心からの誤訳
手が疲れた。握ったり開いたりしながら、次の畳をあげに行く。
畳は、東の壁際へ六枚ずつ重ねていく。
床の空いたところから、そのあとを追うように音研が機材を戻していた。ナっちゃんはドラムを組み直し、ケイさんはテープを貼った位置にアンプを押していった。
美晴は、シールドを黙々と巻きほどいている。
「持ちます」
顔を上げたら、東雲が反対の端に指をかけていた。
「客が持つもんじゃないですよ」
「はい」
そう言いながら、壁際まで離さなかった。
最後の一枚を、四つ目の山へ重ねた。
壁際に、六枚ずつの青い山が四つ並んだ。長机の脚を床に下ろす音が、入り口付近まで響いていた。畳はまだ同じ部屋にある。それでも、板の間が現れただけで、部屋は鳴るようになっていた。
控えの部屋で道着を脱いだ。背中が濡れていた。
Tシャツを着、袴をたたみ、戻ると椅子はもう埋まっていた。
立ち見の場所をとりに、西の壁際に歩き出したとき。
「葛西くん」後ろから声がかかった。
振り向いた。
「佐伯先生」
「こんにちは」
「こんにちは。いらしてたんですね」
「はい。お誘いを受けまして」
誰に、とは言わなかった。
「畳を運んでいましたね」
「はい」
「君もそういうことをする人なんですね」
「俺も、去年までは自分がそうだと知りませんでした」
先生は少し笑って、椅子の列のほうへ歩いていった。後ろから二番目に座った。
※
一バンド目にも、ケイさんがいた。
美晴たちのバンドと掛け持ちである。四曲弾いて、入れ替わったら、また四曲。休みはほとんどない。
一曲目は速かった。二曲目は重く、三曲目はゆっくりしていた。最後はまた速くなった。曲が変わるたびに、ケイさんの右手の動きも変わった。
上手いのだろうとは思う。ただ、俺には、ギターもドラムも歌も全部いっぺんに来る。どれがどれだか区別のつかないうちに、四曲が終わった。
楽しかった、とは思う。
入れ替わって、三人が出てきた。
ドラム、ギター、ベース。
「音楽研究会、トライアングルです」とケイさんが言った。
Try&Grooveと書いてそう読ませる。
周囲の客たちから声が漏れた。
「トライ・アンド・グルーブ。ああ、なるほど」
俺も同じことを思ったことがある。
三曲やった。速いのが二つ、跳ねるのが一つ。
太極拳の輪にいた人たちが、お揃いのTシャツで手拍子をとっていた。
三曲目が終わると、美晴がマイクに一歩寄った。
※
「ベースの美晴です。あと一曲になりました。最後は、私がボーカルをとります」
そう言って、弦に手を置いた。
まだ鳴っていた低い音が止まった。
「……あの。ちょっと、長い話をしてもいいですか」
うしろでケイさんが「どうぞ」と言った。
その言い方で、俺は、ケイさんがこの話を知っているのだと思った。
「最後の曲は、レット・イット・ビーです。たぶん、みなさん知ってると思います」
客席のどこかで、ああ、という声がした。年配のほうからだった。
「私、この曲の歌詞を、けっこう変な読み方してたんです」
美晴はベースを抱え直した。
「対訳を読むと、こんな感じで書いてあるんです。傷ついた人たちがいる。その人たちが分かり合って、そうすれば、答えが見えてくる。……つまり、みんなで、っていう歌なんです」
ほお、という何人かの声が、前の席から上がった。
「でも私、そう読んでなかったんです」
少し間があった。
「傷ついた人は、たくさんいる。でも、その人たちは集まらない。ひとりずつ、ばらばらのまま。それぞれが、自分と世界のあいだで、なんとか折り合いをつけていく。……ひとりのままでいいから、やっていきなさいって。私、ずっとそういう歌だと思ってました」
俺は話に少し聞き覚えがあった。あの、六十ヘルツの夜の話だ。
「分かり合う相手が、違うんですよね」と美晴は続けた。「お互いと分かり合うのか、世界と折り合うのか」
「で、私、そう思って歌ってたんですよ。だから、みんなに向かって歌っていませんでした。ずっと、一人に向かって歌ってました。歌うときの声も、そういう出し方をして」
俺は、その出し方を知っている。
「ところが、去年の秋に、対訳をちゃんと読み直したんです。そしたら、あ、これ違うわ、となりまして」
笑いが起きた。
「読み方が違うだけなら、まだいいんです。でも、そうすると、私の歌い方は、全部おかしいことになるじゃないですか」
