友達です
風呂と片付けが終わると、学生は一階の談話室に集まった。
長机が二つ。座布団。宿の自動販売機で買ったジュースと、売店の菓子。
窓の外では、雨が雨樋を一定の速さで叩いている。
はじめはトランプだった。
俺は人の顔が読めないぶん不利かと思ったが、札を見たあとの三角形の変化を拾えば、意外と戦えた。だが、大隈主将の三角形は薄く、変化を追いにくい。思わぬ強敵だった。いっぽう周囲の評によると、ポーカーフェイスの矢野は、こういう遊びに強いらしい。だが、顔が分からない俺には関係ない。
四回目が終わったところで、宮下先輩が言った。
「合宿の夜といえば、恋バナだろ!」
「古いです」と紺野さん。
「古くない! 山、合宿、消灯前! 条件が揃ってる!」
説得力のなさを、声の大きさで補っていた。
「じゃあ宮下先輩から」と来栖さんが言った。
「俺か? 俺は、その、今は部活が大事だからな!」
「逃げた」と袴田さん。
「逃げてない! 大事なんだ、部活が!」
宮下先輩の三角形が、一瞬だけ岩崎さんのいる方へ傾いだ。すぐ戻った。
俺は見なかったことにした。
この先輩については、頼まれてもいないが、うまくいけばいいと思っている。
「だったら葛西」と宮下先輩が言った。話の矛先が、こっちへ来た。「お前は、いるだろ」
「何がですか」
「何が、じゃない。三階のベースの子!」
談話室じゅうの三角形が、一斉にこちらを向いた。
「遠野さんのことですか……」
「お、名前がすぐ出た」と袴田さん。
「それは、語学クラスが同じなので」
「それだけじゃないでしょ」
紺野さんが指を立てた。
「ひとつ。土曜の稽古が終わると、南階段の下で待つ」
「着替えた時間が、たまたま合うだけです」
「ふたつ。遠野さんが降りてきたら、一緒に出る」
「帰る方向が同じですから」
「みっつ。毎週、蛸八に寄る」
「通り道です。小腹の空く時間ですし」
「よっつ。十二個入りを一舟だけ買って、六個ずつ食べる」
「十二個を一人で食べると、夕飯に響くので」
「いつつ」
紺野さんは、俺の右手にあるスマホを指した。
「ここへの到着を報告した、ただ一人の相手」
反射的にスマホを伏せた。
やってから、これでは認めたようなものだと思ったが、遅かった。談話室に笑い声が広がった。
「ちょっと待ってください。なんで送った相手まで分かるんですか」
「あんたの顔がそう言ってるのよ」
確かめようのない証拠である。
「で、どうなんだよ」と宮下先輩。「付き合ってるのか」
答えは簡単なはずだった。
付き合おうと言ったことはない。言われたこともない。
十月の夜、家の近くの角で、唇が触れた。十二月には、美晴が俺の手を自分の頬へ持っていき、左のえくぼに触れさせた。土曜には一舟のたこ焼きを六個ずつ食べる。
それらを、何と呼ぶのか。
付き合っている、とは言えないだろう。
「……友達、です」
一秒、静かになった。
そのあと、さっきより大きな笑いが起きた。
「その間は何だ、その間は!」と宮下先輩。
「友達って言うのに、助走が要るのが答えでしょ」と来栖さん。
「ほらね」と紺野さん。
何が、ほらね、なのか。
岩崎さんの三角形が、一度だけ、ほんの少し縮んだ。
すぐ戻った。
技の起こりに似ていた。
「葛西先輩、顔が赤いですよ」と一年の誰かが言った。
「風呂上がりだからです」
「全員、風呂上がりですよ」と矢野が言った。
逃げ道が塞がれた。
そのとき、廊下から、ぎ、と床板の鳴る音がした。
八雲さんが戸口に立っていた。
「消灯まで十五分」
それだけ告げて、いなくなった。
八雲さんは、人を助けるときも技の話しかしないが、今日は時刻だけだった。
恋バナは、そこで自然に解散となった。
※
眠れなかった。
体は、たいへん疲れている。膝は熱を持ち、肩も腕も重い。横になれば、そのまま朝まで落ちるものと思っていた。
だが目を閉じると、談話室で自分の言った声が戻ってきた。
——友達です。
嘘ではない。
ただ、全部でもない。
同室の宮下先輩は、布団に入って三分で寝た。寝息まで声が大きい。袴田さんが一度寝返りを打ち、矢野は寝ているのか起きているのか、まったく音がしなかった。
時計を見ると、十一時四十分。
俺は上着を一枚羽織り、部屋を抜け出した。
せっかく山へ来たのだ。夜の空気を吸いに出るのもよかろう。
玄関を出ると、雨は上がっていた。
濡れた土と、葉と、古い木の匂いがした。空気は六月にしては冷たい。雲の切れ間があり、そこに月が出ていた。
丸い月だった。月は丸くても、例の光は付かない。
月自体が明るいからか、それとも俺の目は空にまでは届かないのか。
分からなかった。
分からないまま、玄関脇の木のベンチに腰を下ろして見上げていた。
「お月見ですか」
声がして、振り向いた。
あの小さく整った三角形が、玄関の明かりから出てくる。
「岩崎さん」
「はい」
「眠れないんですか」
「少し。葛西先輩も?」
「俺もです」
「バスでお昼寝したせいかも知れません。隣、いいですか」
「どうぞ」
一人ぶん空けて、岩崎さんが座った。
膝の上で、両手をそろえている。
「さっきの、たいへんでしたね」と岩崎さんが言った。
「さっきというと」
「友達です」
