四十一.二ヘルツ
四月の雨の晩である。
旧文化会館の一階、大広間。
昼に書道サークルが使ったあとで、墨の匂いがかすかに残っていた。壁際には、折り畳みの椅子が四つ並んでいる。
「空いとる晩に入れてあげるよ」先日の打ち合わせで常盤さんは言い、今夜がその晩だった。
七月の祭りでやる音研ライブのための、音出しである。
俺は、機材を運ぶ係として駆り出された。
アンプはケイさんと二人で持った。三階から南の階段を下り、廊下を通って、大広間まで。それを二台。
それから、スタンドやらケーブルやら、三階には下ろすものがまだあった。
三往復もすると、俺の腰は何か言いたげであった。
理玖は、音出しの話をしたら、自分から来た。
「板の間で低音を鳴らすんだろう。聞きたい」
興味へ赴くフットワークの軽さは、理玖の取り柄である。
俺が運んでいるあいだ、あちこちで両手を打っては音を見ていた。
「理玖、そこのスタンド持ってくれ」
「ああ」
頼めば持ってくれた。
※
廊下のほうから、二人ぶんの足音が来た。
「お疲れー」とドラムのナっちゃん。
そのうしろに紺野さんがいた。よく素振りされた竹刀のような光である。
理玖が、そっちを見た。
次の瞬間、理玖の定規が、真ん中から下にかけて、ぐんにゃりと撓んだ。
角打ちで見たときと同じである。
申し分ない再現性だ。理玖なら喜ぶところである。
「ナツに付き合って来ただけだから、気にしないで」と紺野さん。
「バイト、一緒なの。一曲くらい聴いてけばって」
「何のバイトですか」と理玖が訊いた。
「純喫茶らんぷ。商店街の」
初詣の帰りに、美晴とホットサンドを食べた店である。
ナっちゃんは荷物を置き、ドラムのほうへ行った。
紺野さんはレジ袋を差し出した。
「バイト先の余り。レジ横に置いてるやつ、入れ替えるから持って帰れって」
個包装の大玉の飴が入っていた。
俺は一つもらって、ポケットに入れた。
「南くんも、どうぞ」
「いただきます」理玖も一つ受け取った。
紺野さんが壁際の椅子に座り、理玖は一脚ぶん空けて、その隣に座った。
空いた椅子に、紺野さんが袋を置いた。
紺野さん、飴の袋、理玖の順に並んだ。
※
美晴がベースをアンプにつないだ。
「じゃあ、いっこ鳴らすね」
いちばん低い弦を、開放で、一つ。
腹に、ぼん、と来た。
「四十一・二ヘルツだ」と理玖が言った。
「え?」
「その弦の開放。標準の調律なら、約四十一・二ヘルツです」
「へえ」美晴のしなる枝が、すっと伸びた。「そんな半端なの」
「基準の音から、比で決まります。一音ずつ、きりのいい数字を選んだわけではないので」
「ケイさーん、今の四十一・二ヘルツだって」
「へえ、そう。ナツ、ハイハット少し右」
音研は音研の用事に戻っていった。
「葛西くん、そこのケース、こっちに寄せてもらえる?」
美晴に言われてアンプの横へ行った。
スピーカーが、じじ、と鳴った。俺は立ち止まった。
「今の、何?」と美晴。
「なんも触ってないぞ」
「ケイ、なんか入るんだけど」
俺が後ずさりをすると、音がやんだ。
再びケースを取ろうと一歩戻ると、じじじじじ。
「葛西くん」とケイさんが言った。「ちょっと離れてみて」
離れた。やんだ。
「もう一回」
近づいた。鳴った。
俺は、自分の手を見た。何も持っていない。
「スマホの電波かな」とケイさん。
ポケットから出し、近くにいた美晴へ渡した。
もう一度、アンプへ近づく。
じじじじ。
「本体だ」とナっちゃんが俺を指さした。
「何かその言い方、ひどくない」と俺は言った。
「帯電体質とか、そういうの?」と美晴。
「名前をつける前に、条件を変えてみよう」理玖が立ち上がった。
同じ場所へ行き、アンプの横に手を下ろした。
何も鳴らなかった。
「葛西。代わってみろ」
場所を代わると、じじ、と鳴る。
「ほら」と紺野さんが言った。
何が、ほら、なのか。
「守護霊。電気に出るっていうじゃない」
聞いたことがあるような、ないような説である。
「科学なのかオカルトなのか、はっきりして下さい」
「両方よ」
「近づくと音が出ることと、守護霊がいることは別です」と理玖が言った。
「じゃあ何なのよ」
「今は何とも」
俺は、美晴からスマホを返してもらった。
光のことを思った。
この目と何か関係があるのだろうか。
事故の前に、こうしてアンプへ寄った覚えもない。ちょっと見当がつかなかった。
理玖が俺を見た。
俺は小さく首を振った。こっちに訊かれても困る。
「よく分からないけど、とりあえず、葛西くんはあっち」ケイさんが言った。「音、合わせちゃいたいから」
俺は、離れた椅子に座らされた。
さっきもらった飴を剥いて、口に入れた。
※