笑いが、途中で止まった。
「気になっちゃって。大学の語学の先生のところに、訊きにいきました。廊下で捕まえて。そしたら、先生は、正しいほうを教えてくれました。私が、誰と折り合うのかっていうところを、勝手に読み替えてたんです」
美晴はそこでベースの弦を撫でた。
キュッ、と金属の息継ぎのような音がした。
「それで、じゃあ私のは誤訳ですか、って訊きました。そしたら先生、こう言いました」
美晴が、マイクから一度、顔を離した。
息を吸ったのだと思う。
「——訳が合っているかどうかと、あなたがそこから何を受け取ったかは、別のことです。もし誤訳だとしても。それは、あなたの、心からの誤訳です。誰にも文句なんて言わせないでください」
部屋が静かになった。
その静かさが、思っていたより長かった。
「心からの誤訳。本当にそうだなって。それで私、そのまま歌えるようになりました」
美晴は、椅子の列のほうを見た。
「今日、その先生に、来てもらってます」
四月、道場の座布団の輪で、この人は言った。呼びたい人がいる。
まだ内緒。
葛西くんには、もっと内緒。
あれは、佐伯先生のことだったのか。
俺は後ろから二番目の席をみた。
ケイさんがマイクを先生のそばに差し出していた。
先生は促されて立ち上がり、マイクを受け取った。
美晴と佐伯先生は、少し離れたところで向かい合った。
「遠野さん」
スピーカーから先生が話す。講義のときの声の張りだった。
「はい」
「そんな善いことを、私、いつ言いましたか」
笑いが起きた。
そういえば、こういう先生なのだった。俺も、一月に同じことを言われている。
「言いましたよ」と美晴が言った。「私、あのとき、泣きそうになったのに」
「それは失礼しました」
また笑いが起きた。
「ですが、たぶん、言ったのでしょうね。もし今、訊かれたとしても同じように答える気がしますから。では今日は、聴かせてください。あなたの、心からの誤訳を」
軽い拍手が起きた。
先生は座った。
美晴がベースを抱え直して、ナっちゃんのほうを向いた。
ナっちゃんが、スティックを二本、顔の横で合わせた。
「じゃあ、やります」
※
ケイさんのギターが先に出た。
弦を何本かまとめて、ゆっくり鳴らす。階段を下りていくようなピアノの原曲。ケイさんは、そのいたはずの場所に、自分のギターを置いていた。
美晴の低い音が入る。一音ずつ、間を空けて。
足の裏に来た。
美晴が歌いだした。
教室で聞くのと同じ声だ。だが、今日のは前へ出てこない。マイクに近づいて、抑えた声で歌った。椅子が三十脚あって、そのうしろに立ち見がいて、廊下のほうにまで人が立っている部屋で、いちばん小さい出し方を選んでいた。
ナっちゃんが入った。ハイハットの縁を、軽く。それで三人になった。
一つ目のまとまりが終わって、ケイさんが足元の機械を踏んだ。ギターが厚くなり、スネアが入り、ベースが下を走る。空気が押されて、前の列の何人かが、背中を椅子に預け直した。
二つ目のまとまりの途中で、ナっちゃんの手が下りてこなかった。
スティックが上で止まったまま、次の拍が来て、過ぎた。
ギターも薄くなって、鳴っているのかいないのか分からないところまで下がった。
残ったのは、美晴のベースと、声だった。
そこから、聞こえるものが変わった。
言葉の終わりが聞こえるようになった。
息の切れ目。口の中で舌が離れる音。
指がフレットの上をこする音。歌になる前のもの、言葉になる前のものまでが、全部こっちへ来た。
意味は、英語だから俺にはよく分からない。
分からないまま、俺は、それを聞き逃すまいとしていた。
美晴が、まるで歌の一部であるかのように息継ぎをした。
俺も、気づけば同じところで息を継いでいた。
言葉の終わりが一つ、掠れた。
——あれは、俺に歌ってくれた。
そう思った。
十一月のことだ。街灯の下で、聞いたのと同じ掠れかたである。
ナっちゃんが戻ってきた。
上で止まっていたスティックが下りて、タムを二つ、下から上へ。それだけで部屋が変わった。ギターが厚みを取り戻し、ベースは動かない。同じところを、同じ強さで、支えている。
美晴の声が、そこで大きくなった。
強く、ではない。さっきまでと同じ声のまま、すこし遠くに話しかけるように。
——誰にも文句なんて言わせないでください。
