角打ち
二年生になった。帯は白いままで、技は相変わらず通らない。
ただ、受け身だけは、いつの間にか矢野より音が良くなっていた。十月末、見学に来た日、俺はこの男の受け身を見て、四月からやってこれなら俺もどうにかなると、安心したのだった。
それにしても、追いつくのに半年かかった。受け身だけだが。
投げる方は、水を開けられっぱなしだ。矢野は稽古を一日だって休まない。
四月の土曜、稽古のあとに宮下先輩が言った。
「葛西、今日ひま? うち来いよ」
「うち、というと」
「実家。酒屋」
「俺、まだ十九ですけど」
「飲ませねえって」宮下先輩は俺の背中を叩いた。
※
着替えながら、美晴にメッセージを送った。土曜の稽古のあとは、たいてい蛸八で落ち合うことになっている。
「今日、部の先輩の実家でやってる酒屋に誘われた。よかったら遠野さんも来る?」
返信は、揺れる犬のスタンプから始まった。
「酒屋!?」「行きたい」「けど音研も新歓あって、今日はビラ配りの当番……」
それからもう一通。
「合気道部で楽しんでおいで!」
「了解」と返信。
誘っておいてなんだが、断られて少しほっとしていた。
美晴との関係を問われたとき、「友達です」と公言するのには抵抗があったのだ。もっとも、それ以上のことを答える勇気もないが。
降りると、一階のロビーに新歓の机が出ていた。ビラの束が積んである。定規で引いた枠の中に、丁寧すぎる字が並んでいた。入部届の記入例と同じ、大隈さんの字だ。年齢に似つかわしくないと言って「字がおじさん」を「自画自賛」とかけたダジャレを飛ばしていた、あのときと同じ字。来週から体験会なのだ。
その机のかげに、まっすぐな光の列が、浅く腰かけていた。
「理玖」と俺は呼びかけた。
今日は函入りの講義録を持っていないようだ。
「あの本、もう読み終わったのか」
「読み終えた。最後の関門は、著者の誤植だった」理玖は立ち上がった。「今日は別件だ。呼吸の件、被験者を増やしたい」
二月に立てた検証項目である。呼吸で、人の三角形の形は変わるのか。
それにしても、急に来るやつだ。
「おっ、友達?」宮下先輩が横から顔を出した。この人は、人の話に入ってくるのが速い。
「俺、宮下。合気道部で葛西の面倒をみてやってます。うちでやってる酒屋に行くんだけど、君もくる? 葛西の友達なら歓迎。ラムネが二本になるだけだ」
「南理玖です。行きます」と理玖は即答した。
「よし。行こう。うちは角打ちだ」と宮下先輩は言った。
その言葉を俺は知らなかった。
※
宮下酒店は、商店街の一本西の通りにあった。
商店街の賑わいから、角を一つ曲がっただけで音が変わる。八百屋の声も福引の鐘も届かない。その通りに、ガラスの引き戸と、色の褪せた酒屋の看板があった。
中に入ると、右手が普通の酒屋だった。棚に一升瓶が並び、冷蔵ケースが低く唸っている。
左手が、そうではなかった。
カウンターというより、ただ厚いだけの板。それが壁沿いの、腰より少し上の高さに渡してある。板の下はビールケースで、椅子はない。板には灰皿と、小皿と、スルメやなんかの袋が置かれている。
それだけの空間に、六十過ぎから七十過ぎと思われる男が三人、立って飲んでいた。
「これが角打ち」と宮下先輩は言った。「酒屋の中で、そのまま飲むの。うちは昔からこれ。店の隅を貸してるだけだから、席とか、ないの」
「席がない」
「そう。みんな立つだけ」
先輩はカウンターの内側に回って、腰にタオルを掛けた。それだけの動作で、この人が三代目候補であることが分かる。
俺と理玖の前には、ラムネの瓶が置かれた。栓をポコンと抜くと、ビー玉がカランと涼しげな音を立てる。
先輩は一升瓶を取って、常連の湯呑みに注いだ。片手だった。瓶を持ち替えず、ラベルを上に向けたまま、傾けて、止める。注ぎ終わりに雫が垂れない。道場では丸太のように扱われている手は、こういう仕事もするのだ。
※
その三人のうちの一人に目がとまった。
身体に重なる三角形の中で、光の列が、背中でかくんと折れていた。
曲尺だ。
俺の人名鑑の、創刊号に載っている光である。半年以上ぶりに見ても、一秒も迷わなかった。顔は分からなくても、あの折れ方をする人間を、俺は一人しか知らない。。
「権藤さん」
ドラ声が返ってきた。
「おう、兄ちゃんか!」
「立ってる」と、俺は心のままに言った。挨拶にもなっていない。
「おお、立っとるよ。歩いとるし、注ぎもする。まあ、階段だけは手すりを掴むがな」
権藤さんは湯呑みを持った手を、ひょいと上げてみせた。
「よかった」と俺は言った。「……本当に、よかったです」
「なんじゃ兄ちゃん、泣くな泣くな」
「泣いてません」
「そういえば顔が分からんのじゃったな。ええわ、わしも泣いとることにしとこう」
権藤さんは愉快そうに笑った。こういうところが、少しも変わっていない。
「知り合い?」とカウンターの内側から宮下先輩が言った。
「去年の夏、病院で同じ部屋だったんです」と俺は言った。
宮下先輩の手が止まった。
「権藤さんが屋根から落ちたのは知ってるけどさ。……葛西、入院してたのか」
部の誰にも、話していなかった。話す機会がなかったというより、話さずに済ませてきたのだ。
「自転車で、土手から落ちまして」
「うわ」
「頭を打って、六日ほど寝てました」
「六日!? それ、けっこうな大怪我じゃねえか」
「起きたら、夏が半分なくなってました」
