十九分。顔に気づいたのが十一時九分。
理玖はナプキンに、三つの時刻を書いた。
ほどなく、俺の日替わりランチと、理玖のオムライスが運ばれてきた。
二人で食事をしながら、話を続けた。
「ものに光が点いてないことに気づいたのは、同じころか」
「顔に気づいた、少しあとだ」
「いつも見えているものが急になくなって、何十分もそれに気づかないのは考えにくいな」
理玖は腕を組んで思案していた。なんだか高校時代を思い出す。
「そういえば、考えてるときのお前、そんな顔してたっけな」
「懐かしいだろう。今のうちに楽しんでおくといい」
何やら悪役のようなことを言う。
「今のうち?」
俺は訊ねた。
「お前の今の状態は、多分、そう長くは続かないと思う。一錠目も同じように効いたと仮定すれば、寝ているあいだに切り替わって、朝には切れていたことになる」
「じゃあ薬の効果は」
「長くても十一時間ほどだが、今のデータでは分からない。おそらく、もっと短い」
理玖は、俺が持ってきた薬の箱を手に取った。
裏の成分表示と注意書きを、二度ずつ読んだ。
「分からん」と言った。
ずいぶん早い結論だった。
「理玖でも?」
「俺は数学科だぞ。薬剤師じゃない。そもそも市販の風邪薬に、相貌失認を一時的にどうにかする効能があるとは思えない」
「でも、ほかに変わったことはしてない」
「だから原因候補の一位ではある。確定ではない」
理玖はナプキンを裏返した。
左に「顔」、右に「光」と書き、真ん中へ縦線を引いた。
「少なくとも今は、同時に使えないらしいな」
「同じ机を取り合ってるみたいだ」
「比喩としては、それでいい。仕組みの説明にはなっていないが」
理玖は時刻の下へ、三つ書き足した。
服用時刻。
切り替わった時刻。
戻った時刻。
「次に飲むなら、これを記録しろ。量と間隔は注意書きから外すな。めまい、吐き気、頭痛、いつもと違う症状が出たら、その時点でやめろ」
「次も飲んでいいのか」
「風邪薬として、注意書きどおりに飲むならいいんじゃないか。顔を見るために飲むなら、話が変わるが」
理玖は、そこでペンを置いた。
「なんだか妙な話をしているな」
「何がだ」
「俺たちは、顔が見えることを、副作用みたいに扱っている。光が消えたこともな」
「たしかに」
「相貌失認の症状が消えるのは、医学的には、いい変化のはずだ。だが、お前を見ていると、そう言い切っていいのか分からなくなる」
それは、俺も同じだった。
「自分でも、よく分からない」と俺は言った。
「俺は勧めているわけじゃない」
「うん」
「本当なら、病院には伝えたほうがいい。顔が戻ったことだけでもだ」
「うん」
「詳しく分かるまで、もう飲むなと言われるなら、話は簡単なんだが」
「ほかに何がある」
「薬で、顔が見える状態を固定できないかという、治療の話が出るかもしれない」
「それは相貌失認が治るってことだろ」
「ああ。病院にとっては、顔が戻るのが治療だ。光のことを話したとしても、消えたほうを改善と見るだろう」
治療されてしまう。
治るという言葉に、「しまう」をつける日が来るとは思わなかった。
今日、俺は光のない街を歩いてここへ来た。
途中で遠野さんとすれ違っていたとして、俺は気づけただろうか。
三十メートル先からでも分かる、ということも、着ぐるみを着ていても分かる、ということも、今日はなかった。
あの人を見分ける方法が、他の全員と同じものになる。
治療されるというのは、俺が「みんな」になるということだ。
「それが普通なんだな」と俺は言った。
「普通だ。だが、お前がそれを望んでいるかは別の話だ」
「俺がどうしたいか」
「とりあえず、薬の効果があるうちに、見ておきたい顔があるだろ」
浮かんだのは、一つだった。
「一般解とかな」と理玖は言った。
