演武会
玄関の引き戸は、左手だけで開いた。
右腕に長机の脚を二本抱えたまま、荷を下ろすことなく中へ入れる。
戸というのは本来、そういうものらしい。
「あれ」
うしろから来た来栖さんが、戸を、からからと動かして言った。
「うそ、軽くない?」
「権藤さんが直したんだよ」と、事務室から常盤さんが顔を出した。「先週、日曜にね。葛西くんが、朝八時から、半日、付き合ってくれてね」
長机を抱えていた何人かが、こちらを向いた。
「あんた、戸の修理なんてできたの」と紺野さん。
「えっ、葛西くん大工さんになったの」と美晴。
「なってない。修理は権藤さんです。俺は溝の掃除です」
実際、半日がかりで、それしかしていない。
「そういうのは早く言えよ」と宮下先輩が言った。「言やあ、俺も行ったのに」
「先輩、日曜の朝八時ですって」と紺野さんが言った。
「あー……」宮下先輩は黙った。
※
七時半。
玄関の内側の壁に、大隈さんが紙を貼っていた。
二人一組の欄が、二つ増えている。四月の計算では十四人だった。
四月の終わりに一年生が四人入って、十八人になった。大隈さんは、そのぶんの行を、当日までに引き直しておく人である。
「高瀬さんと羽鳥さんは、もう三階です」
四年生の多忙な二人を、もう機材の運搬につけていた。
椅子と長机が、裏の路地に面した引き戸から入っていく。
荷を持てばすれ違えない廊下である。入る組と出る組が交互になった。
次が機材である。
ドラム、アンプ二台、PA。三階から南の階段を下りる。北の方が近いのだが、踊り場が狭いからである。おまけに段が、ぎ、と鳴きもする。
「うちの親父、三十軒貼ったってよ!」
宮下先輩がアンプの片側を担いだまま言った。
「それはすごいですけど、先輩、声が大きいです」と紺野さん。
「階段は別にいいだろ!」と宮下先輩は言った。
だが、この人が声を潜めた場所が、これまであっただろうか。俺はちょっと首を傾げた。
ラインチェックは十分間。
板の間で、ナっちゃんがタムを一つずつ叩き、ケイさんがギターを鳴らし、最後に美晴が低い音を二つ出した。回線を一本ずつ通して、それで終わりである。四月の晩に、この人たちは一度、この部屋を鳴らしている。
機材を北の壁際へ寄せ、ドラムをばらし、本番の位置にテープで印をつけた。
九時前に、権藤さんが来た。
入ってくる前に、玄関の戸を端まで引いて戻し、二、三度、軽く頷いた。
※
そして、畳である。
二階の道場から二十四枚。二人一組で担ぎ、南の階段を下り、廊下を通って、大広間に運ぶ。真ん中から敷くと端で寸法が合わなくなる。東の壁から詰めて敷く。四月に権藤さんが言っていたとおりにやる。
組は大隈さんの紙のとおりだった。
二階から、青い一枚が下りてきた。前を美晴が、後ろを岩崎さんが持っている。
「重っ」と美晴が言った。「うちのアンプくらいある」
「腰から持ってください。膝を曲げて、こう」
「……こう?」
「そうです。……高さ、下げますね」
岩崎さんが後ろで少しかがんだ。畳の前の端が下がって、美晴の腕から力が抜けた。
「あ、楽」
「そのままで行けます」
二人が言葉を交わすのを、俺は初めて見た。
「葛西。手が止まってる」
紺野さんに言われて、俺は矢野と次の一枚を担いだ。
最後の一枚が入ったとき、開場まで、まだ間があった。
椅子を並べる手が、何となく丁寧になった。
受付の長机に、来栖さんが刷ったビラが一束積んである。
その机に、今日は紺野さんと来栖さんが着く。
九月の議会に出すのは、署名だけではない。この建物が現に使われているという数字である。二人が数えるのは、今日この床を踏んだ人の頭数だ。
※
小休止である。
大広間の隅で、来栖さんが紙コップを配っていた。
受け取った美晴が壁にもたれて、麦茶を一口飲んだ。
「あの子、ほんと美人……」
小さい声だった。
俺に言ったのか、独り言だったのか、判定がつかない。
「岩崎さんのこと?」
「うん。ほんと美人」美晴は同じことを言った。
「そうらしいね」と俺は言った。
「らしいって、何よ」
まずかった。
「宮下先輩が、同じことを言ってたから」
四月にも、これと似たやり取りをした覚えがある。
