定規が撓む
人が増えた。
板の上には、俺と理玖のラムネの瓶が、汗をかいて並んでいる。
ガラスの引き戸が鳴った。よく素振りされた竹刀のような光が、入口で一度止まり、それからカウンターのほうへ動いた。
紺野さんだ。
理玖が、そっちを見た。
次の瞬間。
こいつの三角形が、くにゃりと形を変えた。
中を通る定規のような線が、真ん中から下にかけて、飴細工みたいに撓んだ。まっすぐが売りの男の線が、である。しかも、戻らない。戻りかけては、また撓む。体に重なる三角形まで、いつもより大きくひらいていた。
俺はラムネの瓶を持ったまま、固まった。
こんな崩れ方は見たことがない。泣きそうなときの明滅とも違う。もっと根本のところが、いっぺんに緩んだような崩れ方だった。
……こいつ、まさか。
まさか、紺野さんに一目ぼれでもしたんじゃなかろうか。
ははは。まさかな。
先月ファミレスで、こいつは自分でこう言っていたのだ。俺が誰かを好きになるとしたら、たぶん、何十回も会って、データが溜まって、それからだ、と。今日のデータは、引き戸が開いて人が一人入ってきただけである。ゼロと言っていい。
俺は自分の思いつきを笑って、それから、遠慮なく観察を続けることにした。
どうせ理玖の顔は分からないし、分からないことを理玖は知っている。その上で、いくら見たところで、こっちが何を見ているかは向こうに伝わらない。着ぐるみの中の人と、似たような理屈だ。
理玖の線は、その夜、一度も元に戻らなかった。
紺野さんが位置を変えるたび、撓みの向きが変わる。紺野さんが喋りだすと、線全体が半歩ぶん、そっちへ寄る。喋り終わっても、寄ったまま続きを待っている。
こいつの光は、人名鑑をつけはじめてから今日まで、いちばん行儀のいい光だった。その定規が、今夜だけ、ぐんにゃりしている。
面白い。正直に書くが、たいへん面白かった。
「紺野です。法学部の二年」と紺野さんが理玖に言った。「葛西の友達?」
「南理玖です。理学部の数学科」
「数学」
「そうです」
線は、その間じゅう、撓みっぱなしだった。
※
「常盤さん」と紺野さんが湯呑みを両手で持った。「三階の話、ほんとなんですか」
「三階」
「出るって聞きました。踊り場のところ」
紺野さんは、怖がりのくせに知りたがりである。
「ああ、あれね」常盤さんは笑った。「わたしが入った頃から言われとるよ。三十年、一度も見とらんがね」
「見てないだけかもしれないじゃないですか」
「かもしれんね」
「昭和四十年代に、北の階段で人が落ちてるんです。市の広報の縮刷版に載ってました」
守る会の三人が、揃って黙った。
この人は、調べているのだ。あの階段を絶対に使わない理由は、噂ではなく、記録のほうにあったらしい。
「出る、というのは」と理玖が口を開いた。「お化けか何かですか」
「そうだけど」
「なるほど。ではその仮定で、少し考えます」
やめろ、と俺は思った。
「人類はこれまでに、およそ千百億人が死んだと推定されています。陸地の面積で割ると、一平方キロメートルあたり七百人あまり。仮に死者が死んだ場所に残るのなら、この商店街の下にも、相当数がいる勘定になる。だとすれば、あの踊り場に一人だけ、という前提のほうが不自然です」
「……」
「したがって、あの階段だけを避けるのは、対策として合理的ではありません。避けるなら、地表全体を避けるべきです」
紺野さんは湯呑みを持ったまま、三秒くらい動かなかった。
「……ちょっと。あんた、ほんとにこれの友達なの」
これの、と来た。
「ときどき自信がなくなります」と俺は正直に答えた。
「私、この店にはもう来ない」
「ちょっと待て、紺野! うちの店は何も悪くないだろう!」と宮下先輩が言った。
小田島さんが笑い、常盤さんが笑い、権藤さんが「わしの足元にも七百人か」と言って、本当に自分の足元を覗き込んだ。
理玖の線は、まだ撓んでいた。
俺は少しだけ、こいつが気の毒になった。
※
理玖は、八雲さんのほうを一度も見なかった。
