八雲の呼吸
二月の第一週は、朝六時からの寒稽古だった。一週間、毎朝である。
来るのは半分くらいだと聞いていたが、本当に半分だった。宮下先輩と、紺野さんと、八雲さんが皆勤。そして矢野も。
俺は六日出て、一日だけ寝坊した。
一月に通ったあの一本は、あれから、ときどき出るようになった。
十本に一本。調子のいい日で、二本。
そして、そこで止まった。
出るときは、何も見ていない。出ないときは、見ている。それだけは自分でも分かるのに、見ないでいる方法のほうが、どうしても分からない。
八雲さんが「見事だ」と褒めてくれた、あの朝の一本は、もう記録の中の飛び地ではない。飛び地ではなくなって、そこから先へ、一歩も広がらなかった。
残りの九本は、相変わらず遅れる。
※
その週が明けた、第二土曜。
いつも通りの午前稽古で、いつも通り投げられて、いつも通り雑巾がけをした。
片付けが済んで、みんなが引き上げていく。
「寒稽古お疲れ会をやるぞー!」と宮下先輩が袴田さんたちを引き連れていった。「葛西も来いよ!」
「すみません、ちょっと用があって」
紺野さんが戸口で一度立ち止まったのが、視界の端に見えた。
畳には、八雲さんと俺だけが残った。
※
「八雲さん」
「うん」
「一月の一本のことなんですが」
八雲さんは道場の隅に正座して、浮きかけた畳の角を手で押さえていた。
「あれから一か月で、十本に一本は出るようになりました。でも、そこから増えないんです」
「増えんだろうな」
「……何が悪いんでしょう」
「一割になったくらいで変わるなら、誰も三十年もやらん」
身も蓋もなかった。
「じゃあ、あの一割はまぐれですか」
「まぐれだ」八雲さんは畳から手を離した。「だが、無いものは、まぐれでも出ん」
俺は顔を上げた。
「言葉で聞いて済むものではない、と言ったな」
「言われました」
「それは今も同じだ」
※
八雲さんは、そこで少し黙った。
考えている、というより、何かを決めている間だった。
その間に、俺は八雲さんの膝の上にある帯の結び目を見ていた。芯のあたりまで色が抜けて、ほとんど白に戻りかけている。入部の日に宮下先輩が「一周まわって白」と言ったやつだ。
この帯は、たぶん、この人より年上に見える。
※
「一つ、見せておくことにする」
八雲さんは道場の真ん中へ歩いて、そこに正座した。
「誰が見ても分かるものではない。……いや、そうではないな」
言い直した。この人が言い直すのを、俺は初めて聞いた。
「見て分かる者が、これまで、いなかった」
俺は正座を直した。
「俺とて、いつでも見せられるという類のものではない。見せる相手がおらんかったのだから、見せ方も知らん」
八雲さんは膝の上に手を置いた。
「今、このときに、お前には分かると思って見せる」
※
八雲さんは、目を閉じた。
肩が下がる。呼吸が、深くなる。
道場は静かで、天井の向こうで、三階のベースだけが低く鳴っていた。
最初の変化は、三角形だった。
八雲さんの身体に重なる輪郭の、頂点が一つだけ動いた。呼吸に合わせて、ほんのわずかに。
次に、中心の一点が濃くなった。濃くなって——ほどけた。
一つが、四つになった。
四つが、それぞれ別の方向へ、するすると離れていく。上へ一つ。下へ一つ。半歩ぶん横へ一つ。そして残りの一つが、少し遅れて、列から外れたところへ動いた。
俺はその配置に、見覚えがありすぎた。
母さんの縦四つ。権藤さんの曲尺。理玖の定規。美晴の枝。
人名鑑に百人以上ぶん描いてきた、あの並びである。
三つが縦に並んで、一つだけが半歩ずれる。
八雲さんの中に、線が、生えた。
初めてこの道場に来た日のことを思い出した。
技の起こりの一瞬、この人の一点が増えて、戻った。