「笑いながら言うことかよ」
宮下先輩の声が、本気で嫌そうな形をしていた。それから「まあ、生きてるならいいや」と言って、また一升瓶に手を伸ばした。それ以上は、何も訊かれなかった。
「わしは屋根から落ちて、この兄ちゃんは土手から落ちた」と権藤さんが言った。「落ちた者どうしじゃ。わしが窓際で、この兄ちゃんが廊下側でな。夜中に二人で、相撲の話ばっかりしとった」
「そっちが一方的に喋ってたんですよ」
「そうとも言う」
残りの二人にも、見覚えがあった。
一人は小田島さんだった。稽古着でない小田島さんを、俺は初めて見た。もう一人は会館の常盤さんで、こちらも制服ではない。制服でない常盤さんは、二割ほど小さく見えた。
「小田島さん、それに常盤さんも。あの、皆さんは、どういう」と俺は訊ねた。
「旧文化会館を守る会、だけども」
小田島さんが湯呑みを傾けた。
「それにしても葛西くんと権藤さんが顔見知りだったとはね」
顔ではなく、光ではあるが。
「世間は狭いなあ」と常盤さん。
「兄ちゃんのくれた紙な、まだ貼っとるぞ。台所の柱に」
「本当ですか」
「七福神。病院の柵から剥がして、持って帰ってな」
ずっと大事にしてくれていたのか、あれを。
「なんの紙です」と常盤さんが訊いた。
「守り神じゃ」と権藤さんは言った。それ以上は、何も説明しなかった。
俺も、しなかった。この人は看護師さんに同じことを言った。今日も同じことをしただけである。
権藤さんが俺を見ているのが分かった。正確には、俺の手を見ていた。
「兄ちゃん。手はどうなった」
手。退院の朝、権藤さんがくれた言葉だ。
見えても、肝心なのは手じゃぞ。兄ちゃんの目で見たもんを、手に伝えるんじゃ。
「合気道を、やってます。半年ほど」
「ほう」
「投げられ方は、だいぶ上達しました。投げるほうは、これからです」
権藤さんは湯呑みを口へ運んで、それから、ふん、と鼻から息を出した。
「まだ削っとる途中じゃな」
「権藤さんに言われたこと、今もよく思い出すんです」
「思い出すな。使え」
「はい」権藤さんらしいな、と俺は思った。
「月に一遍、ここで打ち合わせみたいなことをするんだけども。打ち合わせというか」
「まあ、飲んどるだけだね」と常盤さん。
「飲んどるだけだが、決めることは決めとるぞ」と権藤さん。「わしは若い頃にあの会館の修繕に入っとる。屋根と、二階の梁と。だから口を出す権利がある」
その言葉は、俺の耳にふしぎな響き方をした。
俺にとってあの箱は、青い畳と、鳴く階段と、天井から落ちてくるベースの音でできていた。だがこの三人にとっては、屋根であり、梁であり、三十年ぶんの見回りだった。同じ箱を、こんなに違う持ち方で持っている人たちがいる。
建物の古さの向こうに歴史がある。そんなことを、妙に強く感じさせられたのだ。
※
いつからいたのか分からないが、八雲さんがいた。
道場の外での八雲さんを、俺は初めて見た。地味な上着と、軽そうな荷物は相変わらずだった。
「師範代、ビールでいいすか」と宮下先輩。
「いや、今日は同じものを」と八雲さんは、権藤さんの湯呑みを指した。
それだけの、なんでもないやり取りだった。だが俺は、そのなんでもなさに驚いていた。
道場の八雲さんは、必ず何かを渡す人だからだ。よし、と言ったり、いい受け身だ、と言ったり、あるいは何も言わずに親指を当てるとか、とにかく、あの人が畳の上にいるとき、あの人は師範代という役をやっている。
だがここには畳も、上座もない。そもそも椅子もないから、上座の作りようもない。
俺は、前から訊きたかったことを訊いてみることにした。道場では、どうしても訊けなかったことだ。
「八雲さんって、普段は何をされてる人なんですか」
入部して半年、俺はこの人の職業を知らなかった。稽古の日に道場にいて、いつの間にか来て、いつの間にか帰る。荷物はいつも異様に軽い。地味な上着。それだけである。
「大学だ」
「学生なんですか」
「まさか」八雲さんは少し笑った。「調べものをしている。人の暮らしを、見て、書きとめる仕事だ」
「研究員とか」
「まあ、そんなところか。年寄りの話を聞いて、報告書にする」
「わしも聞かれたことがあるぞ」と権藤さんが横から言った。「屋根の葺き方をな。三時間じゃ」
「三時間もですか」
「二時間半は相撲の話でした」と八雲さんが言った。
権藤さんが、ドラ声で笑った。
「荷物、いつも軽いですよね」
「筆記具とノートくらいだからな」
「地元の方なんですか」
「ああ。実家は、商店街の北の外れだ」
「……先生、なんですか」
「いや。金の出ているあいだだけ、置いてもらっている」
「どのくらい、やってるんですか」
「……二十年ほどかな」
二十年。
「八雲さんって、歳いくつなんですか」
「さあ」
「さあって」
「歳の話をして、面白かったためしがないからな」
「面白さを求めてるわけではないのですが」と俺は言った。
八雲さんは笑った。それきりだった。
結局、この人が何歳なのかを、俺は知らない。顔が分からないから、というのもある。
だが二十年というのは、聞いた瞬間に、少し長すぎる気がした。
役を置く場所がないと、この人はこんなに……ただ立って飲むだけの人なのか。
声も、半音ぶんゆるかった。笑うと丸くなる、あの前の段階の声である。俺はそれを聞きながら、この半年、この人の何を見ていたのだろうと思った。




