見れば分かるでしょう
四月の終わりに、四人入った。部としては大漁である。
去年は紺野さんと矢野の二人だったはずで、俺は十月の終わりの入部である。
四人とも、名前より先に、三角形の見分けがついた。
外の三つが妙に開く男。線がゆらゆらする女子。上から二つ目だけがやたら明るい男。
人名鑑は、光が名前の先に埋まることがある。
岩崎さんも来た。届を出して、これからよろしくお願いしますと頭を下げて、その日はそれだけで帰った。五月までは忙しいらしく、稽古着も持ってきていなかった。
その挨拶のとき、宮下先輩は「宮下岳です」とフルネームで名乗った。俺のときは名字だけだったのにな、と俺は思った。
岩崎さんは「宮下先輩」と反復した。覚えようとしているのだ。袴田先輩のときも、来栖さんのときも、同じようにした。
岩崎さんが帰ったあと、宮下先輩が届けを読んで、声を上げた。
「お、岩崎さん。経験ありだ。小学生のとき三年だってさ。ということは……」
「ブランクが六年か」と袴田さんが言った。「他の一年生と、そう変わらんだろ」
「受け身くらいは残ってるんじゃないか」と宮下先輩が言った。
ずいぶん過小評価するんだな。俺は聞きながら、そう思った。
意外だったのは、袴田さんの「ブランクが六年か」で、部の誰もが、岩崎さんを正しく分類したつもりになっていたことだ。
「六年も空いてるようには、見えなかったけどな」
雑巾を絞りながら、半分ひとりごとのつもりで言った。だが道場は思ったより静かで、思ったより声が通った。
「どゆこと、葛西」と宮下先輩が言った。
「岩崎さんですけど、あの子、相当うまいと思います」
「そんなこと、なんで分かる」と袴田さんが言った。
「なんでって……見れば分かるでしょう」
「そんなの見て分かるもんじゃねえよ」
「分かりませんか」と俺は言った。
「分かんねえ」
「経験者っていっても、子供のころよ」と来栖さんが言った。
「見た目なら、一年は全員、同じくらい下手に見えます」と矢野が言った。この男は思ったことをそのまま言う。
俺は、自分の間違いに気づいた。証拠なら、持っていたのだ。
「こないだ、一回組んだんです。師範代に言われて」
「おい、先に言えよ、それを」と袴田さんが言った。
「すみません」と俺はあやまった。
だが俺の発言は、何もそのときの手応えを根拠としていたわけではなかった。
見れば分かるというのは、そのまま、見れば分かるという意味だったのである。
人の体に重なる三角形。それが自分にしか見えていないことは、もちろん分かっている。
分かっていたつもりだ。
だが、俺はどこかで思いちがいをしていたらしい。あれは現に、俺の目の前にある。それを他の人は見ていないなんて、どうして心の底から思えただろう。
「ていうか、いつの間にそんな稽古してたの」と来栖さんが言った。
俺は話した。朝に道場へ行ったら二人がいたこと。言葉なしで十回ほどやっていたこと。岩崎さんはそのまま、先輩たちが来るまえに帰ったこと。
「会話もなし? 知り合いなのかな」と宮下先輩が言った。
「むかし、同じ道場で一緒に習ってたそうです」
「へえ」
「一緒に習ってたって、師範代と?」と来栖さんが言った。
「そう言ってました」
来栖さんは、そこで質問をやめた。
「師範代っていくつなんだろ。誰か知らない?」と紺野さんが言った。
誰も答えなかった。もちろん俺も知らない。角打ちで直接訊いて、さあ、で終わっている。三十年くらいは稽古している人だと見当をつけているが、八雲さんなら、帯を締めたまま生まれていても驚かない。
※
連休が明けて、岩崎さんが稽古に出てくるようになった。
一週間もしないうちに岩崎さんは一年生の列から外れ、上級者と組むようになった。八雲さんが何か言ったわけではない。部の全員が理解したのだ。岩崎さんは上だ、と。
ただ岩崎さんが部でいちばん強いということではない。宮下先輩にふつうに投げられるし、小田島さんにはまるで通じない。
六年分のブランクもあるようだ。戻っていないのは、技の切れと、体力と、細かい形。だが、子どものときに体へ入ったものは、抜けないらしい。そして俺に見えているのは、そっちのほうだった。
五月のなかば、中庭を歩いていたら、遠くで誰かが手を振った。
俺は振り返した。顔が分からないので、誰だか分からないときは、とりあえず振り返す。
その日の稽古で、岩崎さんが言った。
「葛西さん、今日、中庭で手を振ったら振り返してくれましたね」
「あれ、岩崎さんでしたか」
「はい」
「すみません。遠いから、実は分からないまま振り返してました」
「えー、二回振ったのに」
岩崎さんは正座したまま帯の結び目を直した。
「じゃあ、次からは近くで振りますね」
「そうしてもらえると助かります」
「ちょっと、あんた」
いつのまにか紺野さんが横に立っていた。
「何すずちゃんをいじめてるのよ」