いくつに増えたのか、あのとき俺は数えられなかった。
今日は、数えられた。四つだった。
正三角形を、やめたのだ。
この人が、自分から。
線は、二呼吸ぶんそこにあり、三呼吸目で、戻り始めた。
四つの光が、中央へ寄っていく。速い。だが慌てていない。
それぞれが自分の帰る場所へ正確に向かい、重なり、線が消えた。
ずれていた頂点も、元の位置へ戻った。
正三角形の中心に、静かな一点だけが残った。
八雲さんは目を開けた。
「見えたか」
「……見えました」
「そうか」
褒めてもいないし、確かめてもいない。ただ、受け取った、という声だった。
※
俺は、しばらく何も言えなかった。
すごい、でも、ありがとうございました、でも、何かは言えたはずだ。だが喉のあたりで全部がつかえて、俺は正座したまま、動けなかった。
「今のは、技ですか」
「いや。技の前だ」
「前」
「畳の上でやれば技になる。ここでやったのは、お前に見せるためで、本来、見せるものではない」
惜しんでいる言い方ではなかった。見せようがないものだから、見せる習慣がない。この人が言っているのは、たぶん、それだけのことだった。
「今、ほどけましたよね」
「そうだ」
「わざと、ですか」
「そうだ」
「どうやったら、そんなことができるんですか」
「息を長くする。それだけだ」
「……それだけ。本当に」
「息は、自分で決められる。ほかは、たいてい勝手に決まっている」
「なんで、わざわざほどくんですか」
「俺がやっているのは、相手をほどこうとすることではないからだ」
「え」
「自分がほどける。触れているなら、相手はついてくる」
それは、俺がこの半年やってきたことの、ちょうど逆だった。俺は相手の光を読んで、相手のどこを崩すかを決めていた。
「そして、ほどけんものは、結べん」
俺が次の質問を探しているあいだに、八雲さんは正座のまま、膝を半歩ぶん前へ送った。
「そこへ来て、座れ」
※
俺は、言われた場所に正座した。
膝が触れそうな距離だ。稽古で組むより、ずっと近い。
この三か月、俺は何度もこの人に投げられてきたが、二人きりで手を取られたことは一度もなかった。八雲さんは全体を見て、通りすがりに親指を当てて、それで終わる人である。
「手首を取れ」
俺は八雲さんの右の手首を、両手で取った。
乾いた、細い手首だった。
「姿勢は座ったままだ。膝も浮かすな」
「はい」
「その形で、俺を動かせ」
やってみた。動かなかった。
足が使えないというのが、これほど不便だとは思わなかった。押しても引いても、手首から先が消えているみたいだった。力が入る場所がない。
「俺がやろう。替われ」
八雲さんが、俺の手首を取った。
取られた、というより、置かれた。重さがほとんどない。
「踏ん張るな。居着くな」
言われた意味が分からないまま、俺は言われた通りにしようとした。
力を抜けばいいのか。だが抜きすぎれば、ただ倒れる。抜かなければ、踏ん張っている。俺の体は、その二つしか知らなかった。
そして俺は、たぶん、その中間を探して固まった。
次の瞬間、畳が真横に来ていた。
※
三本目までは、何が起きたか分からなかった。
四本目で、少しだけ分かった。
俺が固まった瞬間に、投げられている。
「今、止まったろう」
「……止まりました」
「止まった者は、そこから動けん。だから、そこへ入れる」
「じゃあ、止まらないためには」
「止まる前に、ほどく」
言うのは簡単である。
だが俺の体は、ほどけ方を知らない。踏ん張るか、倒れるか。安定か、失敗か。その二択しか持っていない体で、三つ目の状態を探せと言われている。
五本目も、六本目も、俺は同じところで固まって、同じように畳に落ちた。受け身だけは、いい音がした。
「今日は、ここまでだ」