美晴がもう一度、弦へ指を置いた。
そのとき、窓の外が白くなり、どん、と落ちた。雷である。
紺野さんが跳ねた。理玖も跳ねた。
続いて、部屋の明かりが消えた。
「葛西、あんた何したの」
容疑がかかるのが早かった。
俺は飴をころりと頬へ寄せ、「座ってました」と言った。
「動いたでしょ」
「紺野さんが訊くから、口は動かしました」
「今、雷だったよ」と美晴が言った。
ありがたかった。
俺にもそう思えたのだが、さっきの、じじじ、のあとでは言い訳に聞こえる。
部屋が静かになると、雨の降る音がやたらと大きかった。
「管理人さん、まだいるよね」とケイさん。
「さっきロビーにいた」と俺は飴玉を転がしながら答えた。
「訊いてくる。ナツ、明かり持ってきて」
スマホの光が二つ、廊下へ出ていった。
「あんた、そこから動かないでよ」と紺野さんが言った。
俺はうなずいたが、雷も停電も、別に俺のせいじゃないのに、と思った。
美晴がスマホのライトをつけ、床へ置いた。
光が、ケーブルと四人の靴を照らした。
紺野さんが、椅子に置いていた袋を膝へ移した。
立ったままだった理玖が、袋のあった椅子に座った。紺野さんの隣である。
そして理玖が空けた椅子を、美晴が俺の隣へ運んできて、座った。
※
「……ねえ」と紺野さんが言った。「北の階段の話、知ってる?」
やめてくれ、と俺は思った。
怖がりのくせに、なぜ暗くなったとたんに怖そうな話をはじめるのか。
「三階の踊り場に出るってやつ?」と美晴。
「それもあるけど……数える声がするの」
「数える声」
「あの階段ね、途中の踊り場まで十四段あるの」
この人は、絶対に使わない階段の段数をなぜか知っていた。
「夜、誰もいない時間に、下から声がするんだって。ひとつ、ふたつ、って、数えながら上がってくるの」
「うわ」と美晴が言った。
「うちの部の、卒業した先輩が聞いたって話。その先輩が言うにはね」
紺野さんの声が、半音下がった。
「声、十五まで数えて、止まったって」
「……十四段じゃなかった?」
「その先輩も、そう思ったの。だから翌日、明るいうちに数え直したんだって。そしたら、踊り場に足を置くところまでで、十四」
「その形式でしたら」と理玖が言った。「十三階段と呼ばれる話に近いです」
「……なんで知ってるの」
「似た話を読んだので。一時期、そういうのを集めていました。分類のためです」
「分類」
「ええ」
来た、と俺は思った。死者の総数を陸地の面積で割って「階段だけ避けるのは対策として合理的ではありません」で終わるやつだ。
「昼に数えると十二段しかない学校の階段に、夜だけ十三段目が現れる、という話です。俺が読んだものでは、十三段目の先に扉がありました」
「それ、ぜったい開けちゃだめなやつでしょ」と美晴。
「扉は、もう開いています」
「……」
「十三段目に足を置いてから振り向くと、いま上がってきた階段がない」
「え、ちょっと。じゃあ戻れないじゃない」
「ええ。開いた扉の向こうに、上がる段がもう一段だけあります」
理玖により否定されると思った《《かいだん》》が、どういうわけか増えている。
これはうまいぞ……今度、大隈さんに話してみよう。
「……じゃあ、どうするのよ。上しかないじゃない」
理玖は黙った。
「黙らないでよ」
「考えていたんです」
「最後どうなるの」
「聞きたいんですか」
「聞きたくない」
「では、やめます」
「……ねえ、ちょっと急にやめないで。それ、誰か死ぬやつ?」
美晴が俺の肘を、こつん、とやった。
俺も返した。
「それは型によります。死ぬのもあれば、死なないのもある。どっちから行きましょうか」
「……やっぱり聞かないでおくことにする」と紺野さんは言った。
雨が窓を叩いていた。
「ねえねえ」と美晴が言った。「そういう数える話って、少ないのと多いのがあるでしょ。どっちが怖いの」
「多いほうです」
即答だった。
「足りないほうにも、怖い話はあります。皿屋敷がそうです。女が皿を数える。一枚、二枚——九枚まで数えて、そこで泣く。十枚目がない」
「知ってる。それ知ってる」
「怖いですが、何が失われたかがはっきりしています。皿です」
「うん」
「増えた一段は、何なのか分からない。あるはずのものがないより、ないはずのものがある方が不気味だと俺は思います」
理玖は、足元の暗がりを見ているようだった。
ぎ、と、遠くで音がした。建物のどこかである。
理玖の三角形が紺野さんへ、紺野さんの三角形が理玖へ、少しずつ寄った。
美晴が、俺の耳の近くで、息だけで笑った。
※
ふと、廊下の奥が、明るくなった。
戻ってきたスマホの光である。壁を照らし、天井へそれて、また低くなる。