「いじめてません」
「じゃあ何よ、今の」
「遠くから振られた手が、誰の手だか分からなかったって話です」
「……あのね」紺野さんは、少しのあいだ言葉を探した。「そういうのは、守護霊にでも聞きなさいよ」
「いませんよ、そんなの」
「いるでしょ。危ないことを先に教えてくれるんだから、人の顔くらい教えてくれるでしょうよ」
「守護霊、ですか」と岩崎さんが言った。
「ついてるのよ、この人。そのうち分かるわよ」
紺野さんは岩崎さんの背中を押して、向こうへ連れていった。
「そんなのいませんってば」と、俺はその背中に言った。
※
五月の終わり近く、雑巾がけをしていたら、宮下先輩が隣に並んだ。
「なあ葛西」
「はい」
「お前さ、女の子の顔を見て話すのに、なんかコツとかあんのか」
それを俺に訊くのかと、苦笑するしかなかった。
「コツ、ですか」
「だってお前、誰と喋っても目えそらさねえじゃん。紺野にも、来栖にも、岩崎にも。とくに岩崎なんて、俺、喋るときにどこ見たらいいか分かんねえよ」
「……なんでですか」
「これだもんなあ」と宮下先輩は言った。
「相手の顔のあたりに、視線を置いておけばいいんですよ」
「置いておく」
「はい。置いておくだけです」
これは技術ではない。俺には、置く以外にやりようがないというだけの話である。
宮下先輩はしばらく黙って雑巾を押していたが、廊下の端まで来たところで、感心したように言った。
「お前、美人に耐性があるんだなあ」
美人。
なるほど、そういうことか。俺はようやく理解した。
だが耐性があるのではない。入力がないのである。
事故の前の俺は、宮下先輩と同じだった。いや、もっとひどかった。
人と話しているあいだじゅう、自分の膝とか、相手の靴とか、そういうところに目を置いていた。相手が女子だと、そこから一度も上がらなかった。まわりが騒ぐような人が相手だと、そもそも話しかけなかった。十九年、ずっとそうだった。
それが、顔が分からなくなって、直った。
いや、直った、というのは正しくない。顔がなくなったので、そらす理由がなくなったのだ。いま俺の目の前にあるのは、あたかも机の上に置かれた、読めない本である。どんな本でも、それを手にとって読んでいるふりくらいはできる。
おかげで俺は、誰とでもまっすぐ向き合って話せる男になった。
その代わり、そこに何があるのかは、たぶん一生分からないのだ。
十九年ぶん欲しかったものが手に入って、欲しかった理由のほうが消えた。
可能になったことと、不可能になったことが、同じ一つの事故から出ている。どちらか片方だけ、というわけにはいかなかったらしい。
※
六月の最初の土曜、稽古のあとに蛸八へ行った。
十二個入りを一舟。六個ずつに分ける。
「来週から合宿だっけ」
「うん。二泊三日」
「山?」
「山。青雲荘ってところ」
「いいなー」と美晴は語尾を伸ばした。
「そういえばさ、こないだ中庭で、女の子に手え振ってたでしょ」
「見てたのか」と俺は言った。
「すけべ」と美晴は言った。
「なんでだよ」と俺は言った。「あれは遠くて誰だか分からんまま振ってたんだ」
「嘘だ。葛西くん二回も振り返してたもん。笑顔だったし」
「うちの新入部員なんだ。稽古のとき分からなかったって言ったら、今度はもっと近くで振りますってさ」
「あんな子が入ったの? あの子、すごい美人じゃない?」
美晴もか……どうやら岩崎さんの美人は相当なようである。
「宮下先輩が同じこと言ってた。顔見れないって」
「宮下先輩には訊いてないもん」
「俺は見れるぞ」
顔のある辺りを、だが。
「どうだか」
肩のそばの一点は、跳ねなかった。
「ねえ葛西くん。もしかして私のときも、本当は誰だか分からないまま手を振ってたの?」と美晴は訊いた。
「いや。遠野さんは分かるよ。三十メートルくらいは大丈夫」俺は胸を張って答えた。これは本当である。岩崎さんは二十メートルでも怪しいが、美晴のことは三十メートルでも分かる。
「どうだか」美晴は言った。
肩のそばの一点が跳ね、その〇・五秒後、ふふっと笑った。
※
梅雨である。
六月の第三金曜は、朝から雨だった。
会館の前に合宿のワゴンが二台。荷物と、人と、カレーの材料が積み込まれていく。二十人前だそうだ。
「先輩、隣いいですか」
岩崎さんがそう言って、来栖さんと紺野さんの座っている列に入っていった。女性三人の陣ができた。
「あそこ、なんかいいな」と一年の男子が言った。
「そうだな」と俺は言った。
言ってから、自分が何も分かっていないことに気づいた。
「……なにが?」
「なにがって」
彼は少し笑って、当たり前のことを言うみたいに言った。
「先輩、見れば分かるでしょう」
なるほど、そういうことならば、俺は黙るしかない。
ワゴンが出発した。
窓の外は雨で、山のほうは白く霞んでいた。




