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二階と三階

 四月半ばの土曜。

 稽古後の雑巾がけも終わり、麦茶の時間のことである。

 湯呑みが行き渡ったところで、大隈主将が言った。

「演武、出ます」

 声は小さかった。だが、場の心が空《くう》になった瞬間を狙う、間《ま》のよさがあった。道場が、しんとした。


「え、演武?」と宮下先輩。「なんの演武ですか」

「七月。ここの」

「ここの?」「ここ?」と皆、てんでに口にする。

「ああ、それはね」と小田島さんが言った。「先週の寄り合いで決まったんだよ。旧文化会館まつり。七月の第三日曜になった。ここを使っとるサークル全部に出てもらう」

「ここ全部ですか?」

「うん。二階のうちと、三階の音研。書道に、詩吟のじいさんらに、太極拳。それで、うちは演武」

「なんで急に」と紺野さん。

「急じゃないんだけども」

 小田島さんは頭を掻いた。

「九月議会まで、あと五か月だからね」


 署名は集まっている。俺も去年の十月に書いた。だが、市の担当課が数えるのは、紙束ではないのだと小田島さんは言った。

「この建物が、今、現に使われとるかどうかなんだよ」

「使ってますよ」と宮下先輩。「毎週」

「そう。だけど、使ってるってのを、どうやって見せる」

 宮下先輩が黙った。

「人を入れるしかないんだよ。一日でいいから、この建物いっぱいにね」


「もう返事しちゃったんですか」と来栖さんが訊いた。

「はい」と大隈さん。

「部で相談とかは」

「今しています」

「相談の形式が独特ですね」と紺野さん。

「すみません。先に押さえておかないと、枠が埋まるので」

 この人はもう、向こうの都合まで数えている。

「何分もらったんですか」

「二十分です」

「二十分」宮下先輩の声が跳ねた。「だけど頭数、足りるか?」


 俺は、半年前の秋、入部届を書いた日を思い出していた。

 大隈さんはあのとき、名簿のいちばん下に俺の名前を足して、こう言った。演武、頭数が足りるようになりました、と。

 だが名簿のうち、道場に来る四年は大隈《おおくま》渉《わたる》ひとりである。今年、四年の欄には名前が三つあるが、高瀬さんは就活、羽鳥さんは院試で、去年の秋からほとんど来ていない。


 足りるのだろうか。

 俺は腕組みして首を傾げたが、「足ります」と、大隈さんは言い切った。


  ※


 打ち合わせは、その日の午後だった。

 一階の大広間は書道サークルが使っているので、道場でやることになった。常盤さんが丸めた紙を小脇に抱えて上がってきて、そのうしろから、権藤さんが手すりを掴んで上がってきた。座布団が輪に並び、真ん中が空けられた。


