シムソン線
二日目の朝。
岩崎さんは何事もなかったように、目玉焼きへ醤油をかけていた。
俺も何事もなかったように、味噌汁を飲んだ。
尤も、何事かあったのかと訊かれれば、風が吹いただけのことであるが。
食堂の窓には、昨夜の雨が細かく残っている。
その向こうで、山が朝の光を受けていた。
午前の稽古は、七時から始まった。
「片手取り四方投げ。互いに五十本ずつ。以上だ」
八雲さんが言った。
前日の午後、五時間稽古して、今朝である。
一年生の返事は、起き抜けの布団のように重かった。
宮下先輩だけが、いつも通り大きい。
俺は袴田さんと組んだ。
手首を取られる。袴田さんの三角形が傾ぎ、一つの傍心が畳へ沈む。
そこへ導けばいい。答えは、いつも通りすぐに分かった。
そして、いつも通り遅れた。
袴田さんが、ばた、たん、と二つの音で受け身を取った。
二本目は、遠くの山を見るように、袴田さんを三角形ごと視界へ入れた。
今度は、どこへ導けばいいのかが分からなかった。
迷っているあいだに、袴田さんが三つの音で畳へ落ちた。
「今のは俺も悪かった」
「いえ、今のは十割、俺です」
昨日と同じだった。
一点を読めば、答えは分かる。だが遅れる。
三角形ごと見れば、どこを読めばいいのか分からない。
どちらも外れだった。
※
昼食の焼きそばを食べているあいだも、目の奥に光が残っていた。
人の七つを長く見すぎて、目を閉じても残像が浮かぶ。
食堂に集まった人間の光が、まぶたの裏で白い砂のように散っている。
「葛西、大丈夫か」
目のあいだを指でつまんでいると、宮下先輩が訊いた。
「目が疲れただけです」
「寝不足だろ。夜更かししてたもんな」
向かいの席で、岩崎さんが麦茶を飲んでいる。
俺は焼きそばへ目を戻した。
「夜更かしはしました」
「ほどほどにしとけよ。今日も午後三時間あるぞ」
昼休みは、部屋で十五分だけ横になった。
目を閉じると、まぶたの裏の光は、いつのまにか七つではなくなっていた。どれが誰のものか分からない粒が、ばらばらに浮いている。
見ないようにすると、かえって見える。
人の目は、なかなか言うことを聞かない。
※
午後は、宮下先輩と組んだ。
「葛西、目が死んでるぞ!」
顔というのは、便利なもののようである。
宮下先輩の手が、俺の手首を掴んだ。
九十キロの体に、いつもの三角形がうっすら重なっている。いつもなら、その中から一点を選ぶ。沈んだ点を見て、方向を読んで、足を置く場所を決める。
だが、もう目がしょぼしょぼして、光を追うことそのものを嫌がっている。
俺は諦めた。
全体を見るのでも、一点を見るのでもない。
焦点を作ること自体をやめた。
宮下先輩を、ただ視界の中に置いた。
七つの光から、焦点が外れた。
すると、不意に、それまで見えていなかったものが浮いた。
外心から、細い光が一本、真下へ伸びていた。
先輩の鳩尾あたりから畳まで、蜘蛛の糸ほどの細さで垂れている。光は両足のあいだに触れ、そこで小さく滲んでいた。
なんだ。
そこへ焦点を合わせると、消えた。
「どうした?」
「少し待ってください」
もう一度、焦点を外す。
糸が戻った。今度は、その先で何かが開いた。
薄く光る、円だった。
宮下先輩の足元を中心に、両腕を広げたくらいの輪が、音もなく床へ広がっている。
その内側には、三角形があった。
人の体に重なっている、いつもの三角形ではない。それを一度ほどいて、床へ置き直したような三角形だった。
三つの頂点が円に触れている。胸の外心から下りた糸は、その円の中心へつながっていた。
「先輩。動かないでください」
「お、おう」
俺は円の上に立った。
足元から三本の淡い光が走り、床の三角形の三辺へ、まっすぐ伸びた。
三辺に触れたところで、小さな粒が三つ光った。
この点は、なんだろう。
三つの粒は、同じ一本の線の上にあった。
その向きがひどく正しく見えて、俺は息を止めた。
こっちへ行けばいい。
