畳が緑
山を見るのが苦手らしい。
そのことに気づいたのは、合宿へ向かうワゴンが市街地を抜けて、山道に入ってからだ。
朝から降り続いている雨が、ガラスを斜めに走っていた。
窓の外の緑が、濃くなっていく。
木の一本一本に、幹の中心を示す光が見える。むき出しになった岩にも。
そこまでは、いつもの賑やかな景色だ。だが木々の向こう、岩盤の奥のどこかに、途方もなく大きなものが黙って居座っている感じがする。
木と岩と土を全部まとめた、巨大な一つ。
なんだか少し怖い。
俺は、努めて焦点を外し、すべてをぼんやりと見ていた。
「葛西」
呼ばれた方に目を向けると、一つ前の列から、紺野さんがこちらを見ていた。
「はい」
「あんた、いつから遠山の目付を習ってるの」
「えんざんのめつけ?」
訊き返すと、彼女は窓の外をあごで指していった。
「遠くの山を眺めるみたいに、全体をゆるく見る目。剣道の目付の理想とされてる。あんた、山相手だと出来るじゃない」
紺野さんの隣には、来栖さん。窓側に岩崎さんが座っている。出発前にできた女性三人の陣である。
俺の隣は矢野だった。乗ってから一時間、半分ほど眠り、起きている半分もほとんど喋っていない。皆勤賞の男は、移動中まで無駄がない。
「こうしてないと目が疲れるので」
「何よそれ……まあいいわ。前に言ったでしょ。場の全体を見ろって。人間相手でも、それをやるのよ」
紺野さんは、そう言って前に向き直った。
遠山の目付か。
山を見る練習が人間に効くかは知らないが、剣道では、ものを見る作法にさえ名前をつけているのか、と思った。
焦点を留めず、山全体を見る。
木々の奥にある巨大な何かは、やはりそこにいるようだった。
※
青雲荘へ着いたのは、正午を少し回ったころだった。
玄関の軒下で、大隈さんが点呼を取った。
「……えー、学生は十人ですね」
「大隈さん」と来栖さんが言った。「十一です」
「あれ」
「先輩、自分のこと数えてないんじゃ……」
「あっ」
大隈さんは名簿の上を指でもう一度なぞって、「十一ですね」と言い直した。
「去年も同じことやってたのよ」と来栖さんが笑って言った。
いくら存在感が薄い人でも、頭数に自分を入れ忘れるものだろうか。俺はちょっとおかしかった。
しかし大隈さんの仕事は、常に人知れず行き届いていた。
今だって、玄関の壁には、もう大隈さんの丁寧な字で書かれた部屋割りが貼ってある。縁の下の人なのだ。
「葛西くん」
振り向くと、大隈主将が、壁の寝具確認表を指していた。
部屋ごとに、オンとオフの欄がある。
「布団を敷いたらオン、片づけたらオフに丸をお願いします」
「分かりました」
なんだか謎の項目だな、と思いながら俺は答えた。
「お布団の、オフとオンです」
大隈さんは薄い声で言い、俺の返事を待たずに名簿へ戻った。
……もしかして、そのダジャレを言いたいだけの項目ではないか。
荷物を置くと、すぐに大広間へ集合となった。
大広間の畳は、緑だった。
「畳が青くない」と俺が言ったら、部員の何人かが深く頷いた。隣の芝生がいかに青かろうが、畳はうちほど青くなかろう。
その緑の畳は、匂いも硬さもふだんと違った。受け身の音を最初に聞いたとき、俺たちは合宿に来たことを改めて認識した。
「午後は五時間」八雲さんが言った。「膝行、受け身。あとは基本。以上だ」
一年生が固まった。
宮下先輩だけが「よし!」と嬉しそうに声を上げた。
※
膝行で、畳の端から端までを十往復した。
両膝をつき、腰を浮かせず、片方ずつ前へ送る。字にすればそれだけだが、三往復目で太腿が熱くなり、五往復目で膝が自分のものではなくなった。
「腰が上下してる!」と紺野さんの声が飛んでくる。
「はい」
「返事で下げるんじゃなくて、腰を下げなさい!」
八往復目から、俺は畳の縁を数え始めた。数えて何になるわけでもないが、先の長さが数字になると少しだけ耐えやすい。
次は受け身。
後ろへ百、前へ百。
大広間の端から、全員が順番に転がっていく。どん、どん、と音が続き、山荘全体が遠くで雷を飼っているようだった。
袴田さんの音は、今日も二つに割れた。背中がついて、半拍あとに腕が畳を叩く。ばた、たん。
矢野は一つだった。入部したころより、ずっとよくなっている。