 ふと、南の階段のほうから音が近づいてきた。

「失礼します」

 戸口で、二人が靴を脱いでいた。一人は美晴。

 もう一人の光にも、ステージの上で見覚えがあった。

「音研のケイです。代表二人で来ました」


 美晴は、畳の縁《へり》に爪先を揃えて立った。

「わ、畳、ほんとに青いんだ。上がっていいですか」

 いつからそこにいたのか、「どうぞ」と八雲さん。

 美晴は「はい」と言って、青い畳の上へ一歩、上がった。

「こんにちは。音研の遠野美晴です。ベース弾いてます」

「お、葛西がいつも見上げてる!」と宮下先輩が言った。

「先輩。声が大きいです」と紺野さん。「そこの空いているところに、どうぞ」


 美晴とケイさんは、俺の斜め向かいに座った。

 これまで真上と真下に分かれていた三角形が、青い畳の上に並んだ。


  ※


 大隈さんが、紙を配った。

 定規で引いた枠の中に、丁寧すぎる字が並んでいる。

 当日の進行と、朝の段取りが、十分刻みで入っていた。

「昨日、刷ってきました」

「もう作ってあるのか」と宮下先輩が言った。

「叩き台です」

 叩き台という言葉の実物を、この日、初めて見た。


 常盤さんと大隈さんとケイさんの三人で、詳しい話を詰めていく。

 残った俺たちは、座布団の外側で聞いていた。

 そして、その紙は十五分ももたなかった。


「音研さんは何分ですか」と大隈さんが訊いた。

「四十分で。二バンド出すので」

「二バンド?」と俺は美晴に訊いた。

「うち、もう一つあるんだよ。ケイが掛け持ち」と美晴。「練習日がそっちと一回も重ならないから、葛西くんは聞いたことないと思う」

「三十分でお願いできますか」と常盤さん。「書道の講評と詩吟が入るんでね」

「……詰めます」とケイさんは言った。


 そこまでは、まだよかった。問題は、床である。


「演武のあいだ、大広間に畳を敷かせてください」と大隈さんが言った。「二十四枚」

「畳ですか」ケイさんの声が上がった。「板の間じゃ駄目なんですか」

「受け身が取れません」

「痛いだけなら、やりますけどね」と宮下先輩が言った。

「折れます」と紺野さんが言った。「投げられるほうが」

「畳は、うちだけの話でもないんだよ」と小田島さんが言った。「午前は詩吟も太極拳も、その上でやってもらう。板の間じゃ、じいさんらの膝がもたんからね」


 ケイさんは、しばらく黙ってから、言いにくそうに言った。

「……じゃあ、うちの前に、全部どけてもらえますか」

「全部」

「全部です。畳の上にはドラムセットを組めません。脚で傷めるし、安定しないので」

「じゃあ真ん中の、ドラムのぶんだけではだめですか」と大隈さんが訊いた。「何枚か外せば、板は出ます」

「音の問題もあるんです」ケイさんは天井を一度見た。「畳って、音を吸うので。何枚か板が出てても、部屋は鳴らない。二十四枚も敷いたら、あの部屋、死にます」


 難しい注文だった。


「そっか」と美晴が言った。

 小さい声だった。

「ずっと、下から聞こえてた、どすん、ってやつ」

「うん」

「あれ、畳が吸ったあとの音だったんだ」


  ※


「畳は、七時半から一時間半ですか」ケイさんが進行表を見た。

「南の階段から、二人一組で下ろします」

「うちはドラムとアンプ二台とPA。三階から一時間あれば」とケイさんは言った。

「音研は、北の階段が近いけど、あそこは」と常盤さんが言いかけた。

「担いで下りたらいかんな」

 権藤さんだった。

「踊り場が狭い。畳もアンプも、あそこじゃ回らん。段も鳴いとるし」

「昭和四十年代に、あそこで人が落ちてるんです」と紺野さんが言った。


 権藤さんは、それについて何も言わなかった。

 何も言わないというやり方で、答えているようだった。

「使《つこ》うてええのは、南だけじゃ」


「そうすると、通り道の話になるね」

 常盤さんは小脇の紙を膝の上へ置いた。

「一階の図面、出そうかね。……これしかないんだが」


 広げられたのは、灼けた色の青焼きだった。折り目がもろくなっている。

 催しの配置図ではなく、建てたときの原図である。この会館には、それしかないのだ。


 玄関、ロビー、事務室、廊下、それから、大広間。

 紙の上に光が点いてみえた。閉じた形は、紙に描かれていても真ん中を申告してくる。四角い部屋の中心に、一つずつ。大広間のそれは、いちばん静かに光っている。


 常盤さんが図面の端を指した。

「表は段があるから、椅子も長机も上がらない。外から入れる大きい物は、ここ。路地に面した引き戸。そこから大広間までは、この廊下だけだね」


 荷に使える階段は、南に一本。

 大広間へ通じる廊下も一本。


 六十年、この建物はそういう作りで立っている。窮屈に感じるが、これまで一度も、二階と三階が同じ日に降りてこなかっただけのことだ。

 同じ建物を使ってきて、同じ紙を見たことのない人たちが、いま、同じ四角をのぞき込んでいる。


「音出しは、どうします」と大隈さんが訊いた。

「音出し」と紺野さんが訊き返した。

「サウンドチェック。実際に音を出して、鳴りを見るんです」とケイさん。「近いうちに一度、この部屋を貸してもらえませんか。先に合わせておけば、当日の朝はラインチェックだけで済むので」

