一階
「玄関の戸は、わしが直そう」
権藤さんが言った。
両手を使わないと開かない引き戸である。
「半日ありゃ済む」
「いいんですか」と常盤さん。
「人を入れるんじゃろう」
権藤さんは湯呑みを置いた。
「まず、戸が開かんことにはな」
「受付、やります」と紺野さんが手を挙げた。
「入った人、数えないとね」と来栖さんも続く。「市に数字を出さないと」
小田島さんが顔を上げた。
「……そりゃあ、ありがたい」
「商店街は俺が回るわ」と宮下先輩が言った。「うちの親父に言えば、たぶん全部貼ってくれる」
「ビラ、刷ります」と大隈さん。
「主将、それは私がやりますよ」と来栖さん。「主将、字がうますぎて怖いので」
いつのまにか、座布団の外側にいたはずの人たちが、輪の内側にいた。
十分でも余ると分かってから、この場から引き算が消えたようだ。
「ねえケイ、音研の三十分の中で、一人、呼びたい人がいるんだ」と美晴が言った。
「お客は多いほうがいいよ」
「お客っていうか。ちょっと喋ってもらうかもしれなくて。MCで」
「誰?」とケイさん。
「まだ内緒。呼んで、来てくれるか分からないし」
誰だろう。
俺の知っている人だろうか。
俺は美晴のほうを見た。
「葛西くんには、もっと内緒」と美晴は笑った。
「訊かないうちに断られとる」と宮下先輩が言った。
内緒を作ったのは、こっちが先である。
俺は苦笑した。
※
打ち合わせは、あらかた終わった。
最後に、全員で一階へ降りた。
常盤さんが鍵の束を鳴らして、裏の引き戸を開けた。
路地の光が、廊下へ長く差し込んだ。
廊下は思っていたより狭い。畳を二人で担いだら、人はすれ違えないだろう。
大広間は、書道サークルが帰ったあとで、墨の匂いが少し残っていた。
板の間が、がらんと広い。
半年この建物に通っているが、この部屋に入るのは初めてだった。
四角い部屋の真ん中に、図面で見たのと同じ一点が光っている。
権藤さんが、そのあたりまで歩いていって、足の裏で二回、床を踏んだ。
「ここじゃ。ちょっとばかり下がっとる」
「下がってる?」と宮下先輩。
「一寸か、そこらじゃ」
「人をいっぱい入れて、大丈夫なんですか」と美晴が訊いた。
「床下は去年見た。腐っとらんし、梁も大丈夫じゃ」
権藤さんは、もう一度、板を踏んだ。
「六十年ぶんの、人の重みじゃな」
「畳は、どちらから敷けばいいですか」と大隈さんが訊いた。
「東の壁からじゃ。真ん中から敷くと、端で寸法が合わんようになる」
その半間ほど横、天井の少し下に、もう一つ光が点っていた。
図面を見たときにはなかった、輪郭の薄い光である。
ジェンガの塔には、塔全体の中心とは別に、積み木一本ずつにも薄い点があった。
あれと同じだろうか。
一つは、大広間という四角の中心。
もう一つは、床と柱と天井の奥に組まれた、別のひとかたまりの中心。
床と、柱と、天井を、部屋ではなく骨組みとして眺めてみる。
薄い光は、消えなかった。
俺は、いつのまにか、その真下まで歩いていた。
「葛西。あんた、また変なとこ見てる」
紺野さんだった。
「あ、出た」宮下先輩が身を乗り出した。「遠野さん、これな、葛西の守護霊」
「守護霊」
「そう。危ないことを、先に教えてくれるんだよ」
「去年の看板の話、聞いてます?」と来栖さん。「落ちる三十分前から、下に立ってたんだって」
「だから、そんなのいませんって」と俺は言った。
「見えても言わないよね、そういうのは」と紺野さんが言った。
十二月にこの道場で言われたのと、一字一句、同じである。
大広間が笑った。
板の間はよく響く。同じ人数でも、道場で笑うより大きく聞こえた。
八雲さんと権藤さんは、笑わなかった。
この二人には、笑わない理由があった。
俺が、それを渡した。
だが、もう一人、渡していない人が笑っていなかった。
美晴の三角形が、動かないまま、こちらを向いていた。
