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残心

 二日目の夜も、談話室に人が集まった。

 今夜は初めから話題が決められていた。どうして合気道を始めたか。

 昨夜よりは、安全そうな話だ。


 大隈主将は「気づいたら入部届を書いていた」と言った。大隈さんの場合、本人が気づく前に事務処理だけ終わっていた可能性がある。

 来栖さんは、袴田さんに誘われたから。袴田さんは、来栖さんに誘われたから。二人の証言は、原因と結果が輪になっていた。

 矢野は「見学した日に、続けられそうだと思ったので」と言った。皆勤賞の男が口にすると、続けるという言葉がずいぶん重い。

 俺は、八雲さんに誘われたから、と答えた。高架下で美晴を助けたことは、話さなかった。

「へえ」と袴田さんが言う。「師範代、勧誘することなんてあるんだな」

「紺野は?」宮下先輩が言った。「剣道六年やってたんだろ。なんで大学では合気道にしたんだ」


 紺野さんの三角形が、ぴたりと止まった。

「この前、右肘かばってたよな。そんなに悪いのか?」

 前夜、五項目を並べて俺を吊るした人である。

 答えたくないとは、少し言いにくいらしい。

 俺は膝の上のノートを閉じた。

「守護霊に合気道を勧められたんでしょう」と俺は言った。

「あんた、また出したわね、それを」

 反応が速かった。


「ああ、例の」と来栖さん。

「危ないことを先に教えるって言ってたやつだろ」と宮下先輩が言った。「そいつ、合気道まで勧めるのか?」

「紺野さんは、何かにつけて言ってくるんですよ」

「あんたが何もない空中ばかり見てるからよ」

「いませんよ、霊なんか」

「いるわよ! そうじゃなくてもあんたが何か隠してるのは間違いないの。看板はどう説明するのよ、看板は!」

「あれは、ボルトのところに錆びが流れててですね、それで理玖が――」

 談話室が沸いた。

 止まっていた紺野さんの三角形は、もういつものように動いていた。

 黙っているより、俺へ噛みついているほうが、この人には合っている。

「葛西、本当のところ、いるのか。守護霊」と宮下先輩が訊いた。

「いません」

「即答が怪しい」と袴田さん。

「何を言っても怪しまれる、俺の身にもなってください」

 話が一周して、笑いが収まったころ、紺野さんは自分から口を開いた。


「高三の六月に、右肘を壊したの」

 さっきまでの勢いを使い切ったような、静かな声だった。

「インターハイの予選前。竹刀は振れるけど、試合の本数は振れないって言われた。一本や二本なら平気。でも、一日勝ち上がるだけの数は無理だった」

 誰も口を挟まなかった。

「大学でも剣道をやろうとは思った。でも、振れるのに振れないっていうのが、たぶん一番嫌だった。それで、打たない武道を探した。ここに合気道部があったから、見に来た」

「未練とか、ないのか」と宮下先輩が訊いた。

「未練とかじゃないんです。剣道で好きだったのは、打つことじゃなかったから」

「じゃあ、何が好きだったんだ?」

 少し間があった。

「打ったあと」

「あと?」

「残心。打って、当たって、それで終わりじゃない。打ったあとも、構えと気持ちが切れずに残ってること。当たってても、そのあとが崩れてたら一本にならない」


 紺野さんの言葉を聞きながら、俺は床の線を考えていた。

 円周を歩くと、三つの粒が並び、一本の線になる。技が通ったあと、その線はどうなっていただろう。

 相手が畳へ落ちた瞬間に、消えたのか。まだ残っていたのか。

 俺は、見ていなかった。

「合気道にも、あると思う」と紺野さんが言った。「投げたあと。離れたあと。終わったと思ったあとの形」


 雨が静かに窓を打つ音が聞こえていた。

 ざんしん、という響きが、その中でうつくしかった。

 雨樋から雫が、ぽたりと落ちた。雨の音はその後も続いていた。


「消灯だ」


 いつのまにか、談話室の入口に八雲さんが立っていた。

「明日は六時半。以上」

 八雲さんが廊下へ消える。

 その直前、紺野さんの三角形が、ほんのわずか、その背中のほうへ傾いだ。

 今日は目を使いすぎた。


  ※


 三日目の朝、俺は六時前に大広間へ下りた。

 畳の上には、誰もいない。俺は理玖から出された宿題を見直すことにした。


 昨日、宮下先輩に同じ場所へ立ってもらい、技が通った位置を記録した。ノートには八か所ぶんの座標がある。最低五点と言われて、八点取るのは、理玖と付き合ってきた年月のせいだと思う。


