岩崎すず
四月。部活動の新歓シーズンである。
大学の銀杏並木を行けば、先輩方が虎視眈々、新入生らを待ち構えている。
ビラは俺にも配られた。顔がまだ、どこか幼く見えるのかも知れない。ただ、あいにくの相貌失認である。どんな顔かは、自分のでさえ分からない。
人が多いのは、少し苦手だ。人が一人増えるたび、光が七つ増える。この季節、俺の視界はその掛け算で賑やかである。
しかし、陽光の美しい季節だ。山並みも建物も、みんな明るく照らされている。
こんな季節に、なにか新しいことを始めてみようかというのも、少し分かる気がする。
※
その日は二限が休講になり、時間が空いた。図書館へ寄るつもりで、駐輪場の脇を歩いていた。
ふと、目の端で光が明滅した。
自転車が一台、並びの端に停まっている。前かごに紙袋が二つ。ビラの束と、生協の袋。中身はたぶん教科書である。
前輪が車体に対して深く切れていた。ハンドルが内へ巻き込まれているところに、前かごの重みがかかっている。
合気道でいえば四方投げをかけられたような格好だ。あの形になればもう終わりで、あとは倒れるまでの手続きである。
その重心の光が、滲んでいる。
物の重心はふつう、滲んだり瞬いたりしないのだ。崩れかけた積み木のように、危ういものでない限りは。
それが倒れる側に、女の子がひとり立っていた。構内案内図の掲示板を見ている。たぶん一年生だろう。
「そこの人」と俺は声をかけた。
女の子は振り向いた。
「その自転車、倒れますよ。一歩、そっちへ。そうそう」
彼女は動いた。こちらに会釈し、少しずれたところから再び掲示板に戻った。
放っておくと倒れる。行きがかり上、自転車の位置を直しておくことにする。
そして、俺が歩みを進めた、そのときだった。春風がふわりと吹いて梢を鳴らした。たったそれだけのいい風だったが、自転車はゆらりと傾いで、ちょうど彼女の立っていた足元らへんにガシャンと倒れた。
ハンドルが地面を打ち、袋から本が二冊、滑り出した。
「遅かったか」と俺は言った。
「すごい。どうして分かったんですか」と彼女は言った。
「まあ、たまたまです」と俺は言った。タイミングまでは予測できないから、まあ嘘ではない。
自転車を立て直していると、その子は落ちた本を拾ってくれた。
俺は彼女の小さく整った三角形を見た。中の四つは、狭い範囲に収まっている。
八雲さんの一点を、少しだけ思わせる形だった。
「一年生?」と俺は話しかけた。
「はい」
「君、何か武道の心得はありませんか?」
「え、武道ですか」
印象のままに訊ねたのだが、唐突な質問だったようだ。
「それ、勧誘の決まり文句ですか」と彼女は言った。少しおかしそうに、ふふっと笑った。
「ああ、いや。そういうわけじゃないんだけど」
「やってました。子どものころですけど」
やはりそうだった。
「そうですか。やっぱり」
いちおう、合気道部員として勧誘しておくことにした。
「部活、もう決めてますか」
「はい。決めてます」と彼女は言った。「むかし同じ道場だった人が、今はここで教えてるみたいなんです」
「そっか」と俺は言った。「合気道部、どうかなと思ったんだけど」
「えっ、合気道ですか」と彼女は小さく叫んだ。
「もしかして、その習ってた武道って合気道なんですか」
「そうなんです」
「あっ」と今度は俺が叫んだ。「じゃあ、むかし同じ道場だった人っていうのは」
「八雲さん」と二人の声が重なった。
「えー。なんかすごいな、それは」と俺は言った。
「ほんと、すごいですね」と彼女も言った。
「俺、二年で、合気道部です。葛西といいます」
「岩崎です」と彼女は言った。「岩崎すず」
「ようこそ、汐見大学へ」
※
土曜、やたら早く目が覚めた。
雑巾がけでもしておこうと思い、道場へ早く行った。我ながら感心な心がけだ。
一番乗りかと思っていたが、もう明かりがついていた。
畳の上に、人が二人。
一人は八雲さんだった。
