一本目は分かりませんでした
八つとも、円の上だった。
理玖から返事が来たのは、北稜大学へ向かう電車の中だった。
俺が送った画像には八つの点が打ってあり、返信には、そのすべてを通る赤い円が描かれていた。
「誤差は畳の目、一つ以内。いい仕事だった」
早起きしてまで畳の上を這い、測量した甲斐があったというものだ。
青雲荘から戻って三週間、床の円と線は消えなかった。
焦点を外せば、相手の外心から糸が下り、床に三角形と外接円が現れる。円周へ足を置くと、三つの粒が直線に並ぶ。
シムソン線。そこから先は遅れない。
宮下先輩にも、袴田さんにも、矢野にも通った。紺野さんには十本に三本だったが、以前なら十本とも、答えを出している途中で終わっていたところだ。
見えるだけだったものが、ようやく体の役に立ち始めている。
隣で紺野さんが、俺のスマホを覗き込んだ。
「何、その丸」
「理玖に、足の位置を調べてもらったんです」
「数学科って、そんなことまでやるんだ」
「いやあ、理玖だけだと思いますけど」
「きっとそうね。あの子、かなり変わってるから。それで? その丸で、技でも通りやすくなるの」
「通りやすく、なったと思います」
「ふうん……」
疑ってはいるらしい。だが、否定はされなかった。
通路を挟んだ席に、岩崎さんがいた。対抗稽古に出る五人は二年生以上から選ばれたので、岩崎さんは午前の合同稽古だけに参加する。
俺の視線に気づき、こちらを向いた。
「どうかしましたか」
「いや。対抗稽古、岩崎さんは経験者だから、出られればよかったのになって」
「今日のメンバーは順当ですよ。私は、またの機会に」
岩崎さんは胸の前で、小さく拳を握った。
「先輩は今日なんですから。合宿の成果を見せてください」
「うん」
三週間前、岩崎さんには、床にいい場所がある、とだけ答えた。
今日は、その場所に立てる。
八雲さんが面白いと言った学生を相手にしても立てるのか、それを試しに行く。
※
北稜大学の道場は、体育館の二階にあった。
壁際には賞状と盾が並んでいる。
地区大会準優勝、県大会三位、全日本学生出場。
うちの道場にあるのは、旧文化会館を守る会のポスターと、去年の忘年会の集合写真だった。
北稜は、普段から勝敗のつく自由稽古をするらしい。
こちらにも自由稽古はあるが、技が通った数を競ったりはしない。技の名前は同じでも、稽古の文法が違う。
入口で靴を脱ぐと、北稜の学生が二人、ほとんど同時に岩崎さんへ近づいた。
「荷物、こっちに置けます」
「女子更衣室、案内します」
道場にいた十人ぶんの三角形が、次々に岩崎さんへ向いた。
「荷物なら汐見で持つから大丈夫だ!」
宮下先輩の大きな三角形が、岩崎さんと二人のあいだへ割って入った。
「宮下先輩、声が大きいです」
「道場だからな!」
それでも一人だけ、別の方向を向いている学生がいた。
道場の奥、窓際に立っている。
背は俺と同じくらい。腕を自然に下ろし、足を肩幅より少し狭く置いている。体に重なる三角形は、大きくも小さくもない。その中を通るオイラー線が、上下から引かれるように張っている。
弓の弦のようだ。
その視線だけは、俺のほうへ向いている気がした。
「整列」
八雲さんの声で、両大学の部員が動いた。
窓際の学生は、北稜の列へ混ざった。
※
午前は、合同で基本技を繰り返した。
北稜の学生は、全体に足がよく動いた。技が通らなければ、力を足すより先に位置を変える。床に見える円も、汐見大の部員よりよく動いた。
俺は三人と組み、十本のうち七本、六本、五本と通した。
相手が替わるほど数字は下がったが、以前のように遅れはしなかった。
窓際にいた学生とは、一度も組まなかった。
その人は、畳の反対側で宮下先輩と組んでいた。
宮下先輩が手を伸ばした瞬間、張った弦が音もなく戻るように、その体が動いた。
九十キロが、もう畳にいた。
どん、と一つ。