そう考えたときには、足が動いていた。
円のふちを、わずかに滑る。三つの粒を結ぶ線が回り、腰も腕も、その向きについていった。
宮下先輩の手首を、光の線が示すほうへ導く。
九十キロの重さが、手の中から消えた。
見る。読む。決める。
その三つをした覚えがない。
畳が、どん、と一つ鳴った。
宮下先輩が仰向けのまま、俺を見上げている。
「……先輩?」
「葛西」
「はい」
「もう一回!」
先輩は跳ね起きた。
二本目は、さっきと反対側から円へ乗った。
三つの粒が、別の向きに一列に並ぶ。足を円の外へ出すとばらけ、戻すと、また並んだ。
「葛西?」
「すみません。確認しています」
「何を?」
「それは、まだ分かりません」
分からないまま、線の向きへ体を運んだ。
宮下先輩は一本目とは違う向きへ落ち、畳が鳴った。
立つ場所を変えると、線も、落ちる向きも変わる。
三本目は、円を踏み外した。
線が崩れ、宮下先輩の体が途中で重さを取り戻した。ばたん、と音が割れた。
四本目。通った。
五本目。通った。
十本目を終えると、宮下先輩が跳ね起きた。
「葛西。さてはお前、なんか掴んだな!」
「床に、いい場所があるみたいです」
「床?」
先輩は足元を見た。もちろん、緑の畳しかない。
「まあいい! もう十本やろう!」
組み替えで、袴田さんが来た。
円へ乗る。線が現れる。その向きへ体を運ぶ。
どん、と一つ。
袴田さんが、畳の上で目を丸くしていた。
「今の、いい音だったよな?」
「袴田さんの音です」
「一つだったよな!」
「一つでしたよ!」
受け身の音は、半分は投げた側で決まる。
俺はその音を、投げられる側で何度も聞いてきた。
だが、袴田さんの割れる音を、自分の技で一つにしたのは初めてだった。
俺が円の外側を妙に歩いているのを見て、紺野さんが言った。
「あんた、さっきから何なの、その動き。妖怪の盆踊り?」
ひどい喩えである。だが、きっかけを作ったのは、この人の言葉だと言っていい。
「葛西」
八雲さんに呼ばれた。
「はい」
「今のを、あと十本」
それだけだった。
※
休憩に入ると、俺は理玖へ電話をかけた。
二度目の呼び出し音で出た。
「もしもし。三角形の話をしていいか」
「お前がその前置きをするのは珍しいな。いつも勝手に始めるだろ」
「床に三角形が見えるようになった」
電話の向こうが静かになった。
「最初から話せ」
俺は、床に見えたものを話した。
人の外心から糸が下り、その先を中心に円と三角形が現れること。俺が円の上へ立つと、足元から三辺へ線が下り、三辺に触れた三つの点が一直線に並ぶこと。
理玖が息を吸う音がした。
「葛西。それはシムソン線だ」
「シムソン」
「外接円上の一点から、三辺かその延長へ垂線を下ろす。その三つの足は一直線に並ぶ。それがシムソン線だ」
俺はノートに書いた。
シムソン線。
「円の上を歩くと、線も回る」
「そうなる」
「その線の向きへ動くと、技が通るんだ」
電話の向こうが、また静かになった。
「それは数学の話じゃないな」
「俺もそう思う」
「投げる向きを変えたければ」
「円の上を歩けばいい。それだけだ」
理玖はいくつか質問をした。人が動けば円も動くのか。円の大きさは人によって違うのか。技の途中でも三点は並び続けるのか。俺は分かる範囲で答えた。
「お前は今日、畳の上で、定理を一つ拾ったわけか」
「そうらしい」
「落とし主はいない。持っておけ。だが、情報が足りない」
「今日出たばかりだからな」
「宿題にしよう。宮下先輩に同じ場所で構えてもらえ。技が通ったときに立っていた位置を、畳の目で記録しろ。最低五点。できれば線の向きも。帰ったら俺が検証する」
「五点も?」
「三点なら円は必ず引ける。四点目からが証拠で、五点あれば誤差が見れる」
「稽古なんだけど、俺のは」
「兼ねろ。武道と測量は両立する」
両立……するかなあ。
通話を切ると、大広間から受け身の音が聞こえた。