俺は少し驚いた。
この人はいつも、いつの間にかそこにいる人だが、最初からいるのを見たのは、初めてである。
もう一人は、見学か、体験だろうか。
顔は分からない。だが、小さく整ったあの三角形は覚えていた。
あの子だ。岩崎すず。
二人は組んでいた。八雲さんが掴ませて、崩して、送り出す。
彼女が畳へ行って、起き上がって、また掴む。
俺が道場に上がっても、二人は止まらなかった。言葉は一つもない。
彼女の受け身は静かだった。そして、起き上がるのが速い。畳についてから立つまでのあいだに、余計な動きが一つもない。
十回ほどで、八雲さんが手を止めた。
それから俺のほうを向いて、こう言った。
「これが葛西だ」紹介がすでに済んでいる言い方だった。たぶん、部の人間を一通り聞かされたあとなのだろう。
彼女はうなずいた。
「葛西さんは知ってます。ここの場所を教えてくれた人です」
「はい。改めまして葛西です。こないだの」
「こないだの。自転車の」と岩崎すずは言った。
それから二人して、よろしくお願いします、と頭を下げた。
「組んでみるといい」と八雲さんが言った。どちらかというと、俺に言ったようだった。
片手取り四方投げ。
十二月に、来栖さんと五十本やった形である。
岩崎さんに手首を掴ませた瞬間、俺の手首の行き場所がなくなった。押されても引かれてもいない。ただ、置き場所がない。
手は八雲さんよりずっと小さくて、力もないが、どことなく種類が似ている。
右後ろの傍心だけが、畳すれすれに沈んでいる。俺は、そこへ導こうとした。
だが手が、遅れた。
彼女は倒れてくれた。倒れてくれた、というのが正しい。俺の技で倒れたのではない。
「もう一回、お願いします」と彼女が言った。
もう一回が何度かあって、六回になった。
六回とも同じところで遅れ、そのすべてで彼女は倒れてくれた。
「ぜんぶ、同じところで遅れましたね」彼女が言った。
「面目ない」
「いえ。同じところです。ばらけてない。いいことでしょうね」
「そうですか」
「ばらけるのは、分かってない人ですから」
それだけ言って、彼女は水を飲みに行った。
十二月、八雲さんは腕のせいじゃないと言った。
来栖さんは入るところは合っていると言った。
そして岩崎さんは、遅れ方が揃っていると言う。
俺はしばらく、三人の言葉について考えていた。
「すみません、このあと用があって」帰ってくると、岩崎さんは言った。
「うん」と八雲さんが一つ頷いた。
部の体験に来たというより、ひさびさに八雲さんに稽古をつけてもらいにきたようだ。
「それじゃあ八雲さん、朝からありがとうございました。葛西さんも」
「ああ、それじゃあ」と俺は言った。また、と付け加えていいところかは分からなかった。
岩崎さんは畳に礼をし、荷物を持って、出ていった。
道場に二人になった。
八雲さんは雑巾を絞りはじめた。俺も絞った。
「岩崎さん、前の道場にいたころは」と俺は訊いた。「どんな感じだったんですか」
「何をやらせても、体が一つのままだ」
きっと、あの形のことだ。
「上手かったんですね」
「上手くはない。上手いのは、あとから来る」
八雲さんは雑巾を板の間に置いて、押した。俺も押した。
「三年で引っ越した。それきりだ」
「八雲さんも、そこで習ってたんですか」
「俺の先生のところだ」
それ以上は言わなかった。この人はいつもそうである。
「葛西」と八雲さんが言った。
「はい」
「岩崎は、どんな光だ」
十二月に全部話してから半年、この人が光のことを訊いてきたのは、初めてである。
「八雲さんに、少し似てます」
「形か。動きか」
訊き返しが早かった。
「形です」と俺は言った。「動きのほうは、まだです」
「そうか」
それだけだった。八雲さんは廊下の端まで雑巾を押していって、戻ってきて、二本目の線を引きはじめた。
先輩たちが上がってきたのは、それから十分ほど経ってからである。