俺は、その学生の足元へ焦点を合わせずに目を置いた。
円が見えた。
右足は、円周から半歩ほど内側にある。シムソン線は出ていない。
それでも、技は通っていた。
「見すぎるな」
八雲さんが横を通りながら言った。
「はい」
見ていることは、やはり見つかった。
※
対抗稽古は、午後の最後に始まった。
畳の中央を空け、両大学が壁際へ分かれて座る。
「突きからの自由技。取り五本ずつ。受けは技を外していい。関節は力で止めるな。受け身まで技が切れずに通れば一本。五本で交代。以上だ」
普段の稽古なら、受けは危険になる前に動きを合わせてくれる。
今日は、合わせない。
正しいだけでは、一本にならない。
四組が先に出た。
宮下先輩は五本とも投げ、五本とも投げられた。引き分け方の豪快な人だ。
「最後。葛西。東雲」
北稜の列から、窓際にいた学生が立った。
畳の中央で向かい合う。
「北稜大学二年、東雲蓮です」
静かな声で、名字と名前の切れ目まで、同じ強さで発音した。
「汐見大学二年、葛西湊です。よろしくお願いします」
礼。顔を上げる。
東雲の三角形は、近くで見ても、遠くから見た形と変わらなかった。
七つの点は、止まっているのではない。体の中で細かく動き続け、そのたび正確に元の位置へ戻っている。
オイラー線の張りも、道場の反対側から見たときと同じだった。
「先、葛西」
八雲さんの声がした。
俺が取り。東雲が受け。
互いに半身に構える。
俺は焦点を外した。
俺は七つの光から焦点を外した。
外心から糸が下り、畳に円と三角形が現れた。
東雲が踏み込む。右の拳が俺の胸へ伸び、円も一緒に動いた。
俺は円周へ足を置いた。
三つの粒が一直線に並ぶ。シムソン線。
拳を外し、伸びた手首を取る。
見る。読む。決める。
その三つをしないまま、線の向きへ足を送り、腰を回し、腕を導いた。
東雲の重さが消えた。
畳が鳴った。
「一本」と八雲さんが言った。
「よし!」
汐見大の側から声が上がった。誰の声か、確かめる必要はなかった。
東雲は仰向けになったまま、自分の右手を一度見た。
すぐに起き上がる。
「もう一度、お願いします」
二本目。
さっきと同じ右の突き。
俺が同じ場所へ足を置き、手首に触れた瞬間、東雲の左足が半歩引かれた。
円が動く。三つの粒がばらけ、手首が俺の手から抜ける。
「なし」
三本目。
東雲は、その場から短く突いた。
俺が線を出すと、右足を動かした。線が回る。
円の上を追う俺に合わせて、東雲も歩く。
一歩。もう一歩。
そのたびに、線が出る場所が少し先へ逃げた。
「なし」
偶然ではない。この人は、俺の何かを見ている。
四本目、俺は東雲が動くまで待った。
肩が動く。俺も動く。だが、肩だけだった。
一瞬遅れて、反対の足から拳が伸びた。
円が切り替わる。
俺の足は、古い円周にあった。
拳を外すだけで終わった。
「なし」
東雲が、俺の足を見た。
五本目。
俺は、円を探していることを、足へ知らせないようにした。
突きが伸びる直前に円へ乗る。三つの粒が並んだ。
だが東雲の腰が沈むと、円の中心はそのまま、床の三角形が形を変えた。
線が回った。そして俺の腕は、何もない方向へ抜けた。
「なし」
取れたのは一本目だけだった。
「交代」
今度は東雲が取り、俺が受けになる。
東雲の右足は、円周より少し内側にあった。線はない。
俺は右の拳を出した。
東雲が動いた、と分かったときには、手首を取られていた。
技の起こりがない。俺の目に変化が届いたときには、その変化はもう終わっていた。
次に見えたのは、傾いた天井だった。
顎を引く。背中を丸める。畳を叩く。
どん、と一つ。
「一本」
二本目は、踏み込む速さを途中で変えた。だが見えたのは、俺が崩される方向だった。
三本目、東雲の円へ足を置いた。線は現れたが、俺は受けだ。その向きへ何をすればいいのか分からない。迷った瞬間、俺の体は線の外へ運ばれた。
