手間賃
「常盤さん。権藤さんが戸を直すの、いつですか」
「明日の朝。八時に来るそうだけど」
「俺も来ていいですか」
「稽古のない日だけど」
「戸のほうです」
常盤さんは、事務室の窓から玄関を見た。
「そりゃ、助かる。あの人、何でも一人でやるつもりだからね」
※
翌朝、八時より少し前に着いた。
玄関の戸は、半分ほど開いていた。その前で、見覚えのある曲尺が低くかがんでいる。
権藤さんは戸を少し動かし、止め、また動かした。
「おはようございます」
「おう。そっち持て」
何をしに来たとも訊かれなかった。
言われた側へ回って、戸のふちを両手で掴んだ。
「横とちがう。下じゃ。下の横木に手を回せ」
持ち直した。
権藤さんは、俺の手が決まるまで待っていた。
「ええか。ちょっと上げるぞ」
上へ持ち上げ、下側を手前へ出す。
溝から離れた戸の重さが、両手に来た。
毎週、開け閉めはしているが、外れたのを持ったのは初めてだった。
俺が下から支え、権藤さんが向きを変える。二人で玄関脇へ運び、古い毛布の上に寝かせた。
戸がなくなると、玄関の本当の幅がよく分かった。
肩を斜めにして通っていた入口だが、建物のほうには、そんなつもりはなかったらしい。
権藤さんは低い腰掛けに座り、戸の下端を調べ始めた。
俺には、敷居の溝を浚う仕事が割り当てられた。
「まず、ここをきれいにせえ。残っとるもんを取るだけでええ。木まで掘るな」
「はい」
溝には、砂と、細かい埃と、それらが一つになった黒いものが詰まっていた。
最初はよく取れた。こんなにあれば、重いはずであった。
端にこびりついたものは、箒で掃いても動かない。渡された道具を浅く当て、少しずつほぐす。何度か、木を削っていないか指で確かめた。
向こうから、ときどき、金物の触れ合う小さな音がした。
権藤さんは古い戸車を外し、指で回していた。
「ほれ兄ちゃん、これ見てみい」
差し出されたものを受け取った。
「回してみい」
一応、回りはするが。途中で重くなる。
「それを、こっちに替える」
新しいほうは、俺が指を離しても少し回っていた。
毎週、戸の前で一度ずつ体を踏ん張っていた。そのたびに、この小さなものも回ろうとしていたのだ。
「古いのは箱の横じゃ」
「はい」
俺は古いほうを置き、新しいほうを権藤さんへ戻した。
七月の朝の光が、玄関の段を越えてきた。
最初は膝の先にあった日向が、いつの間にか肘のあたりまで届いていた。汗を拭いて、また溝へ向かう。途中で権藤さんが道具の名を呼ぶと、手を止めて探した。どれがそれか分からず、二度ほど、違うものを渡した。
権藤さんの指は、一本ずつが太かった。
その指が小さな金物をつまみ、戸の底へ収め、ずれないように押さえたまま、もう一方の手が道具を回す。最後のところで動きが小さくなり、ぴたりと止まった。
権藤さんは、取りつけた戸車を指で回した。
それから、もう一度だけ、道具を当てた。
「そっちはどうじゃ」
「取れました」
権藤さんは腰掛けからゆっくり立ち、俺の横へ来た。
溝の端を、指先でひと撫でした。
「まだあるな」
爪の先に、黒いものが少しついていた。
木の色だと思っていたが、引っ搔いてみると分かるようだ。
「……ありますね」
俺は、もう一度かがんだ。
※
戸を戻すときは、権藤さんが上を合わせ、俺が下を寄せた。
「ゆっくりじゃ」
横木の下側を持ち、少しずつ下ろした。戸の重さを、敷居が受け取った。
権藤さんは立ったまま、戸を二往復させた。
閉めたところで、戸と柱のあいだを上から下まで見た。
「これでええ。試してみい」
俺は引き手に右手を掛けた。
これまでが嘘のような軽さである。勢いがつきすぎて、慌てて止めた。
「そんなにつよう引かんでええ」
ほんの少し引いただけで、戸は、からからから、と開いた。
いつもの、ずずず、という引っ掛かりがない。
俺は戸を閉めて、開け、また閉めては開けた。
事務室から常盤さんが出てきて、同じことをした。
からからから。
「ほう」
今度は閉めて、からからから。
もう一度。からからから。
「ほう」
「二人で何遍やる気じゃ」権藤さんが笑った。
「いや、ついね」と常盤さんは言った。
気持ちはよく分かった。
権藤さんは、道具を箱へ戻した。
俺は玄関の段を掃いた。
溝から出たものは、塵取りの隅に、小さく収まった。
時計は、昼に近かった。
「飯を食うぞ」
権藤さんが道具箱を閉めた。
