お前以外はみんな
一月の土曜、稽古のあとだった。
南の階段を降りると、一階のロビーに理玖が座っていた。
膝の上に、函入りの古い本を載せている。ツバメ古書堂で取り寄せた、整数論の講義録だ。
「まだ読んでるのか、それ」
「難攻不落だ」理玖は本を閉じた。「五十年前、誰かが書き込みをやめた場所は越えた。だが他にも関門がいくつもある」
「来てたんなら、上がってくればよかったのに」
「部外者だ」理玖はロビーの受付を顎で示した。
管理人の常盤さんが、名簿を繰っている。
「それに外から見ていても分からん。俺が知りたいのは、お前の中で何が起きたかだ」
寒稽古の一本のことは、メッセージで送ってあった。
返信は「電話で聞くには惜しい」の一行。
それから五日、音沙汰がないと思ったら、今日、稽古の終わりに合わせて、ロビーに座っている。
※
俺は理玖の隣に座って、話した。
入部から二か月半、一度も技が通らなかったこと。
相手の三角形を見て、傾ぎを読んで、外の一点へ導く。答えはいつも一瞬で出るのに、そこから先が毎回、半拍遅れていたこと。
それが、一月の寒稽古の一本だけ、通ったこと。
「その一本だけ、記憶に光がないんだ」
「光がない」
「見た記憶がない。宮下先輩の傾ぎを読んだ覚えも、どこへ導くか決めた覚えも。気づいたら投げてた」
理玖は、俺の手元を見ていた。
「そのときの工程は三つだった」と俺は言った。「見る、が抜けてた」
俺は、十二月に数えられた四つの工程を説明した。
「工程が四つあることには、いつ気づいた」
「気づいたんじゃない。八雲さんが数えた。師範代の人だ」
理玖の光が動いた。定規で引いたような縦の一列が、一段、上へ伸びた。
「話したのか」
「十二月に。全部」
「一か月前だ。黙っていたな」
「悪い」
「いや」理玖は首を振った。「順番として正しい。技のことは、技の人間に訊くべきだ」
こいつはこういうところで嘘をつかない。だから安心もするし、たまに困る。
「で、その人は何と言った」
一工程多い。お前の技が半拍遅いのは、腕のせいじゃない。
理玖はしばらく黙っていた。
「……悔しいな」
「なんで」
「九月から検証して、そこに気づかなかったとは……」
それきり、しばらく何も言わなかった。
※
三階から、足音が降りてきた。
若枝のような三角形が、ベースケースを提げて、踊り場に現れた。
「あ、葛西くん。……と、南くん」
オンケンの午前練も、ちょうど終わる時間である。
俺は、少し身構えた。
この場には、俺の眼のことを知っている人間と、知らない人間が、一人ずついる。
そして、知っているほうは、知らないほうが知らないことを、知らない。
「十一月ぶりです」と理玖が言った。
「十一月ぶりです」と美晴も言った。
二人が会っているのは、あのライブハウスの楽屋口が最初で最後である。会って、五分で美晴のほうが逃げた。
「あのときは、その、すみませんでした」美晴が言った。「途中で行っちゃって」
「気にしていません。あれは俺の話が長かった」
「長かったです」
「正直だ」
美晴が笑った。跳ねが先に来て、〇・五秒後に声が来た。
「南くんって、お見舞いにも来られてましたよね。病室で名前だけ聞いた気がする」
「行きました。講義プリントと、単位取得規程のコピーを差し入れた」
「え。なんか、不愛想な差し入れ」
「あと、アイスモナカ」
「私、鶴でした。六百二十三羽の」
「半端だ」理玖が少し笑った。
「そこがいいところです」美晴も笑った。
俺は口を挟まなかったが、そこは美晴のほうに一票である。千羽鶴は世の中に山ほどあれど、六百二十三羽鶴は、おそらく一つだ。
「ところで遠野さん。十一月の話の続きですが」
理玖の線が、そこで、すっと真っすぐになった。
「教会建築の残響時間と低音域の関係です。石造の内部では六十ヘルツ以下が二秒以上残る。これは説教の可聴性という点で、明白に不利といえます。にもかかわらず千年、誰も直さなかった。その理由として考えられるのは——」
「あっ、ごめんなさい。私、部室戻らなきゃ」
美晴は階段を上がっていった。ケースが壁に一度当たって、小さい音がした。
※
「逃げられたぞ。二度目だ」
「そうだな」理玖は残念そうでもなかった。「あの子は、知らないんだな」
「何を」
「お前の目のことだ」