俺は言葉を探したが、岩崎さんについて出てくるのは別のことばかりだ。
小さく整った三角形。静かで速い受け身――美人の話ではない。
合宿の夜、一瞬だけ近くなった、風呂上がりの石鹼の匂い。俺の袖を掴んだ手――美晴に言うようなことではない。
「持ち方、教わってたよな」
「うん。膝まげて腰からって」
美晴は紙コップの縁を、少しへこませた。
「……いい子だったなあ」
それから、いつもの高さの声に戻った。
「あ。うち、アンプに布かけてない」
美晴は紙コップを片手に、北の壁際へ歩いていった。
※
畳の継ぎ目を、八雲さんが端から見ていた。
浮いているところを踏んで、沈ませて、次へ行く。俺は反対の端から同じことを始めた。
二人で真ん中まで来たところで、俺は言った。
「八雲さん」
「うん」
「先週、権藤さんと、玄関の戸を直したんです」
「聞いた」
「そのあと昼を食って、そのときに聞いた話なんですけど」
俺は少し声を落とした。近くには誰もいない。
「八雲玄斎さんというのは、八雲さんのお祖父さんですか」
「祖父だ」
「その方にも、俺と同じものが見えていたんでしょうか」
八雲さんは畳を踏む足を止めて、こちらへ向き直った。
「それは……初耳だ」
「え」
「祖父にそういうものが見えていたという話は、聞いたことがない」
八雲さんは腕を組んだ。
「権藤さんは、何と言った」
質問する方と、答える方が入れ替わった。
「若い頃に、似たようなことを言うやつがいた、と。丸いものの真ん中に光が点く。人の中には七つある、と」
「七つ」
「はい。それだけです。人の中に七つあると言ったのは、お前さんで二人目じゃ、と言われました。その一人目が」
「俺の、祖父だと」
「はい」
八雲さんは、しばらく畳を見ていた。
「祖父にも、何かと教わりはした」
やがて、そう言った。
「体のことと、技のことだ。俺のやっていることの、いくらかはあの人から来ている」
「はい」
「だが、光の話は、一度も聞いていない」
隠しごとの言い方ではなかった。
「今度、俺からも訊いてみるか」
「権藤さんに、ですか」
「うん」
八雲さんは継ぎ目へ戻り、次の一枚を踏んで沈ませた。俺も自分の側へ戻った。
※
十時、開場。
玄関の外に、もう人が並んでいた。常盤さんが戸を端まで引いて、そこで止めた。
路地には蛸八の屋台が出た。無口な大将の千枚通しが、今日はよく閃く。大将が鉄板をカツンと叩く音が、玄関口のにぎわいの中に跳ねた。
ツバメ古書堂は玄関脇に古本の均一台を並べ、常盤さんがその台を、半分だけ手前へ引かせた。
小田島さんは、朝から一度も座っていない。廊下と受付と大広間を、同じ速さで往復している。
「ビラ、見たよ」
受付でそう言った人がいた。来栖さんは、ありがとうございます、と言って、手元の紙に鉛筆で正の字の一画を足した。
午前は、書道の展示と講評、それから詩吟、太極拳。
書道の先生が、壁の半紙をいちまい指して、この払いには迷いがありませんね、と言った。
詩吟の声は朗々と後ろまで届いたが、響きがどこか物足りない。板の間なら跳ね返ったはずの声が、畳に吸われたようだ。ケイさんの言っていたことは、こういうことらしい。
太極拳の人たちは、ゆっくり動く。重心の光が、片足からもう片足へ、こぼさないように移っていく。見事なものだった。しばらく眺めていて、俺は少し得をした気になった。
輪がほどけると、そのうちの何人かが、椅子のほうへ移った。
「午後にあるんでしょ。合気道」
「はい。一時からです」
「じゃあ、ここにいるわ。せっかくだから前の方がいいもの」
人が増えてきていた。
受付の数字が一つ増えるたび、客席には三角形が一つ増えた。前の席から、その傍心が畳へせり出してくる。
十時半には、畳の上へ人々の傍心が乗りはじめた。
十一時には、畳の東半分が光で埋まっていた。
この床で、午後をやるのか。
※
十一時過ぎ、受付のほうで紺野さんの声がした。
「あら」
定規で引いたような縦の一列が、玄関から入ってくるところだった。
「南くん」
「こんにちは」
「来たのね」
「葛西を見に来ました」
「来たのか」と俺は言った。
「日曜だ。空いている」
誘いを送ったのは先週で、返事は「了解」の二文字だった。
