↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/56

お前以外はみんな

 一月の土曜、稽古のあとだった。

 南の階段を降りると、一階のロビーに理玖が座っていた。

 膝の上に、函《はこ》入りの古い本を載せている。ツバメ古書堂で取り寄せた、整数論の講義録だ。

「まだ読んでるのか、それ」

「難攻不落だ」理玖は本を閉じた。「五十年前、誰かが書き込みをやめた場所は越えた。だが他にも関門がいくつもある」

「来てたんなら、上がってくればよかったのに」

「部外者だ」理玖はロビーの受付を顎で示した。

 管理人の常盤さんが、名簿を繰《く》っている。

「それに外から見ていても分からん。俺が知りたいのは、お前の中で何が起きたかだ」


 寒稽古の一本のことは、メッセージで送ってあった。

 返信は「電話で聞くには惜しい」の一行。

 それから五日、音沙汰がないと思ったら、今日、稽古の終わりに合わせて、ロビーに座っている。


  ※


 俺は理玖の隣に座って、話した。

 入部から二か月半、一度も技が通らなかったこと。

 相手の三角形を見て、傾ぎを読んで、外の一点へ導く。答えはいつも一瞬で出るのに、そこから先が毎回、半拍遅れていたこと。

 それが、一月の寒稽古の一本だけ、通ったこと。


「その一本だけ、記憶に光がないんだ」

「光がない」

「見た記憶がない。宮下先輩の傾ぎを読んだ覚えも、どこへ導くか決めた覚えも。気づいたら投げてた」

 理玖は、俺の手元を見ていた。

「そのときの工程は三つだった」と俺は言った。「見る、が抜けてた」

 俺は、十二月に数えられた四つの工程を説明した。

「工程が四つあることには、いつ気づいた」

「気づいたんじゃない。八雲さんが数えた。師範代の人だ」

 理玖の光が動いた。定規で引いたような縦の一列が、一段、上へ伸びた。

「話したのか」

「十二月に。全部」

「一か月前だ。黙っていたな」

「悪い」

「いや」理玖は首を振った。「順番として正しい。技のことは、技の人間に訊くべきだ」

 こいつはこういうところで嘘をつかない。だから安心もするし、たまに困る。

「で、その人は何と言った」

 一工程多い。お前の技が半拍遅いのは、腕のせいじゃない。


 理玖はしばらく黙っていた。

「……悔しいな」

「なんで」

「九月から検証して、そこに気づかなかったとは……」

 それきり、しばらく何も言わなかった。


  ※


 三階から、足音が降りてきた。

 若枝のような三角形が、ベースケースを提げて、踊り場に現れた。

「あ、葛西くん。……と、南くん」

 オンケンの午前練も、ちょうど終わる時間である。


 俺は、少し身構えた。

 この場には、俺の眼のことを知っている人間と、知らない人間が、一人ずついる。

 そして、知っているほうは、知らないほうが知らないことを、知らない。


「十一月ぶりです」と理玖が言った。

「十一月ぶりです」と美晴も言った。

 二人が会っているのは、あのライブハウスの楽屋口が最初で最後である。会って、五分で美晴のほうが逃げた。

「あのときは、その、すみませんでした」美晴が言った。「途中で行っちゃって」

「気にしていません。あれは俺の話が長かった」

「長かったです」

「正直だ」

 美晴が笑った。跳ねが先に来て、〇・五秒後に声が来た。

「南くんって、お見舞いにも来られてましたよね。病室で名前だけ聞いた気がする」

「行きました。講義プリントと、単位取得規程のコピーを差し入れた」

「え。なんか、不愛想な差し入れ」

「あと、アイスモナカ」

「私、鶴でした。六百二十三羽の」

「半端だ」理玖が少し笑った。

「そこがいいところです」美晴も笑った。

 俺は口を挟まなかったが、そこは美晴のほうに一票である。千羽鶴は世の中に山ほどあれど、六百二十三羽鶴は、おそらく一つだ。


「ところで遠野さん。十一月の話の続きですが」

 理玖の線が、そこで、すっと真っすぐになった。

「教会建築の残響時間と低音域の関係です。石造《いしづくり》の内部では六十ヘルツ以下が二秒以上残る。これは説教の可聴性という点で、明白に不利といえます。にもかかわらず千年、誰も直さなかった。その理由として考えられるのは——」