「空いとる晩に入れてあげるよ」と常盤さんが言った。

「じゃあ、朝は十分《じゅっぷん》もらえれば」

 大隈さんが書き取った。


 紺野さんが、進行表の余白に数字を書いていた。

「主将。合いません」

「はい」

「椅子と長机に十分、機材に一時間、ラインチェック十分、畳に一時間半。二時間五十分です。七時半に開けて十時開場なら、二時間半しかない」

「二十分、足りませんね」と大隈さんは言った。


 驚いた声ではなかった。

 もう分かっていたのだ。だから朝より前に、この人はどこかを削るつもりで来ている。


「あと、午後もあります」

 大隈さんはノートを開いた。

「演武のあと、畳を二十四枚ロビーへ出して、機材を入れて、音研さんです」

「ロビーですか」と美晴が訊いた。「端に重ねておくんじゃ駄目なんですか」

「音研さんのほうで、音に差し支えがなければね」と小田島さんが言った。

「床に広がっているのでなければ、大丈夫だと思います」とケイさんが答えた。

 美晴も頷いた。

「それなら、そのほうが助かる。ロビーもそう広くはないからね」

「積むなら東の壁際じゃな」と権藤さんが図面を指した。「六枚ずつ、四山。あんまり高う積まん方がよかろう」

「それでも、転換には二十分かかります」と大隈さんは言った。「畳を重ねて、機材を本番の位置へ戻す。番組の休憩は十五分しか取っていません」

「五分、はみ出す」と紺野さん。

「なので、演武は十五分にします」と大隈さんは言った。「五分、返します」

「え」宮下先輩が声を上げた。「二十分もらったんじゃないんですか」

「返します」


 道場が、少し黙った。


「あの」

 ケイさんが手を挙げた。

「それ、うちが畳を持てば済む話じゃないですか」

「え」

 大隈さんが顔を上げた。

「だって、うち、七時半に来て、自分の機材を下ろしてラインチェックが終わったら、開場まで一時間以上、手が空くんですよ。五人」

「五人」

「畳、二十四枚でしょ。持ちますよ」


 あまりに普通の言い方だったので、道場のほうが二秒ほど反応できなかった。


「あの」と美晴が言った。「畳って、重いんですか」

「まあ重い」と俺は答えた。「一枚三十キロ近い。二人で持つ」

「アンプと同じだね」

 美晴はケイさんのほうを向いた。

「うちのアンプ、それくらいあったよね」

「うん。腰入れてもたないと死ぬ」

「じゃあ、そっちも二人ですね」と紺野さんが言った。「うちは、当日、運搬に回れるのが七人です」

「九人です」と大隈さんが言った。


 みんなが、大隈さんを見た。

「高瀬さんと羽鳥さんにも、来てもらいます。返事はもらっています」


 朝の麦茶のときに聞いた「足ります」が、そこでほどけた。

 いつ、誰に、どうやって話をつけたのかは、誰も知らなかったのだ。


 大隈さんは、定規を当てて、数字を引き直しはじめた。

 途中で一度、手が止まった。

「十四人だと」

「はい」と紺野さん。

「機材が四十五分。畳が一時間。朝は、二十五分余ります」

「二十五分も?」

「午後の転換も、十五分で済みます。畳を重ねるのと、機材を戻すのを並行できます」


「待ってください」と紺野さんが言った。「ラインチェックのあと、機材はどこへ置くんですか。畳を敷くんですよね」

「大広間の北の壁際へ寄せます」とケイさん。「ドラムはいったんばらして、アンプとPAは衝立の後ろへ。本番の位置には、床にテープで印をつけます」

「十五分あれば足りますか」

「足ります」

「では、朝は十分余ります」と大隈さんは言った。


 大隈さんは、ノートの一行に線を引き、その上に書き直した。

「休憩の枠が十五分ですから……演武は、二十分のままで大丈夫です」

「戻ってきたぞ!」と宮下先輩が言った。

 書き直した「二十分」の下に、大隈さんは定規でもう一本、線を引いた。


 誰も、一緒にやりましょう、とは言わなかった。

 ただケイさんの挙手をきっかけに、時間割が自然に変わっていった。

 そして、それを話し合う声の高さと大きさも。

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