来るとも来ないとも書いてなかったから、この来訪は嬉しかった。
考えてみれば、光のことを一緒に考えてくれたのは、この男だけだ。なのに、これまで、そのあとを見せたことはなかった。
「お前の幾何学を、そろそろ見ておこうと思ってな」と理玖はいった。
「そう言われると、ちょっと……」
緊張する。
「気合が入る」と俺は言った。
大隈さんが「気合じゃなくて、合気だけどね」と薄い声で言いながら通り過ぎた。
理玖は大隈さんの後ろ姿を見送り、「うまいな。間がいい」と言った。
※
昼を回ったころ、入口の壁際に、見覚えのある形が立った。
弓弦のように張ったオイラー線。北稜大学の東雲蓮である。
先に気づいたのは、俺ではなかった。
控えの部屋から出てきた岩崎さんが、廊下の途中で足を止めて、頭を下げた。
「来てくださったんですね」
東雲の喉元の光が一つ、ほんの少し上がった。前に一度、見たことがある。千回やっても負ける気はしません、と俺に言った、そのときだ。
だが今日は岩崎さんに、「はい」と返しただけだった。
二人は少しの間、言葉を交わしていた。それから岩崎さんは大広間へ入っていった。
東雲がこちらへ来た。
「葛西さん」
「東雲さん」
「今日は、見させてもらいます」
「……はい」
なぜ来たのか、俺は訊けなかった。
五本やって、取れたのは一本だけだった相手である。その人が、日曜に電車に乗って、わざわざ俺の演武を見に来たのだろうか。
「岩崎さんに、聞いたんですか」
「はい。合同稽古の日に、教えてもらいました」
「そうですか」
「はい。それでは」
東雲は壁際へ戻った。
※
十二時四十分、控えの部屋で帯を締めた。
廊下へ出たところで、美晴とすれ違った。
「やっぱ畳が敷いてあると、部屋の音が違うね」
「そうだな」
「いつも下から聞こえる、どすん、ってやつ」と美晴は言った。「今日は、目の前で見れるね」
「うん」
「見てるからね」
十三時。
畳の東の端に、部員が二列で並んだ。
板の間には椅子が三十脚ほど並び、そのうしろは立ち見が出た。
大隈さんが前へ進んだ。
「汐見大学合気道部です。二十分、お願いします」
礼。
最初は受け身である。一年生四人が、畳の端から端まで転がっていく。どん、どん、と音が続いて、客席のどこかで、おお、と声が上がった。岩崎さんの音は小さくて速い。落ちた音が消える前に、もう立って列へ戻っている。
畳が二十四枚あると、端から端までは、思ったより長い。
次が基本技。
大隈さんが短く技の名を言い、組が入れ替わる。技が一つ終わるたび、大隈さんは二歩だけ動いて、次の組の位置を空ける。演武というのは、ほとんど段取りである。
八雲さんは畳の北の隅に正座して、出ない。
宮下先輩と来栖さんが正面打ち一教を四本。
紺野さんと袴田さんが、突き小手返しを三本。
一年生四人が、両手取り天地投げを二本ずつ。
七月である。窓を全部開けても、畳と板のあいだに熱がたまった。一年生の道着の背中は、もう色を変えている。
俺は、矢野と組んだ。片手取り入身投げ。取りが俺。
手首を取られる。矢野の三角形が傾ぐ。
そこまではいつも通り。
だが、そこで俺は迷った。
床が、読めなかったのだ。
矢野の胸の外心から、糸のような光が落ちている。
その先を中心に外接円が広がり、内側には床の三角形がある。
だが、その上に客席の傍心が重なっていた。最前列から三つ。その隣からも、そのまた隣からも入り込んでいる。円周と、知らない誰かの傍心が、同じ濃さで光っていた。
俺は線を探した。その間に矢野の重さが両足へ落ち着いた。
掴んだまま、待たせてしまった。
技は通った。が、半拍遅い。矢野は、遅れたぶんを自分で埋めて落ちた。
交代して、俺が受けた。
矢野の手が来る。正確だった。
体が浮いた。
顎を引き、背中を丸め、畳を叩いた。
一つの音がした。
拍手が来た。
立ち上がりぎわに、矢野が小さく言った。
「葛西くん。今の、遅かったですよ」
「はい」
この男は思ったことをそのまま言う。
列へ戻った。
立ち見の後ろで、弓弦のようなオイラー線が、位置を変えずにいた。
次の演武のため、俺は床に目を慣らそうとした。だが、うまくいかなかった。