当てられていた。
遠野美晴である。
一月、理玖は「可愛いというのは一般解だ」と言った。お前以外はみんな、だいたい同じ値を出す、と。
あのとき理玖は、こうも訊いた。みんなと同じ解が出せたとして、それでお前はあの子を好きになったのか、と。
俺は、ならなかったと思う、と答えた。
嘘ではなかった。
それでも、見たかった。
俺は彼女の顔を知らない。
笑う直前に肩のそばの一点が跳ねることなら、〇・五秒前から分かる。だが、それは顔ではない。
顔について知っているのは、左の頬にえくぼがあることと、唇が触れたときのことだけだった。
どちらも、目で知ったことではない。
「見たい」と俺は答えた。
「見てこい」
理玖はいった。
「ただ、今日はやめておけ。風邪をうつす」
「お前はいいのか」
「俺は呼び出した側だし、免疫力には自信がある。これ以上、相手を増やすな」
「分かってる」
「完全に、俺が唆しているな、これは」
理玖は少し笑い、メロンソーダを一口飲んだ。
いつもながら、混ぜすぎて、完全に気の抜けた緑であった。
「悪い奴だ、理玖」
俺も笑った。
「だけど、ありがとう」
※
外には大勢の顔があった。
それを遠くから見るのは、いい。
信号を待つ人に自転車を押す人。店先で笑う人。それぞれに一枚の顔があり、それぞれ違っていた。
何といっても笑顔がいちばんだ。見ているだけで、嬉しかった。
だが信号が青になり、向こうから人が近づいてくると、俺の視線は歩道へ落ちた。
顔を失くしてから治ったと思っていた癖が、顔と一緒に戻っていた。
人と視線を合わせるのが、怖い。
努力で治したわけではない。
見えなくなって、怖がる理由がなくなっただけだ。なら、見えるようになって、また怖くなるのは当然だった。
俺は、人の顔を見られるようになった。
そして、人の顔を見られない男に戻った。
ややこしい話である。
※
午後は、部屋で数分おきに鏡と五百円玉を見ていた。
そして午後四時三十七分。
鏡の中の顔が、読めなくなり始めた。
目も鼻も口も、何も動いていない。
だが、一つの文章として読めていたものが、文字へ戻っていく。
目は目へ、鼻は鼻へ、口は口へ。
全部見えているのに、もう顔としては読めなかった。
机の上で、五百円玉の中心が白く点った。
時計に一つ。
コップに一つ。
ノートの三角形に七つ。
午後四時三十九分。
服用から、ちょうど六時間だった。
理玖へ時刻を送る。
『記録した』
返信は、それだけだった。
机へ、銀色のシートを置いた。
空いた穴が二つ。残り十錠。
風邪が治れば、飲む理由はなくなる。
理玖は、飲めとも、飲むなとも言わなかった。
病院に話すかどうかは、まだ決められなかった。
俺は、自分に規則を一つ決めた。
この一シートだけ。
追加は買わない。
財布の都合もあったが、それだけではない。
理由の分からない切り替えを、無制限に続けていいとは、俺にも思えなかった。
残り十錠。
一錠、およそ六時間。
その時間を、何に使うか。
俺は、美晴の連絡先を開いた。
丸いアイコンに、本人の顔はない。
俺は美晴の顔が写った写真を、一枚も持っていなかった。
遠野美晴は、前に映画へ誘ってくれたことがある。
汐見シネマの前だった。
「二本立てっていいよね」
美晴は、そう言った。
俺は、一本目がだめでも二本目がある、保険つきの娯楽だな、と答えた。
俺は、あの誘いを見事に受け流したのである。
画面へ文字を打った。
『前に言ってた二本立て、今度、一緒に行かないか』
読み返した。
今度は、誘いに見える。
保険は、ついていなかった。
俺は送信した。
それから、二本立ての上映時間を思い出そうとした。
休憩を入れて、四時間ほどだったはずだ。
一錠で、足りる。
自分が何を計算したのかには、もちろん気づいていた。