岩崎さんの受け身は小さく、速い。畳へ落ちた音が消えるより先に、もう立って次の列へ戻っている。
俺の番。
顎を引き、背中を丸め、畳を叩いて、立つ。
二百回という数字は苦痛だったが、一回の中でやることはもう一つだった。入部した日のように、三つの動作が体の中で渋滞することはない。
「葛西先輩、音が一つですね」一年生が言った。
「練習してれば、そのうち一つになるよ」やってきたことの九割がこれである。俺は自信をもって言った。
午後三時を過ぎたころ、ようやく二人一組になった。
「片手取り四方投げ。互いに三十本ずつ」
八雲さんの号令で、組が散った。
俺の相手は宮下先輩だった。
手首を取られる。
宮下先輩の三角形が、わずかに前へ傾ぐ。重心は右足へ寄り、左後ろの傍心が畳へ沈む。
いつもなら、それを順番に読む。
今日は、一点ずつ追わないようにしてみた。
遠い山を見るように、宮下先輩の全部を見る。
顔の部品も、丸太のような胴も、掴んでいる手も、両足も、体に重なる三角形も、緑の畳も。
すると、何も分からなくなった。
見えてはいる。
だが三角形も、ほかのものと同じ濃さになって、どこから読めばいいのか決められない。
迷った瞬間、太い腕が返った。
気づくと畳が横にあった。
「葛西、今のは何を待ってた!」
「全体を見ようと」
「俺なら最初から全部ここにいるぞ!」
それはそうだった。
二本目も広く見た。やはり遅れた。
三本目は、いつもの見方へ戻した。三角形の傾ぎを見る。傍心を見る。導く場所を決める。半歩出る。
読むことはできた。だが技は遅れた。
広く見れば、何を読めばいいか分からない。
だが一点に絞れば、読み終えるまでに遅れる。
三十本が終わるころには、宮下先輩の道着の肩が汗で色を変えていた。俺の腕も上がらなくなっていた。窓の外では、雨が少し強くなっていた。
最後は、座って互いの手首を取り、押し引きする稽古だった。
足が使えない。力むと固まり、抜けば倒れる。二月に八雲さんと二人でやったときから、俺の体は、いまだにその二択のあいだを探していた。
「今日はここまで」
その声を聞いたとき、大広間の全員が、一度に息を吐いた。
五時間の稽古が終わった。
終わったが、雑巾がけは残っていた。
※
風呂まで一時間あった。着替えて廊下へ出たところで、スマホを取り出し、美晴へ一通送った。
「初日の稽古終わり。畳が緑」
揺れる犬のスタンプが来た。
「おつかれさま! 畳が緑ってふつうじゃない?」
「うちは青いぞ」
「知ってるけどね。真下だから」
少し置いて、もう一通。
「もうすぐごはんでしょ。カレー焦がしちゃ駄目だよ」
俺はまだカレーの話をしていなかった。
「なんでカレーって分かる?」
「合宿だから」
たいへん大雑把な推論だが、正解だった。
夕食は自炊で、カレー二十人前。
大隈主将が米の袋と人数表を持ち、炊飯器を三台に分けていた。自分を点呼から落とした人が、米は一合も落とさない。
「葛西くん。これは冷蔵庫へ」
渡されたのは、翌朝用の木綿豆腐だった。
「もめん豆腐で、一休み。モーメント・オフ」
大隈さんは三秒だけ壁に背を預け、すぐ人数表へ戻った。
英語を取り入れた、巧みなダジャレである。俺は噴き出すかと思った。
「大隈さん、それ、みんなの前では言わないんですか」
大隈さんは薄く笑い、言った。
「みんなの前でいうのは恥ずかしいじゃない」
俺相手だと恥ずかしくないらしい。いったい大隈さんにどう思われているのか、少し気になるところである。
俺の担当はジャガイモだった。隣で袴田さんが皮を厚く剥きすぎて、丸かった芋を次々と多面体にしていく。
剥きながら、俺はふと手を止めた。
じゃがいもにも、点いている。でこぼこの塊の、芯の少し寄ったあたりに、小さな一点。皮を剥くと、それが動く。厚く剥いた側から逃げるように、わずかに引っ越す。
「そこ。芋とお見合いしてないで、さっさとやる」と、紺野さんに進捗を管理された。
カレーは焦げなかった。
二十人前の大鍋は、宮下先輩の指揮のもと、きれいに空になった。八雲さんはおかわりを一度した。大隈主将は最後まで配膳と皿の数を合わせていたので、危うく自分の分を食べ損ねるところだった。
自分というのは、やはり数えにくいらしい。