「……なんで分かる」
「お前が、俺たちを交代で見ていたからだ。俺が、何か言うんじゃないかと思っていたろう」
図星だった。
「顔にも出ていた」と理玖は付け足した。
それは俺には確かめようがない。
「まあ、俺の管轄じゃない」
理玖はそう言って、本を鞄にしまった。
※
サニーズの窓際のいちばん奥。
理玖はメロンソーダを頼み、俺はコーヒーを頼んだ。
「可愛い人だな」と理玖は言った。
値を読み上げるみたいな言い方だった。
「……どういうコメントだよ、それは」俺は、むっとして言った。
「どうということはない。世間話だ。俺の好みのタイプだとか、一目ぼれしたとか、横恋慕を気にしているなら不要な心配だ」
「そうじゃない」
「では何だ」
「お前、俺があの子の顔が分からないって、知ってるだろ」
言ってから、思ったより強い声が出ていたことに気づいた。
理玖はストローから手を離した。
「……たしかに、無神経な発言だったかも知れないな」
「いや」
「だが葛西。俺がさっきの子以外の誰かのことを、同じふうに言ったとして、お前は今と同じ反応をしたか」
俺は口を閉じた。
その通りだった。俺がこんな気持ちになったのは、理玖が「可愛い」と言った相手が遠野美晴だったからだ。
他の誰かで、こんな気持ちになってたまるか。
「そんな顔をするな」理玖は言った。「お前の気持ちは、分かったよ。痛いくらいにな。だから、悪かった」
※
「訊いていいか」理玖はグラスを置いた。「どんな子なんだ」
「どんな子って……よく通る声で……」
風を受けた若枝のようにしなる三角形。
笑う〇・五秒前に、肩のそばの光がぴょこりと跳ねる。
三十メートル先からでも分かるし、着ぐるみを着ていても分かる。
だが、訊かれたのはきっと、そういうことではないのだ。
こういうのはふつう、誰に訊いたって一文で返ってくる質問である。
明るい子だ、とか、よく笑う子だ、とか。
「……よく喋る」
「それは少し話せば分かる」
「だってな、理玖」と俺はいった。「俺のは、俺しか見てないやつなんだ。言ったって伝わらないだろう」
「いや、お前は分かってない」理玖は言った。「お前は今、自分の持っているものの価値を、他人が持っていないという理由で下げた」
言われて、口をつぐんだ。
「葛西。覚えているか。時計屋の前で、お前をずるいと言ったことがあったな」
「……覚えてる」
去年の夏だ。商店街の時計屋の店先に丸い掛け時計が十いくつも並び、その真ん中に、光が行列していた。それが綺麗だと俺が言ったら、こいつは、ずるいぞ、と言ったのだ。
「俺は、あれを訂正する気はない」
「……うん」
「可愛いというのは一般解だ。お前以外はみんな、だいたい同じ値を出す。だから他人に通じる。お前のは特殊解だ。お前の装置でしか出ないし、検証もできない」
「だから、言ったって、伝わらないってことだろ」
「それはそうかもしれん。だが葛西、一つ訊くぞ」理玖はこっちを向いた。「お前がみんなと同じ解を出せたとして、それでお前は、あの子を好きになったっていうのか」
答えるのに、少し時間がかかった。
言葉が見つからなかったからではない。答えが、自分でも意外なほどはっきり出たからだ。
「……ならなかったと思う」
「お前はきっと、好きな女の子の顔が分からない自分に、何か思うところがあるんだろう」
さっきの俺の声を、聞いていたのだ。
「おおかた、顔を見ることもなしに好きだと思うのは正当なのか、とか。そんなところだろう」
図星だったので、返事をしなかった。
「先ほどの質問を変えよう」
理玖は再び訊ねた。
「あの子は、お前の目に、どんな光として映っているんだ」
※
俺は、話した。
美晴の三角形が、風を受けた若枝のようにしなり、いつも少しどこかへ傾いでいること。
ベースを弾くと、弦より遅れて、呼吸に合わせて撓むこと。ステージでは、その中を通るオイラー線だけがぶれなかったこと。
三つの傍心が、体から離れたところに張られ、弦を弾くたび、糸のように震えること。
そのうち肩のそばの一つが、笑う〇・五秒前に、ぴょこりと跳ねること。
跳ねの観測は十月からずっと打率十割で、一度だけ、跳ねかけて上がりきらずに戻ったことがあること。
着ぐるみの中でも分かること。三十メートル先からでも分かること。