ああ、俺は、この人の顔を知らないのだ。俺は聴きながら思った。
一月に、理玖は、慰める趣味はないと断りをおいてから言った。お前が遠野美晴の光について語る様子は、間違いなく恋をしている人間のものだ、と。
あれは正しいと思った。
正しいと思ったまま、なのに顔を知らないままの恋を、どこかで誤訳だと思い、ずっと持っている。
最後のまとまりが来た。
ナっちゃんがシンバルを一つ鳴らした。
それが鳴るのに任せて、そのまま手を上げなかった。
ギターが最後の一つを鳴らして、そこで止めた。
そして美晴が右の掌を弦に載せた。低い音が、掌の下で消えた。
部屋には、まだ音が残っていた。天井のあたりで、ゆっくり減っていった。
減りきってから、拍手が来た。
俺も手を叩いた。
朝から畳の縁を持っていた掌が、痛かった。
叩き続けた。
※
客が動きはじめた。
ナっちゃんがスネアのスタンドを緩め、ケイさんがシールドを抜いていく。美晴はストラップを肩から外して、ベースをスタンドに立てかけた。
それから、椅子の列のほうへ降りていった。
後ろから二番目の席の前で、二人が喋っていた。先生が二回うなずいて、それから、美晴の腕のあたりを一度、軽く叩いた。
ざわめきの満ちた大広間で、何を言っているのかは、聞こえなかった。
十一月の夜、あの歌を聞いたのは俺だけだった。今日は、俺のほうが外にいる。
だが、外にいるのも、そう悪くなかった。
受付では、来栖さんが鉛筆を置いたところだった。紙にいくつも正の字が並び、最後は上の方に寄った一の字になっている。
「二百八十六」
「二百八十六」と紺野さんが繰り返して、書き取った。
小田島さんが、その紙を受け取った。それから、今日はじめて椅子に座った。
「これで決まるわけじゃないんだけどね」
「はい」
「だけど、出せる」
玄関の内側の壁では、大隈さんが紙を剥がしていた。
二人一組の欄が、上から順に全部消してある。いちばん下の一行にも、定規を当てて線が引いてあった。
大隈さんは紙を四つに畳んで、クリアファイルに挟んだ。
「終わりましたね」と俺は言った。
「うん。おつかれさま、葛西くん」
「いえ、大隈さんこそ」
大隈さんはうなずくと、椅子の数を数えにいった。
美晴が、ベースケースを背負って通りかかった。
「遠野さん」
「葛西くん」
「よかったよ。歌も、先生との話も」
「ありがとう」
美晴は、ケースの肩紐を引き上げた。
「話すほうが緊張しちゃった。途中で、何言ってるか分かんなくなりそうで」
「大丈夫。そうは見えなかった」
「そう?」
椅子を抱えた人が通り、美晴は俺のほうへ一歩寄った。その人を見送ってから、声を少し落とした。
「歌は、どうだった?」
「よかったよ」
「うん。それは聞いた」
肩のそばの光が、ぴょこりと跳ねた。
「前に、帰り道で歌ったでしょ。あれと比べて」
十一月の、白い息を思い出した。
「すぐそばで歌ってるみたいだった」
「今日も?」
「うん。俺、いちばん後ろにいたんだけど」
美晴は、肩紐にかけた手を止めた。
「途中で、ドラムが止まっただろ。あそこから、息を吸うのまで聞こえて」
「うん」
「俺に歌ってくれてる気がした。あんなに人がいたのに」
美晴は少し黙った。
それから、肩紐を握っていた手を離した。
「そっか。よかった」
「演奏もよかったよ。歌によく合ってたっていうか」
「うん。あの部屋で、あの歌い方していいのかなって。三人で、けっこう試したんだよ」
「そうだったんだ」
「そうだったの」
美晴は、機材の残ったほうを振り返った。
ナっちゃんがアンプの前にしゃがみ、ケーブルを外していた。
「あとで、二人にも伝えとくね」
「うん」
俺は、通路に残っていた椅子を畳んだ。持ち上げようとすると、腕が重かった。
「腕、上がる?」と美晴が訊いた。
「上がらない」
「私も。でも片付けしなきゃ。またあとでね」
そう言って、アンプのほうへ歩いていった。二人がかりで持つやつである。
あの人は、さっき、あれだけの人の前で、自分の話をした。
俺は、あの人に、自分に何が見えているかを、まだ話していない。
椅子が畳まれる音がした。長机の脚が床に当たる音。路地からは、蛸八の鉄板の音がまだしていた。
八雲さんが、道着のまま廊下へ出ていった。着替えは二階である。
南ではなく、北へ折れた。
この人はいつも、そっちを使う。
段が、ぎ、と鳴った。