「あっ、ごめんなさい。私、部室戻らなきゃ」

 美晴は階段を上がっていった。ケースが壁に一度当たって、小さい音がした。


  ※


「逃げられたぞ。二度目だ」

「そうだな」理玖は残念そうでもなかった。「あの子は、知らないんだな」

「何を」

「お前の目のことだ」

「……なんで分かる」

「お前が、俺たちを交代で見ていたからだ。俺が、何か言うんじゃないかと思っていたろう」

 図星だった。

「顔にも出ていた」と理玖は付け足した。

 それは俺には確かめようがない。

「まあ、俺の管轄じゃない」

 理玖はそう言って、本を鞄にしまった。


  ※


 サニーズの窓際のいちばん奥。

 理玖はメロンソーダを頼み、俺はコーヒーを頼んだ。


「可愛い人だな」と理玖は言った。

 値を読み上げるみたいな言い方だった。

「……どういうコメントだよ、それは」俺は、むっとして言った。

「どうということはない。世間話だ。俺の好みのタイプだとか、一目ぼれしたとか、横恋慕を気にしているなら不要な心配だ」

「そうじゃない」

「では何だ」

「お前、俺があの子の顔が分からないって、知ってるだろ」


 言ってから、思ったより強い声が出ていたことに気づいた。

 理玖はストローから手を離した。

「……たしかに、無神経な発言だったかも知れないな」

「いや」

「だが葛西。俺がさっきの子以外の誰かのことを、同じふうに言ったとして、お前は今と同じ反応をしたか」

 俺は口を閉じた。

 その通りだった。俺がこんな気持ちになったのは、理玖が「可愛い」と言った相手が遠野美晴だったからだ。

 他の誰かで、こんな気持ちになってたまるか。

「そんな顔をするな」理玖は言った。「お前の気持ちは、分かったよ。痛いくらいにな。だから、悪かった」


  ※


「訊いていいか」理玖はグラスを置いた。「どんな子なんだ」

「どんな子って……よく通る声で……」

 風を受けた若枝のようにしなる三角形。

 笑う〇・五秒前に、肩のそばの光がぴょこりと跳ねる。

 三十メートル先からでも分かるし、着ぐるみを着ていても分かる。


 だが、訊かれたのはきっと、そういうことではないのだ。

 こういうのはふつう、誰に訊いたって一文で返ってくる質問である。

 明るい子だ、とか、よく笑う子だ、とか。

「……よく喋る」

「それは少し話せば分かる」


「だってな、理玖」と俺はいった。「俺のは、俺しか見てないやつなんだ。言ったって伝わらないだろう」

「いや、お前は分かってない」理玖は言った。「お前は今、自分の持っているものの価値を、他人が持っていないという理由で下げた」

 言われて、口をつぐんだ。

「葛西。覚えているか。時計屋の前で、お前をずるいと言ったことがあったな」

「……覚えてる」

 去年の夏だ。商店街の時計屋の店先に丸い掛け時計が十いくつも並び、その真ん中に、光が行列していた。それが綺麗だと俺が言ったら、こいつは、ずるいぞ、と言ったのだ。

「俺は、あれを訂正する気はない」

「……うん」

「可愛いというのは一般解だ。お前以外はみんな、だいたい同じ値を出す。だから他人に通じる。お前のは特殊解だ。お前の装置でしか出ないし、検証もできない」

「だから、言ったって、伝わらないってことだろ」

「それはそうかもしれん。だが葛西、一つ訊くぞ」理玖はこっちを向いた。「お前がみんなと同じ解を出せたとして、それでお前は、あの子を好きになったっていうのか」


 答えるのに、少し時間がかかった。

 言葉が見つからなかったからではない。答えが、自分でも意外なほどはっきり出たからだ。

「……ならなかったと思う」


「お前はきっと、好きな女の子の顔が分からない自分に、何か思うところがあるんだろう」

 さっきの俺の声を、聞いていたのだ。

「おおかた、顔を見ることもなしに好きだと思うのは正当なのか、とか。そんなところだろう」

 図星だったので、返事をしなかった。

「先ほどの質問を変えよう」

 理玖は再び訊ねた。

「あの子は、お前の目に、どんな光として映っているんだ」


  ※


 俺は、話した。


 美晴の三角形が、風を受けた若枝のようにしなり、いつも少しどこかへ傾いでいること。

 ベースを弾くと、弦より遅れて、呼吸に合わせて撓むこと。ステージでは、その中を通るオイラー線だけがぶれなかったこと。

 三つの傍心が、体から離れたところに張られ、弦を弾くたび、糸のように震えること。

 そのうち肩のそばの一つが、笑う〇・五秒前に、ぴょこりと跳ねること。

 跳ねの観測は十月からずっと打率十割で、一度だけ、跳ねかけて上がりきらずに戻ったことがあること。