呼吸の検証はどうしたのだ、と思ったが、訊かなかった。それどころではなさそうだったからだ。
理玖の光が撓んでいく先を見ているうちに、気づいたことがある。
紺野さんの立ち位置である。
八雲さんの、斜め後ろ。だいたい四十五度、一歩ぶん。人が動いて配置が書き換わるたび、彼女もそれに合わせて動く。動くのだが、八雲さんとの角度だけは、毎回そこに戻っていた。
俺には、ふと思い出されることがあった。
十二月の会館の外に、この人が立っていたことだ。
三十分前に帰ったはずの人が、暗くなった玄関の前にいた。二月には、一階のロビーに立っていた。何も訊かずに、二階を一度だけ見上げて帰った。
あれは、八雲さんが出てくるのを待っていたのではないだろうか。
もしかすると紺野さんは、八雲さんのことを――
いや。
今日の俺は、さっきから人の気持ちの話ばかり探している。
理玖の線が撓むのを見てから、頭がずっと恋愛の方向へ転がりっぱなしなのだ。
紺野さんは、たぶん、立ち位置に癖があるだけの人だ。それだけのことだろう。
可能性はつねに検討するためにある、と理玖は言う。だが今日はもう検討したくなかった。
ふと、この店に一人足りない気がした。
やっぱり美晴がここにいたら、と思ったのだ。
※
「そろそろ帰ります」と俺は言った。「権藤さん。俺、会えて嬉しかった。また」
「おう。月に一遍じゃ、忘れるなよ」
それから権藤さんは、俺の右手を取った。
掌を上に向けて、指の付け根のあたりを親指で押す。大工が材を見るときの触り方だった。
「ふん。皮が、少し厚うなっとるか」
雑巾がけと、受け身と、掴まれることの合計である。自分では気づかなかった。
「手ができ始めたな、兄ちゃん」
それだけ言って、権藤さんは手を離した。
誉め言葉、未満ではある。だが俺は、この店に来てよかったと、はっきり思った。
「月曜の稽古でね」と小田島さんが言った。稽古着でない人にそう言われると、なんだか妙な感じがした。
八雲さんは湯呑みを持ったまま、こっちを見た。
「お疲れさまでした」
「うん」
紺野さんは、その斜め後ろにいた。四十五度、一歩ぶん。「じゃあね」と手を上げて、その手を、理玖のほうへも一度振った。理玖の線が、また撓んだ。
「葛西! また来いよ」カウンターの内側から宮下先輩が言った。「南くんもな!」
理玖が少し頷き、俺たちは店をあとにした。
※
外に出ると、四月の夜は、まだ少し冷えた。
商店街のほうから、まだ人の声がしている。
「なあ理玖」
「なんだ」
「紺野さんのこと、どう思った」
「どう、とは」
「どうって、普通に。どんな人だと思った」
理玖は、街灯を二本ぶん歩いてから答えた。
「きれいな人だと思った」
俺は足を止めそうになった。
「……お前でも、そういうことを思うんだな」
「思う。目はある」
「いや、そうだけどさ」
「それから、帰り際に俺にも手を振った。今日、あの人と俺は二度しか口をきいていない。二度で手を振る人間は、そう多くない」
「……まあ、ああいう人だから」
「ふむ」
言おうか、と思った。
理玖に、お前の光が今夜どうなっていたと思う、と教えてやろうか。
言えば、こいつは検証を始めるだろう。可能性はつねに検討するためにある、といつも言っている男である。
言わなかった。俺はこれを、もう少し持っていたかったのだ。
「今日、どうだった」
「いい店だった」
理玖とは、商店街の角で別れた。
アパートまでひとり歩きながら、俺は自分を観察していた。
友人が、俺の知っている女の人を、きれいだと言った。
何も起きなかった。
もちろん興味は湧く。いったい、紺野さんはどんな顔なんだろうとは思う。
だが、それだけだ。それだけで、きれいに終わってしまう。
一月にこいつは言った。遠野美晴以外のすべての女性を、お前はどうでもいいと思っているのではないか、と。
そのときはひどい言い方だと思った。だが、それは正しかったらしい。
どうやら、俺は今、それを自分で確かめてしまったわけである。