客が動いたり座り直したりする。子供が抱き上げられる。そのたびに、畳の上の点は入れ替わった。
大隈さんが俺の横を通りながら、「葛西くん。最後、いつも通りで」と言った。
それが、いちばん難しいやつである。
順番は、大隈さんが二週間前に決めている。
片手取り四方投げ。
十二月に来栖さんと五十本。合宿で、宮下先輩と三十本、袴田さんと五十本。
だが、そうやって数えていない日の方が多い。いちばん多くやった形だ。
俺は最後の組で、岩崎さんとだった。
※
組が一つずつ減っていく。
どん、と鳴って、二人が礼をして下がる。次の二人が出る。
残り二組になったとき、自分の呼吸が浅くなっているのに気づいた。
前の組の音が落ちて、二人が下がった。
部屋が静かになった。客が最後の音を待ち構えているのが伝わってきた。
畳の中央へ出た。畳の縁を踏まないように、半歩だけ内へ入る。
向かいから、岩崎さんの小さな三角形が来る。
位置も、間合いも、決めてある。
岩崎さんが右足を引き、いつもの距離になった。
最前列の席で、権藤さんが顔を上げるのを見た。
折れた曲尺の線が、こちらを向いている。
礼。
「お願いします」と岩崎さんが言った。
半身に構える。
岩崎さんが、俺の右手首を取った。
押されていない。引かれてもいない。
ただ、手の置き場所がなくなった。
技の起こりに合わせ、右後ろの傍心だけが沈んだ。
足元の外接円は見えている。その内側の、床へ置き直された三角形も。
だが客席から、何十もの傍心が畳へ乗り出していた。
西寄りの椅子の列には、風を受けた若枝のような美晴の三角形が、こちらを向いている。
どんな顔をしているかは、分からない。
全部が見えた。それが迷いを生んだ。
円周を探した。
一つ目を疑った。
二つ目へ目を移しかけた。
——分かるから、分かったあとで動こうとする。
今、俺の手首を取っている人の言葉だった。
読むのをやめた。
手首の圧が、掌の付け根へ回る。
岩崎さんの体は、一つのまま来ていた。掴んだ手から足の裏まで、途中がない。
俺の足の裏には、畳の目が一本、通っていた。
息を吐いた。
どこへ行くかを決める前に、足が出た。
右足が半歩。腰が回る。取られた手は、その回転の中にあった。
手を返し、自分の額の上へ通す。もう半歩。
岩崎さんの重さが、支えのない側へ移った。
顎が引かれ、背中と腕が一緒に畳へ入り――
畳が鳴った。一つの音だった。
そこで初めて、足もとを見た。
俺は、探していた円の上に立っていた。
※
岩崎さんは、いつもの速さで起きた。
向かい合って、礼をする。
「音、一つでしたね」と岩崎さんが言った。
「うん」
「はじめて組んだときは、私が落ちました」
「面目ない」
「いいえ。さっきのは先輩に、きれいに通されましたね」
岩崎さんは袴の膝を払った。
「今まででいちばんの音がしました」
「岩崎さんの音です」
「半分は」彼女は言った。
整列して、礼。二十分が終わった。
拍手が起きた。畳二十四枚に吸われていても、部屋いっぱいの拍手は盛大だった。そして、長い拍手だった。
畳から下りて、俺は東の端の一枚に手をかけた。転換は十五分である。
「葛西さん」
東雲だった。立ち見の列から出てきて、畳の縁の外に立っている。
「はい」
「もう一度、組ませてもらえませんか」
俺は手を離した。
「今日は……ちょっと無理ですけど」
「今日でなくて構いません」
東雲は、そこで一度、言葉を探した。この人が探すのを、俺は初めて見た。
「そちらの道場へ、伺ってもいいですか」
「……八雲さんに訊いてみます」
「お願いします」
「あの」
「はい」
「なんで、ですか」
東雲は、少し黙った。
「今のを、自分の体で受けたいからです」
何と言っていいか分からず、東雲に訊ねた。
「これは、ありがとうございます、と返すところですか」
「多分、ちがいます」
それが全部だった。
東雲は一歩下がって、畳の前を空けた。
俺はその背中を見送り、縁へ手をかけ直した。
「岩崎さん、そっち持ってください」
「はい」
持ち上げると、畳の下から板の間が出た。
一枚めくっただけで、大広間の声の響き方が、もう少しだけ変わった。
この床はこれから、音を返す床になる。
俺は二枚目へ手をかけた。