 相手がいないので、床の円も三角形も見えない。

 それでも、足を置いた位置の記憶を、ノートと照らし合わせる。

 一点目。大広間の南側、畳の縁《へり》から十一目。

 二点目。そこから右へ二枚と、七目。

 足を置き、向きを確かめる。


「昨日の葛西先輩、途中から遅れませんでしたね」

 声がして振り向いた。

 岩崎さんが、大広間の入口に立っていた。


「おはようございます」

「おはようございます」

 彼女は中へ入り、俺のノートを見た。

「何を数えてるんですか」

「昨日、立っていた場所です」

「いち、に、さん……八か所ですか」

「最低五つと言われたので」

「誰にですか」

「数学科の友達に」

「研究か何かですか」

「そんなところかな」

 岩崎さんは、畳へ正座した。


「先輩、いったい何が見えたんですか」

 自転車のときは、どうして分かったのか、と訊かれた。今日は、何が見えたのか、と訊かれた。質問が、どこか確信の色をもってきていた。

 答えられる範囲で答えた。

「床に、いい場所があるみたいなんです」

「そこに立つと、遅れない?」

「たぶん。まだ、昨日一日だけなので」

「そうですか」


 岩崎さんは、それ以上、訊かなかった。

 稽古着の袖へ手を入れ、小さな平たい缶を出した。蓋を開けると、金平糖が入っていた。

「食べますか」

「こんぺいとう」と俺は言った。

「朝稽古前です。低血糖予防に」


 俺がそれじゃあ、と手を出すと、岩崎さんは掌へ三粒落とした。白と、薄い青と、黄色。丸っこいとげとげの奥に、光が一つずつ点《とも》っている。


「先輩って、ほんとに人の顔をじっと見ますよね」

 手の中の金平糖から顔を上げた。

「なんで、そんなに見るんですか」

「どうしてかな」

 読めない本を、読んでいるふりをしているのだ。だが、俺はそれを言わなかった。

 岩崎さんは、薄い緑の一粒を自分の口へ入れて、それ以上は訊かなかった。


  ※


 朝稽古で、俺は八雲さんの足を見ていた。


 相手が替わるたび、床の三角形が替わる。円の大きさと中心も替わる。

 だが八雲さんは、いつもその円の上に立っていた。

 宮下先輩の大きな円にも。

 矢野の狭い円にも。

 来栖さんの少し前へ寄った円にも。


 相手が手を伸ばし、体が動き、円が移る。それに合わせて、八雲さんも動く。

 足が着いた場所が、円周になる。

 三つの粒が並ぶ。

 一本の線が現れる。

 そのときには、相手の体はもう崩れていた。


 見る。読む。決める。動く。

 八雲さんの動きには、四つの切れ目がなかった。

 この人は、円も線も見えていない。

 だが見ないまま、そこを歩いている。


  ※


 帰りのワゴンが山を下り始めたころ、八雲さんが前の席から振り返った。

「来月、北稜大と合同稽古をやる」

 眠りかけていた部員が、いくつか起きた。


「対抗戦形式だ。詳細は戻ってから伝える」

「強いんですか、北稜大」と宮下先輩が訊いた。

「強い」

「よし!」

 何がよいのかは、分からない。

 八雲さんは前へ向き直る前に、もう一つだけ言った。


「向こうには、面白い学生が一人いる」

 面白い。

 その言葉を、八雲さんが人に使うのを聞くのは二度目だった。

 一度目は、俺のことだった。


 窓の外に、濡れた山が続いていた。

 木々の奥には、巨大なものがまだ黙って居座っている。


 俺は、その面白い学生に会ってみたいと思った。

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