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よし

 一月の稽古始めは、寒稽古を兼ねていた。

 朝七時の道場は、吐く息が層になって漂うほど冷えている。

 青い畳への第一歩は霜《しも》のような感触で、最初の受け身の一巡は、全員が無言で「冷たい」と言うのを我慢する儀式になる。

 宮下先輩の実家の酒屋から甘酒が差し入れられ、小田島さんが持参の薬缶《やかん》で温め、道場の隅に湯気が立った。休憩時間になれば、それにありつける。

 甘酒を人質に取られた形で、俺は投げられ続けた。

 矢野もいた。淡々と皆勤賞を守る男である。

 窓の外は雪こそないが、商店街の屋根が全部、白い息を吐いているような朝だった。


 その日の何本目だったか、もう数えてさえいなかった。

 相手は宮下先輩。正面から打ち込んでくる丸太のような体を、さばいて、崩す稽古。

 俺は例によって、先輩の三角形を見て、傾《かし》ぎを読んで、外の一点を——

 いや、見て、いなかった。

 あとから思い返しても、あの一本だけ、記憶に光がないのだ。


 冷えた足裏が畳を掴んだ感触と、擦れた道着の音と、先輩の腕の重さが手首を通過していった、その流れに合わせて、半歩ついて、導いて、手放した。

 丸太が弧を描いて、どうん、と畳が鳴った。


 道場が、静かになった。

 投げた俺が、投げられた先輩を見下ろしていた。先輩は仰向けのまま二秒固まって、それから跳ね起きた。

「今の! 今の、いいぞ葛西!! もう一本!」

 投げられて嬉しそうだった。いつも通りに。

 だが俺は棒立ちのまま、自分の両手を見ていた。

 手のひらには、何も残っていなかった。

 押した感触も、導いた感触も、崩した手応えも。


 今のは、何だ。

 光を読まなかった。答えを写さなかった。なのに通った。

 入部してから一度も書けなかった答案が、何も見ていない一瞬にだけ、書けた。


 十二月の道場で、八雲さんは俺の工程を、四つ数えてみせた。

 ——見る。読む。決める。動く。一工程多い、と。

 あれから一か月、俺は律儀に四つやってきた。

 今のは、三つ。

 抜けたのは、先頭の一つだった。


 ——文法はね、考えなくなったときに、初めて身についたと言うんですよ。

 語学クラスでの、佐伯先生の声を思い出した。考えながら話しているうちは、それはまだ外国語です。

 二か月半、俺は光という単語帳を引いて、それを見ながら技を訳していたのだ。

 今の一本だけ、訳さなかった。体が、直接しゃべった。


「葛西」

 八雲さんが、いつの間にか隣にいた。

「今の一本、見事だ。何を見ていた」

 一か月前、どうすればいいか訊ねた俺に、八雲さんは答えを渡さなかった。

 言葉で聞いて済むものではない、と。あれはきっと、俺が、この瞬間に追い付くのを待っていたのだ。

「……何も、見てませんでした」

「よし」八雲さんは頷いた。

 入部の日に聞いたのと、同じ「よし」だった。


  ※


 甘酒の列に、紺野さんが隣に並んだ。

「今の、視線が飛ばなかったね」

 いつものことながら、やはり見られていたようである。

「あんた、投げる前にいつも、なんもないところを見る。今のだけ、見なかった」

「いつも、そうできたらと思うんですけど」と俺は言った。

 紺野さんは薬缶から注がれた湯呑みを受け取って、ふうふうと冷ました。それから、声を一段落として続けた。

「今日は、いないの」

「……何がですか」

「浮遊霊とか。いつも、あんたの邪魔してるやつ」

 真顔だった。この人は、こういうことを真顔で言う。どこまで本気なのか。俺はすこし可笑しくなった。

「……今日は、いないみたいです」と俺は努めて真面目な調子で言った。

「そう。よかった」と紺野さんも真顔を継続する。「入ってきた日からずっと見てたけど、初めてよ。あれ」

 俺が投げられ日記をつけていたあいだ、この人も別の帳簿をつけていたわけだ。

「まぐれだと思います」

「まぐれでも、あんたが取った一本でしょ。誰の手も借りてない」

 そこで、少しだけ間があった。


「ところであんた、新聞に出てたでしょ」

 俺は湯呑みを取り落としかけた。

「知ってたんですか」

「入ってきた日から。名前を聞いた時点でね」と紺野さんは言った。「商店街は私の通学路なの。あの角だって、毎日通ってる」

「なんで、これまで話に出さなかったんですか」

「白帯に、余計なものをつけたくなかったから」

 紺野さんは湯呑みにそっと口をつけ、まだ少し熱そうにした。

「だけど今日のは、あんたが自分で取った一本でしょ。新聞とは関係ない。だから今、言ったの」