 着ぐるみの中でも分かること。三十メートル先からでも分かること。

 六千人いる大学で、それができる相手は一人しかいないこと。

 古書堂の狭い通路で、三角形が本の夜景に混ざって見えたこと。

 止まっているときが、いちばん読めないこと。



 気づいたら、理玖のメロンソーダの氷が、全部溶けていた。


  ※


「葛西」と理玖は言った。

「うん」

「やはり、羨ましい男だ。お前は」


 二か月前、同じ眼について、八雲さんは羨ましいとは思わないと言った。俺のやってきたことには要らんものだ、と。

 二人とも、たぶん本当のことを言っている。


「言っておくが、俺はこの件について、慰めを言う趣味はない」

「知ってる」

「だから、観測結果だけを言う」

 理玖は、空になったグラスをテーブルの真ん中に置いた。

「お前が遠野美晴の光について語る様子は、間違いなく、恋をしている人間のものだ」


 俺は何も言えなかった。

 十一月の語学の、佐伯先生の声が戻ってきた。


 ——日本の恋愛は、千年ほど、顔も見ないところから始まっていましたね。

 相手の顔を知らないまま、歌だけでやりとりをしたのです。声と、筆跡と、歌。人の噂、そして香(こう)。それで足りた。……足りた、というより、それが恋だったのですね。


 十二月の帰り道、俺はあの言葉を、自分で否定していた。あれは平安の話だから言えることだ、と。千年前の男には、いつか几帳(きちょう)の向こうの顔を見る日が来る。俺には来ない、と。

 その否定を取り消したのは、俺のことを慰める趣味のない男であった。


  ※


「だけど」と俺は言った。「恋ってのは、普遍を見る目で成立するもんじゃないのか」

「ほう」

「顔から始まる恋は、誰にでも見えるものから始まる恋だろ。入口が広い。……俺のは、入口が俺しかない」

「そういうものなのか?」

「そうだろ」

「普遍で成立するなら、どの女でもいいということにならないか」

「え」

「お前が好きだと思っているのは遠野美晴であって、遠野美晴以外のすべての女性を、お前はどうでもいいと思っているのではないのか」

 理玖は、ファミレスの店内で堂々とそう言った。

 俺はあたりを見回した。二つ隣の席で、高校生らしい四人組が振り返った気がした。

「……人の目があるだろ」

「お前が今さら、人の目を気にしてどうする」と理玖は笑った。

 声だけで分かった。温かいほうの笑いだ。

「だが、お前が本当にあの子を好きなのだということが、よく分かるよ、葛西」

 返す言葉がなかった。


「かくいう俺には、その入口がない」理玖は言った。

「と、いうと」

「女の顔を見て何かが起きたことなど、一度もない。俺が誰かを好きになるとしたら、たぶん、何十回も会って、データが溜まって、それからだ」

 こいつが自分の恋愛について何か言うのを、俺は初めて聞いた。


 それにしても、と俺は思った。

 俺は今日、この男と恋愛談義をしていたのか。我ながら、相手の選び方に問題がある気がした。

 理玖はストローで氷を沈めた。からん、と鳴った。


  ※


 その夜、人名鑑の遠野美晴のページを開いた。

 声と、歩き方と、光の配置。ベースのこと。着ぐるみのこと。えくぼのこと。これまでの記述のすべて。

 全部、俺が自分の目で見て、自分で書いたものだ。


 そこに一行、足した。

 「可愛い(理玖・観測)」

 このノートに、俺以外の人間の観測が入ったのは、これが初めてだった。

 俺には検証できない一行である。

 だが、たぶんこのページの中で、いちばん多くの人に通じる一行でもあった。


  ※


 今日、理玖に話さなかったことが、いくつかある。


 十二月の音研の部屋で、美晴が俺の手首を両手で掴んだこと。

 俺の指を、自分の左の頬へ持っていったこと。窪みができていく途中が、指の下で分かったこと。

 その前の、十月の夜の角のこと。触れたくちびる。

 話せなかったのではない。

 あれは全部、言葉にできる。誰が聞いても、同じ値が出る。つまり、一般解だ。


 なのに俺は、言わなかった。

 伝わらないから、ではない。伝わるほうを、俺が渡さなかったのだ。


 内緒ね、とあの人は言った。そのことを理由にしてもいい。

 だが本当は、あれを誰にも言いたくないと思っているのは、俺なのだ。

 理玖にも、言いたくない。誰にも。


 自分の三角形は、相変わらず一つも見えない。

 だが今日は、形を書いてみてもいい気がした。


 人名鑑に、俺のページを作ろうか。

 一瞬そう思ったが、すぐにやめて、電気を消した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。