「……聞かなかったことにしてもらえませんか」
「全員の前で言ったことを、私一人が聞かなかったことにしても、あまり変わらないと思います」
正論である。
「遠野さんって、三階の音楽研究会の人ですか」
「そうです。ベースの人です」
「先輩、よく天井を見てますもんね」
「……見てるかな」
「はい。見てます」
俺は、自分が訊きたかったことを思い出した。
「岩崎さん。前に、朝早く道場で八雲さんと稽古してましたよね」
「はい」
「あのとき、何を話してたんですか」
訊いてから、踏み込みすぎたかと思った。
だが岩崎さんは、そのまま答えた。
「戻ってもいいか、訊きに行ったんです」
「戻る」
「合気道に。六年前、引っ越しで道場をやめました。自分でやめたわけじゃないけど、六年も何もしなかったら、やめたのと同じでしょう」
「同じではないと思いますけど」
「私は、同じかもしれないと思ってました」
岩崎さんは月のほうを見た。
「それで、八雲さんに訊きました。まだ戻っていいですか、って」
「何て答えたんですか」
「何も。手首を取れって」
あの朝の、言葉のない十本を思い出した。
「十回投げられました」
「それが答えだったんですか」
「たぶん。十回とも受け身が取れたので、自分で、戻っていいということにしました」
わざわざ訊ねずとも、戻りたければ、戻ればいいのではないか。
俺は聞きながら、そう思っていた。
だが話を聞くと、それは八雲さんらしい答え方だ、とも思う。
「そのとき、葛西先輩の話も聞きました」
「俺の?」
「今の部に、葛西という面白いのが一人いるって」
「面白い……ですか。それは誉め言葉なのかな」
「実力は今のところ、まだまだだ、とも言ってました。すみません」
「いや、まあ本当のことだから」
しかし意外ではあった。
八雲さんが、誰かについてそんなふうに話すのを、俺は聞いたことがなかったのだ。
岩崎さんは続けた。
「今のところ、というのは、そのうち変わるということです」
「そうでしょうか」
「変わらないと思っている相手に、八雲さんは、今のところ、なんて付けません」
岩崎さんは、人の留保を、こういうふうに訳す人だった。
「八雲さんって、人の名前をほとんど出しません。だから、葛西先輩はすぐ憶えました」
しばらく、雨だれの音だけがした。
軒のどこかに残っていた水が、一定ではない間隔で石へ落ちている。
「先輩には、守護霊がいるんですか」
会話の角度が、急に変わった。
「いません」
「紺野先輩は、いるって」
「紺野さんは、そういう話が好きなだけです」
「危ないことを、先に教えてくれるって聞きました。来栖先輩から、看板の話も聞きました」
とうとう一年生にまで届いていた。
「ああいう勘が、時々働くんです」
「自転車のときも同じですか」
「まあ、そんなところです」
倒れると分かったのは光を見たからだ。いつ倒れるかは分からなかった。
だから、勘という言葉の中に押し込めても、ぎりぎり嘘ではないと思う。
「先輩の技が遅れるのって、その勘のせいなのかもしれないですね」
「と、いうと」
「分かるから、分かったあとで動こうとする」
俺は岩崎さんを見た。
顔の部品は見える。目も、鼻も、口も。どんな表情を作っているかは分からない。
「自転車も、間に合ってませんでした」彼女は言った。
俺は笑った。
言われてみれば、その通りである。倒れることは分かったのに、立て直す前に風が吹いた。
「痛いところを突くなあ、岩崎さん。たぶん合ってます」
「そうですか」
「うん」
彼女の三角形は、小さく整っていた。
六年前の三年ぶんが、いまもその形に残っている。
部の誰より先にそれが分かったことを、俺は少し誇らしく思っていた。
「先輩は、何かが見えてるんでしょうね」と岩崎さんが言った。
雨上がりの空気の中で、その声だけが、やけにはっきり聞こえた。
「だけど、何かが見えてない」
それは、どこかで聞いたことのある言葉だった。
「何が見えていないと思います?」
訊かずにはいられなかった。
岩崎さんは、少し考えた。
「それは、私にも見えません」
そのとき山が、鳴った。
風がヒョウと一度、高い音で通り過ぎて、濡れた木々を一度に揺らしたのだ。そして暗い斜面の奥から、ざわざわと木々の囁きが押し寄せてきた。
岩崎さんの手が、俺の袖を掴んだ。
三角形が縮んだのは、そのあとだった。
考えるより、手のほうが先に動いたらしい。
風呂上がりの石鹼の匂いが、一瞬だけ近くなった。
俺の心臓が明らかに一つ、余計な打ちかたをした。
音がやんだ。岩崎さんは俺の袖から手を離した。
何事もなかったように、ただ空を見上げ、手のひらを上へ向けた。
俺は、まだ少し落ち着かなかった。
美晴が俺の手首を両手で取った夜を思い出していた。俺の指を自分の左の頬へ運び、えくぼができていく途中を触らせた、あの熱い手を。
「雨、また来ますね」
細い粒が一つ、その手に落ちた。
「戻りましょうか」
「そうですね」
俺たちは立ち上がり、玄関へ向かった。
岩崎さんの手は、相手が誰かを、確かめることなく動いたらしい。
心臓はどうなのだろう、と俺は思った。
俺の心臓は、相手が誰かを、確かめることなく打ったのだろうか。