そのことに、俺は気づいていた。
たぶん、そこでやめておくべきだったのだ。
「権藤さん」
俺は、真上の薄い光を指した。
「二階の重み、このあたりに集まっていますか」
「そう見えるか」
「はい」
権藤さんは俺の隣まで歩いてきて、天井を見上げた。
「そうじゃ。この真上で、二階の梁が交わっとる。床の重みがここへ集まって、東と西の柱へ流れる」
さっきまで笑っていた部屋が、いちばんよく響くはずの床の上で、静かになった。
「……なんとなく、そう思いました」
常盤さんは、俺と天井を一度ずつ見た。
それから、胸のポケットから小さな手帳を出して、何かを書き留めた。
俺に梁そのものが見えたわけではない。
腐っているかどうかも、継ぎ方が正しいかどうかも分からない。
見えたのは、そこにある薄い一点だけだった。
「ほら見ろ」と宮下先輩が言った。「守護霊だ」
「そ、そうですね」と紺野さんが言った。声がふるえていた。
訂正する機会は、そこにあった。
「大丈夫です。守護霊からは、異常なしとのことです」
俺はそれを見送って、わざと軽い調子で話に乗った。冗談に見えたほうが、楽だった。
「合気道部は、ここでやるんですね」
美晴が言った。それから、天井を見上げた。
「この上が道場なのかな」
「もうちょっと、あっちかな」と俺は言った。
「じゃあ、音研は」
「そのもうちょっと上」
美晴は、天井を見上げたまま笑った。
「葛西くん、いつも上、見てるって?」
俺は返事に詰まった。
「なに見てんの」
少し考えた。
考えたが、答えは最初から一つしかなかった。
「遠野さんかな」
道場でなら、たぶん誰も聞いていなかった。
だがそこは大広間で、しかも板の間で、ついでに残響がやたらといい。
「ワォ」とケイさんが言った。
「おい葛西ぃ!」と宮下先輩が言った。
「声が大きいです」と紺野さん。だが今度は、紺野さんの三角形も少し揺れていた。
「……この部屋、ほんとによく響くね」と美晴は言った。
※
鍵は、俺が預かった。
常盤さんは守る会の寄り合いがあるという。戸締まりをして、事務室の窓から返せばいいとのことだった。
みんなが路地へ出ていった。
権藤さんのドラ声が、いちばん最後まで聞こえていた。
「葛西くん」
美晴が、廊下の途中で立ち止まっていた。
「……今の、みんなのいるところで言う?」
「訊かれたから」俺は頭をかいた。
「でも、ちょっと嬉しかったかも」
美晴は言った。
「ねえ。守護霊って、ほんとにいるの」
「いない」
「じゃあ、なんで紺野さん、ああ言うの」
俺は、少し黙った。
「……たぶん、俺が、変なところを見るからだ」
「変なところ」
「うん」
「変っていうのとは、なんか違う気がするけどね」
美晴は少し考えてから言った。
「南くんに訊いてみようかなって、ちょっと思ったんだけどね」
「訊かないのか」
「訊かない。あの人の話、難しそうだし」
美晴は笑って、階段のほうへ歩いていった。
三階に荷物を置いてきたらしい。
「先に閉めちゃっていいよ。私、玄関から出るから」
「あの戸、重いぞ」
「知ってる。両手でしょ」
階段を上がる音が、上へ遠ざかっていった。
二階を越えて、まだ上がっていく音を、俺は下から聴いていた。
七月の第三日曜。
ここに、二階と三階が降りてくる。
二階の道場。三階の音研。
素人の町衆が金を出し合って建てた、図面どおりでない六十年前の一軒。
ここが無くなるのは、いやだな。
それは、署名を書いたときには、一度も思わなかったことだった。
大広間の電気を消した。
明かりが落ちると、そこはただの四角い床になった。
路地からの薄あかりが、板の目を横に走らせている。
その真ん中に、光が一つ点いていた。
俺は、そこに立った。
足の下で、板がわずかに撓んだ。
その半間ぶん横、天井の下で、薄いほうの一点もまだ灯っていた。