「……一本も、できませんでした」
「一年でできる者はおらん」
「何年くらいかかりますか」
八雲さんは少し考えて、答えなかった。答えないという答え方だった。
「先に上がれ」
「八雲さんは」
「少し残る」
「鍵、返しに行かないと」
「俺が返す」
俺は礼をして、道場を出た。
引き戸を閉める前に一度だけ振り返ると、八雲さんは畳の真ん中に座り直したところだった。何をするつもりなのかは、分からなかった。
※
南の階段を降りると、一階のロビーに紺野さんが立っていた。受付は空で、常盤さんは見回りに出ているらしい。
「あ、お疲れさまです」
「うん。お疲れ」
それだけだった。
俺は、少し待った。
十二月には、この人のほうから訊いてきたのだ。師範代と話、したんでしょ、と。今日も、ずいぶん長かったね、何話してたの、と訊かれるものだと思っていた。
紺野さんは、何も訊かなかった。
だから、訊かれてもいないのに、俺のほうが答えていた。
「師範代、まだ上です」
紺野さんは、階段の上——道場のある二階を、一度だけ見上げた。
「……そう」
それから、玄関の重い引き戸を両手で開けて、出ていった。
※
その夜、サニーズの窓際のいちばん奥で、俺は理玖に全部話した。
理玖はメロンソーダを混ぜる手を止め、紙ナプキンを広げた。
「つまりこうか」
四色ボールペンで人体図を描き、その上に正三角形を重ね、真ん中に点を一つ打った。
「ここがいつもの八雲さんだ。四つが全部重なってる。それが四つにほどけた。いったいどう並んだ」
「三つが縦。一つだけ、半歩ずれてた」
「内心だな」点や矢印を足しながら言う。「オイラー線に乗らないやつだ」
俺は頷いた。
「ほどけんものは、結べん、と言ったんだな」
「言った」
「なるほどな」
理玖は腕を組んだ。
「正三角形はそれ以上はどこにもいけない。それを一度ほどく。八雲さんの強さは、その戻る速さと正確さにあるってことか」
理玖はナプキンを四つ折りにしてポケットにしまい、それから、思い出したように付け加えた。
「検証項目を一つできた。呼吸で、人の三角形の形は変わるのか」
「変わるんじゃないか。見たんだから」
「サンプルが八雲さんだけだ。人類が変わるかは知らん」
それはその通りだった。
※
帰り道、俺は自分の胸のあたりに手をやってみた。
自分の三角形が、いまどんな形をしているのか、俺には分からない。歪んでいるのか、傾いでいるのか、線が長いのか短いのか、何一つ。
だが、と俺は思った。
息を長くする。それだけだ、とあの人は言った。
試しに、歩きながらやってみた。鼻から吸って、街灯の三本目まで吐き続ける。三本目の手前で足りなくなって、四本目には届かなかった。
やってみて分かったのは、息を長くしようとすると、息のことしか考えられなくなる、ということだった。
佐伯先生の言葉が耳によみがえる。考えながら話しているうちは、それはまだ外国語です。
それでも、と俺は思った。
ほどけて、結び直す。
あれは、見えなくてもできることなのではないか。
目で見なくてもいいなら、俺にもできる。八雲さんだって、自分の光は見ていないのだ。
俺は今日、答え合わせに行ったつもりだった。
教わりに行ったつもりだった。
だが実際に起きたのは、たぶん、逆のことだ。
二十年、誰にも見えないものを持っていた人が、俺に会った。
それが見える、初めての相手に。
俺は明日も投げられるだろう。たぶん来週も。
だが今日から一つだけ、目で見なくてもできる練習が増えた。
もう一度、息を吸った。今度は五本目まで届いた。息を吐ききったところで、肩の力が勝手に抜けた。
ほどけたのかどうかは、自分では見えない。
だが、見えなくてもやればいい。それが、今日、八雲さんから渡されたものだった。