 それだけ言って、列を離れていった。

 この人は、褒めるということを、こういう順番でやるらしかった。

 道場が俺を、ただの初心者として扱ってくれた二か月半。あれは、この人が黙っていたからだったのだ。


  ※


「新聞って、なんの話ですか」

 うしろで並んでいた矢野が言った。聞こえていたらしい。

「いや、別に」

「看板とか聞こえたけど」と来栖さん。

「え、なになに」宮下先輩が湯呑みを両手で持って寄ってきた。この人は寄ってくるのが速い。

「ああ」薬缶の前から、小田島さんがのんびり言った。「あの葛西ってのは、この葛西くんだったのかね」

「……小田島さん、知ってるんですか」

「いやいや。名字が同じだとは思っとったが、まさかねえ」小田島さんは薬缶の蓋を閉めた。「守る会の寄り合いでも、その話は出るよ」

「出るんですか」

「出るとも。看板が落ちる前に、三十分あそこに立っとった学生がおったって話は、あの通りじゃ、もう語り草だからね」


 初耳だった。

 新聞は四行で、俺は「近くにいた大学生」だった。三十分のことは一行も書かれていなかったし、学生課の「美談」も断った。

 だから、あの三十分はどこにも残っていないものと思っていた。

 残っていたらしい。新聞にではなく、通りに。


「え、なんだそれ、かっこいいな!」と宮下先輩が言った。「なんで分かったんだよ、落ちるって」

「……なんとなくです」

「出た」と来栖さん。

「あんた、いつもそれね」少し離れたところから、紺野さんが言った。「言えないだけでしょ。私は分かってるわよ」

「どういうこと、紺野」と宮下先輩。

「危ないことを、先に教えてくれる何かがいるの。この子には」

 道場の全員が、俺を見た。

「いません」と俺は言った。

「いるってことだな、これは」と宮下先輩が言った。

 全員の顔は、例によって分からない。だが、道場じゅうの三角形が、いっせいにこちらを向いた。どうやら、誰も信じていない。


 こうして俺は、この日、二か月半ぶんの評価と一緒に、存在しない守護霊を一体、受け取った。

 大学では「めっちゃ愛想がよくて人助けをする葛西くん」である。

 道場では、そこに霊能者属性が付与された。

 俺の評判はひとり歩きばかりしている。


 その夜、人名鑑の紺野ページに、もう一行足した。

 「知っていて、言わない。二か月半」


  ※


 その日の帰りの蛸八で、美晴はいつも通り十二個入りを受け取り、いつも通り紙舟の上で配分した。

 俺の側に六個。自分の側に六個。

「あれ。制度は」と俺が言うと、彼女は自分の一個目をあちちと頬張ってから、事もなげに答えた。

「筋肉痛の人の顔じゃなくなったから。制度廃止」

「筋肉痛の人の顔ってなんだよ。そんなの顔に出ないだろ」

 自分のほっぺたや鼻を触ってみた。でも自分がどんな顔をしているのかは、やっぱり分からなかった。

 俺が今日、道場で何をしたか、彼女は知らない。知らないまま、配分だけが正確に更新された。俺のどこかを見て。

「なに笑ってんの」と美晴が言った。

「笑ってた?」

「うん。……道場でいいことあった?」

「うん。一本だけ」

「ふうん。やったじゃん」彼女は詮索せず、二個目に息を吹きかけた。「じゃ、今日のたこ焼きは祝賀会ね」


 美晴の左の頬に、ソースがついていた。えくぼの、少し下だ。

 俺は手を伸ばし、親指で拭った。

 拭ってから、自分が何をしたのか分かった。

 美晴は動かなかった。俺も動かなかった。

 拭った指の下で、頬の肉がわずかに上がるのが分かった。十日前に一度、同じところで同じものを感じている。

 どちらも、何も言わなかった。内緒ね、とも言わなかった。

 美晴が四個目に手を伸ばし、俺は指をお手拭きでぬぐった。


 祝賀会は六対六で、静かに執り行われた。

 冬晴れの日だった。商店街のアーケードの丸い時計が、いつも通り、真ん中に一点を灯していた。


  ※


 後日談を、一つ。

 週明けの語学のあと、俺は佐伯先生に言った。

「先生の言ってたことが、部活で分かったような気がするんです」

「ほう、私の言ったことが。なんと言いましたか、私」

「考えて話しているうちは、それは外国語です。あなたの言語ではありません」

「その通りです」

「俺、合気道部で、それが分かったような気がして」

 先生はしばらくきょとんとして、それから満足そうに頷いた。

「それはまさに語学の本懐です。しかし、そんな善(よ)いことを、いつ言いましたか、私」

 覚えていないのだった。

 効く言葉は、言った本人の手を離れてから、効くらしい。

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