四本目は、手首を取られた記憶がほとんどない。気づいたときには、受け身を取り終えていた。
「一本」が三度続いた。
五本目、東雲の足は最後まで円周へ乗らなかった。
それでも俺の体は浮き、畳が一つ鳴った。
「一本。終了」
畳の上で息を吐く。
五対一。
俺が半年かけて、部で誰にも負けなくなったことが一つある。
五本すべてで役に立った。
投げられたあと、きれいに起き上がることだった。
東雲と向かい合い、礼をした。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
顔を上げても、東雲は動かなかった。
その三角形は、崩れずに俺へ向いていた。
「葛西さん」
「はい」
「動く前に、僕を見なくなるんですね」
意味が分からず、東雲の顔を見た。
「見ています」
「焦点が、どこにも合っていません。そのあと、足を置く」
遠山の目付。
この人は、三本目までにそれを見つけていた。
「二本目から、俺の足を見ていたんですか」
「目も見ていました」
東雲は言った。
「一本目は、分かりませんでした」
なぜか、褒められたようには聞こえなかった。
「技は、きれいです」東雲は続けた。
「ありがとうございます」
「でも、写しです」
道場が静かだった。
「写し?」
「答えだけが合っている。そこへ行くまでがない」
東雲は、俺が一本目に立った場所を見た。
「あなたの体が選んだ場所には見えませんでした」
床に、いい場所がある。
そこへ立てば、遅れない。
俺は線の向きへ体を運んだ。選んではいない。
「きれいに写しているから、一本目は止められませんでした。でも、置く場所が決まる前か、決まったあとに相手が変われば、あなたはまた探す」
見る。読む。決める。動く。
東雲は、俺が飛ばした三つを、外から戻してきた。
北稜側から、低い声がした。
「東雲」
だが、東雲はそちらを見なかった。
「葛西さん」
「はい」
一度、口を閉じた。
喉元の光が、ほんの少し上がった。
「今のあなたなら、千回やっても負ける気はしません」
その言葉は、なぜか浮いて聞こえた。
五対一で勝った人間が、自分のほうが強いと言った。おそらく、それは正しい。
だが、なぜわざわざ口にするのか、俺は不思議な気がした。
北稜の学生たちは、誰も声を出さなかった。
北稜側の三角形は、朝、岩崎さんへ向いたとき以上に、ぴたりと東雲へ向いていた。
「礼」
八雲さんが言った。
俺と東雲は、もう一度頭を下げた。
※
道場を出るころには、窓から差す光が赤くなっていた。
階段の踊り場で、岩崎さんが待っていた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
下から、北稜の学生とまたやろうと話す宮下先輩の声が響いてくる。
五本投げて、投げられて。宮下先輩はたいへん満足そうだった。
岩崎さんと並んで階段を下りた。
「一本目」と、岩崎さんが言った。
「はい」
「遅れませんでしたね」
「残り四本は遅れました」
「一本目は、遅れませんでした」
岩崎さんは念を押すように言った。
「東雲さんは、千回やっても負けないと言ってました」
岩崎さんが一段下で止まり、言った。
「今の、って言いました」
俺も足を止めた。
四月にも、この人から同じ言葉を聞いた。
八雲さんの「実力は今のところまだまだだ」という評を伝えたあとだった。
――今のところ、というのは、そのうち変わるということです。
「一本目だけは分からなかった、とも言ってました」
「はい」
「北稜のほかの人たちも、あの言葉に驚いてました」
「一本、取っただけで?」
「一本、取られたからです」
階下から、宮下先輩が俺たちを呼んだ。
俺はもう一度階段を下り始めた。
五対一。
十本の攻防で、畳は六度鳴った。
そのうち最初の一つだけが、俺の技で鳴った。
乾いた、一つの音だった。