俺は戸口が目に入る位置にいたから、それがよく見えた。理玖と紺野さんは、戸口に背を向け、反対側の窓を見ていた。
戸口に人が現れたとき、後ろのライトが、その肩を白く照らした。
すると、窓ガラスにも、人影が立った。
さっきまで雨の路地しかなかったところに、もう一人いるように見える。
戸口の人影が動いた。
窓の向こうのもう一人も、こちらへ歩いてきた。
「ひゃっ、出た!」
紺野さんの肩が跳ねた。
「うわっ」
理玖が、跳んだ。
今度は上ではなく、横に跳んだ。
隣の紺野さんの左の袖を掴んで、止まった。
俺には、初めからナっちゃんの三角形が見えていた。その後ろから、ケイさんの三角形も出てきた。
「あ、ふぁっひゃん——」と俺は言った。
ナっちゃんが声を張った。
「向こうの通りまで、全部消えてるって!」
理玖はまだ、紺野さんの袖を掴んでいた。
紺野さんは、その手を見ないで俺を見た。
「あんた、ナツが帰って来たなら、先にそう言いなさいよ!」
俺は口の中の飴玉を、右から左へ転がした。
「飴玉が」と俺は言った。
※
「常盤さん、確認してるから、ここで待っててって」とナっちゃん。
ケイさんはスマホを棚に立てかけた。天井に光の輪ができ、部屋の中がさっきより見えるようになった。
「葛西くんのせいじゃなかったっぽいね」と美晴が小声で言った。
俺はうなずいた。
「……ちょっと」と紺野さんが理玖に言った。「あんた、怖がりなの?」
「怖いことは怖いですよ」
「さっきまで、あんなに説明してたのに?」
「それは——」
理玖は、そこで一度、息を吸った。
俺は、この吸い方を知っている。長いやつがくる。
「まず、霊的な存在を信じることと、それらしいものを見て怖いと感じることは別です。俺は初めから、この部屋で霊的な現象が起きたとは考えていません」
「じゃあなんで跳ぶのよ」
「それは驚いたからです。頭が理解するまでのわずかな時間を、身体が待ってくれるとは限りません。ナツさんの声で正体が分かったときには、もう動いていたのです」
「体が勝手にってことね」
「ええ。しかも、正体が分かったあとも、身体はすぐには戻らない。お化け屋敷に本物の幽霊がいると思って入る人は、そう多くないでしょう。作り物と知っていても怖い。知識だけで止まる反応なら、あの商売は成立しません」
理玖は紺野さんの袖を掴んだまま続けた。
「そもそも、恐怖は自己防衛に必要な機能的感情です。危険かどうかを完全に確かめてから逃げるのでは、間に合わない場合があります。何でも怖がればいいという話ではありませんが、少なくとも、危険を怖がって逃げることは、生き延びる助けになってきたはずです。俺が今、椅子から跳んだという一点についても、その長い歴史を考慮していただきたい。俺たちは、そういう機能を使って生き延びてきた側の子孫である可能性が高いのです」
「……はい」
「したがって」
「したがって」
「俺の反応は、正常です」
「話が長いし、でかいわよ」
「必要な長さであり、でかさです」
俺と美晴は、笑いを声に出さないために、たいへんな努力をしていた。
紺野さんが、左腕のほうへ顔を下げた。
「手、震えてるけど」
「つまり、正常に震えています」
俺は理玖の怖がりをはじめて知った。幽霊なんて理屈で説き伏せる男だと思っていたが、理玖の合理的精神は、怖い気持ちを、のけ者にしないらしい。
「なんの話?」とナっちゃんが訊いた。
「南くんの正常性の話」
「へえ?」
ケイさんは何も訊かず、アンプのつまみを戻していた。
紺野さんの左腕は、袖を掴まれたまま動かなかった。
「……そういうのって、訓練でどうにかなるものなの」
「慣れることはあります。ただ、昼間なら平気だったものが、夜にはまた怖くなることもあるでしょう」
「ある」
「ですから、今まで大丈夫だったというだけでは——」
まだ続くらしい。
美晴が俺の袖を引いた。
小さく顎を動かした先に、紺野さんの袖をつかんだ理玖の手があった。
俺はうなずいた。
飴は、もう普通に喋れるくらい小さくなっていた。
※
明かりが戻った。
部屋がいっぺんに白くなって、俺は目を細めた。
理玖の手が、袖から離れた。離れるまでに、一拍あった。
紺野さんは、それについて何も言わなかった。
ケイさんが機材を確かめ、うなずいた。
「もっかい鳴らすね」と美晴が言った。
ベースを持ち直して、いちばん低い弦を、開放で、一つ。
ぼん、と来た。
足の裏に、板の震えが伝わった。雨は、まだ降っていた。
紺野さんは、自分の椅子を理玖のほうへ寄せた。
脚が板を擦って、きゅ、と鳴った。
二十センチほど。
「四十一・二ヘルツ、だっけ」と紺野さんが言った。
「そうです」と理玖が言った。