六千人いる大学で、それができる相手は一人しかいないこと。
古書堂の狭い通路で、三角形が本の夜景に混ざって見えたこと。
止まっているときが、いちばん読めないこと。
気づいたら、理玖のメロンソーダの氷が、全部溶けていた。
※
「葛西」と理玖は言った。
「うん」
「やはり、羨ましい男だ。お前は」
二か月前、同じ眼について、八雲さんは羨ましいとは思わないと言った。俺のやってきたことには要らんものだ、と。
二人とも、たぶん本当のことを言っている。
「言っておくが、俺はこの件について、慰めを言う趣味はない」
「知ってる」
「だから、観測結果だけを言う」
理玖は、空になったグラスをテーブルの真ん中に置いた。
「お前が遠野美晴の光について語る様子は、間違いなく、恋をしている人間のものだ」
俺は何も言えなかった。
十一月の語学の、佐伯先生の声が戻ってきた。
——日本の恋愛は、千年ほど、顔も見ないところから始まっていましたね。
相手の顔を知らないまま、歌だけでやりとりをしたのです。声と、筆跡と、歌。人の噂、そして香。それで足りた。……足りた、というより、それが恋だったのですね。
十二月の帰り道、俺はあの言葉を、自分で否定していた。あれは平安の話だから言えることだ、と。千年前の男には、いつか几帳の向こうの顔を見る日が来る。俺には来ない、と。
その否定を取り消したのは、俺のことを慰める趣味のない男であった。
※
「だけど」と俺は言った。「恋ってのは、普遍を見る目で成立するもんじゃないのか」
「ほう」
「顔から始まる恋は、誰にでも見えるものから始まる恋だろ。入口が広い。……俺のは、入口が俺しかない」
「そういうものなのか?」
「そうだろ」
「普遍で成立するなら、どの女でもいいということにならないか」
「え」
「お前が好きだと思っているのは遠野美晴であって、遠野美晴以外のすべての女性を、お前はどうでもいいと思っているのではないのか」
理玖は、ファミレスの店内で堂々とそう言った。
俺はあたりを見回した。二つ隣の席で、高校生らしい四人組が振り返った気がした。
「……人の目があるだろ」
「お前が今さら、人の目を気にしてどうする」と理玖は笑った。
声だけで分かった。温かいほうの笑いだ。
「だが、お前が本当にあの子を好きなのだということが、よく分かるよ、葛西」
返す言葉がなかった。
「かくいう俺には、その入口がない」理玖は言った。
「と、いうと」
「女の顔を見て何かが起きたことなど、一度もない。俺が誰かを好きになるとしたら、たぶん、何十回も会って、データが溜まって、それからだ」
こいつが自分の恋愛について何か言うのを、俺は初めて聞いた。
それにしても、と俺は思った。
俺は今日、この男と恋愛談義をしていたのか。我ながら、相手の選び方に問題がある気がした。
理玖はストローで氷を沈めた。からん、と鳴った。
※
その夜、人名鑑の遠野美晴のページを開いた。
声と、歩き方と、光の配置。ベースのこと。着ぐるみのこと。えくぼのこと。これまでの記述のすべて。
全部、俺が自分の目で見て、自分で書いたものだ。
そこに一行、足した。
「可愛い(理玖・観測)」
このノートに、俺以外の人間の観測が入ったのは、これが初めてだった。
俺には検証できない一行である。
だが、たぶんこのページの中で、いちばん多くの人に通じる一行でもあった。
※
今日、理玖に話さなかったことが、いくつかある。
十二月の音研の部屋で、美晴が俺の手首を両手で掴んだこと。
俺の指を、自分の左の頬へ持っていったこと。窪みができていく途中が、指の下で分かったこと。
その前の、十月の夜の角のこと。触れたくちびる。
話せなかったのではない。
あれは全部、言葉にできる。誰が聞いても、同じ値が出る。つまり、一般解だ。
なのに俺は、言わなかった。
伝わらないから、ではない。伝わるほうを、俺が渡さなかったのだ。
内緒ね、とあの人は言った。そのことを理由にしてもいい。
だが本当は、あれを誰にも言いたくないと思っているのは、俺なのだ。
理玖にも、言いたくない。誰にも。
自分の三角形は、相変わらず一つも見えない。
だが今日は、形を書いてみてもいい気がした。
人名鑑に、俺のページを作ろうか。
一瞬そう思ったが、すぐにやめて、電気を消した。