「お昼をご馳走しようと思ってたんですが」と常盤さんが言った。
「お前さんには、金物の勘定を回す。こいつの手間賃は、わしが払う」
「手間賃ですか」
「人の半日を、ただで使うほど落ちぶれとらんわい」
「俺が勝手に来たんですけど」
「勝手に来た人間なら、ただで使ってええんか」
そういうことなら。俺の腹も、さっきから食事のほうに賛成していた。
※
道具箱を事務室に預け、手を洗って、宮下酒店まで歩いた。
厚い板のいちばん奥に、二人で並んだ。
宮下先輩はいなかった。店の人が皿と飲み物を運んでくると、権藤さんは「これも頼む」と、棚の煎餅を指した。
「常盤への差し入れじゃ」
「俺、帰りに届けときましょうか」
「じゃあ頼もうか」
「はい」
ハムカツに、ポテトサラダ。
俺のラムネと、権藤さんの湯呑みの酒。
ここで飲んでいるのは、俺たちだけだった。
ラムネの瓶は冷たかった。
戸の縁を支えていた掌を、しばらくそこへ押しつけた。
「飲まんのか」
「飲みます」
一口飲んで、ハムカツを食べた。ソースがよかった。
空腹が少し落ち着いたころ、俺は声を落とした。
「権藤さん」
「うん」
「病院で、俺が、目の話をしたときのことを覚えていますか」
「おう。こないだ言うたろう。兄ちゃんの描いた紙は、うちに貼っとるよ」
「それがちょっと不思議で」と俺は言った。「なんで、俺の言ったことを疑わなかったんだろうって」
俺は消灯後のカーテンを、今でも思い出す。教会の告解室のような夜。
顔どころか、姿も見えなかった。
その向こうから、自分のはどう見えるのかと訊かれた。
あの順番で返ってきたことに、俺はずっと、助けられていた。
「聞き覚えがあったんじゃ」
「聞き覚え」
「若い頃に、似たようなことを言うやつがおった。丸いもんの真ん中に光が点く。人の中には七つあるとな」
俺は、ハムカツに伸ばしかけた箸を引っ込めた。
「その人、俺と同じものが見えていたんですか」
「同じかどうかは、わしには分からん。じゃが、人の中に七つあると言うたのは、お前さんで二人目ということじゃ」
七つ、と言った人がいた。
俺が生まれるよりずっと前に、その話を権藤さんにした人がいた。
「それで……俺に、どう見えるかって訊いたんですか」
「そりゃあ、お前、自分がどんな形か、知りたかろうが」
権藤さんは湯呑みを置いた。
「曲尺になっとるとは、思わなんだがな」
声に笑いが混じった。
「その人とは、どういう知り合いだったんですか」
権藤さんは湯呑みをとり、視線を中に落とした。
「そうじゃな……親友じゃった」
権藤さんは、ハムカツの残りを口へ入れた。
「名前、なんていう人ですか」
飲み込むのを待った。
「八雲玄斎。透の爺さんじゃ」
「八雲……。透って」
「お前さんらの師範代よ」
俺は権藤さんのほうへ向き直った。
「八雲さんの、お祖父さんですか」
「そうじゃ。八雲治療院を始めた男じゃ」
ラムネの瓶から落ちた水が、板の上で丸く広がっていた。
俺は瓶を持ち上げ、底を拭いた。
お前には、何が見えている。
そして、何が見えていない。
十二月の道場で、八雲さんはそう訊いた。
俺が何を言おうとしているか、話し始める前から知っているようだった。
お祖父さんから、何か聞いていたのだろうか。
「その玄斎さんに、会えますか」
俺は身を乗り出して訊ねた。
権藤さんは湯呑みを取った。
「……今は、会えんところにおる」
そうなのか。
俺はラムネの瓶の口をみつめた。
「……そうですか」
それ以上は、訊かなかった。
俺は瓶を置き、箸を取った。
「そっちも食え」
権藤さんが、ポテトサラダの皿を押してきた。
「いただいてます」
「さっきから、ちっとも減らん」
じゃがいもを一つ取った。
黒胡椒が利いていた。思ったより辛くて、またラムネを飲んだ。
隣では、権藤さんが煎餅の袋を一度裏返し、常盤に渡すのを忘れんようにな、と言った。
「今日はありがとうございました」
「礼はこっちじゃ」
「なんか楽しかったです。ご馳走にもなったし」
「わしもじゃ。またな、兄ちゃん」権藤さんは手をひらひらと振った。
挨拶をして店を出て、煎餅の袋を片手に、会館に向かった。
道すがら、考えた。
俺と同じものを見ていたかもしれない人。
それは八雲さんのお祖父さんだった。
八雲さんに、訊いてみようかと思った。
玄斎さんの目には、いったい何が見えていたのか。
そして俺は、これから何を見ることになるのか。




