何しに来たんだ、俺たち
一月三日。
俺のコートの右ポケットには、白い封筒が入っていた。
表には「遠野美晴さんへ」、裏には「葛西湊」。
中身は、便箋一枚。
一文だけである。
手紙と呼んでいいのか分からない。
初詣に行かないか、と送ったのは俺だった。
待ち合わせは、商店街の裏手にある汐見神社の鳥居前。
恋愛や芸術に御利益があるという話も聞かない。町の普通の鎮守である。
普段は人がいるかどうか、分からないくらい静かな場所だが、そこは正月だ。すでに三日とはいえ、境内にはまだ人出が残っていた。拝殿の前にはいくらか列ができ、鳥居の内と外を参拝客が行き交っている。
その人の流れの中に、若枝のようにしなる、見慣れた三角形が一つあった。
「遠野さん」
呼ぶと、美晴がこちらを向いた。
「あ、葛西くん。あけましておめでとう」
「あけましておめでとう」
「今年もよろしく」
「うん。よろしく」
美晴は少しだけマフラーに口元を埋めた。
参拝の列の最後尾に並ぶ。
列は思ったよりゆっくり進んだ。前には小さな子どもを連れた家族、後ろには同じ色の帽子をかぶった老夫婦がいる。境内の砂利を踏む音と、賽銭の落ちる音と、あちこちの拍手が、絶えず聞こえていた。
「作法、知ってる?」美晴が訊いた。
「あんまりよく知らない。遠野さんは」
「うーん、たぶん」
「じゃあ真似ていい?」
「うん。確か、なんでも二回ずつやる感じで合ってるはず」
「……なんか雑だな」
順番が来た。
賽銭箱へ硬貨を入れる。美晴が深く礼をしたので、俺も礼をした。美晴がもう一度礼をし、俺も同じようにする。
美晴が手を打った。俺も慌てて続いた。
美晴の二つ目に、俺の一つ目が重なった。
最後の一つだけ、俺の手が鳴った。
美晴が目を閉じた。
俺も真似して、目を閉じた。美晴の光が見えなくなった。
何をお願いしているんだろう、と考えた。
音楽のことだろうか。家族や友達のことか。それとも、俺には想像もできない何かだろうか。
分からないが、それが叶えばいいと思った。
やがて隣で衣服の擦れる音がした。
目を開けると、美晴が最後の一礼をしていた。俺も最後に礼をして、次の人へ場所を空けた。
境内の端まで歩いたところで、美晴が訊いた。
「何お願いしたの?」
「んー。なんも」と俺は言った。
「え」
「お願い、し忘れた」
美晴が何をお願いしてるのか考えてたら、終わっていたのである。
「……そういえば、私も、忘れた」美晴は言った。
「何しに来たんだ、俺たち」
「初詣」
「それは知ってる」
願い事を忘れたまま帰るのも何である。おみくじを引くことにした。
「末吉」
美晴は細長い紙を広げた。上から順に読み、途中で指を止める。
「待人、来る」
「来るんだ」
「何もお願いしてないのに、答えだけ来たよ」と美晴は笑っていた。
俺は小吉だった。
「葛西くんは?」
「失物、出でがたし」
「何か失くしたの?」
「いや、特には」
顔はたぶん、失物には入らない。
「じゃあ、これから失くすのかな」
「やめてくれ」
おみくじは二枚とも、境内の隅に設けられた結び所へ結んだ。
白い紙が何十枚も並ぶ隙間に、末吉と小吉を置いていく。
※
神社を出るころには、昼を過ぎていた。
何か食べようということになり、商店街へ戻る。
蛸八の前まで来ると、シャッターが下りていた。
中央に白い紙が一枚貼ってある。
五日から焼きます
「五日からだって」
「二日早かったな」
「たこ焼きの初日に合わせて、初詣すればよかったね」
「それはもはや、初詣がたこ焼きのついでじゃないか」
商店街を少し歩き、「純喫茶らんぷ」へ入った。
入口の脇に、三が日は昼のみ営業、と小さく書いてある。
店内は空いていた。
俺たちは窓際の二人席へ座り、ホットサンドを一皿ずつ頼んだ。飲み物は俺がコーヒー、美晴がココアである。
運ばれてきたホットサンドには、ハムと卵が挟まっていた。意味など何もなさそうな、普通にうまい昼飯だった。
「冬休み、何してた?」美晴が訊いた。
「遠野さんは」
「寝てた」
「それだけ?」
「ベースも弾いた」
「起きてるじゃないか」
「ベース弾いて、寝た」
「充実してるな」
「葛西くんは?」
「本を読んだ」
「珍しい」
「シラノ」
「やっと読んだんだ」
美晴はココアのカップを両手で包んだ。
「面白かったでしょ?」
「面白かった」
「でしょ」
『シラノ・ド・ベルジュラック』。大きな鼻を気にするシラノが、ハンサムだが口下手なクリスチャンに代わり、二人がともに想いを寄せるロクサーヌへ恋文を書き続ける話である。
「なんで、あれを俺に薦めたんだ」
「なんでって?」
「もしかして、俺に、シラノかクリスチャンの何かを重ねてる?」
「なにそれ。重ねてないよ」
「じゃあ、なんで」
「だって、シラノかっこいいじゃん」
「……それだけ?」
「それだけ」
十二月二十八日の夜、四十分考えても分からなかった答えが、三秒で出た。
「何だ」
「何が?」
「いや。何でもない」
美晴は何事もなかったようにホットサンドを食べた。
俺も食べた。
椅子の背に掛けたコートのポケットには、白い封筒が入ったままだった。
※
喫茶店を出て、商店街から一本外れた道へ入った。
参拝客の声が遠くなり、住宅の塀と、葉の落ちた植木ばかりになる。
前方の路地から、猫が一匹出てきた。
白と黒の、雑な塗り分けだった。
同じ個体かどうかは、分からない。
だが俺の中では、この猫は、もう奴であった。
「おい」
猫が止まった。
こちらを見た。
「……いや、なんでもない」
猫は向きを変え、塀の隙間へ入っていった。
「誰と喋ってるの」
「猫と」
「何の話?」
「いや、それが、うまくまとまらなくて」
「何それ」
それから、二人で少し歩いた。
道が分かれる手前で、俺は足を止めた。
「遠野さん」
「なに?」
「これ」
コートの右ポケットから、白い封筒を出した。
美晴は受け取ると、表の宛名を見た。それから封筒を裏返し、俺の名前を見た。
「手紙?」
「うん」
「今、読んでいい?」
「うん」
美晴は封を開けた。
中から一度折った便箋を取り出し、広げる。
書いてあるのは、一文だけだった。
この前は、訊かれたのに、答えなくてごめん。
美晴の三角形が、ぴたりと止まった。
肩のそばの光も跳ねない。
俺には、何も分からなかった。
「……これだけ?」
「本当は、もっとたくさん書こうとした」
「うん」
「でも、書けば書くほど、本当に書きたいこととは違う気がして」
「それで、一文だけの手紙になったの?」
「書こうとしたってことは、知ってほしかったんだ」
美晴は、もう一度便箋を見た。
「クリスチャンみたいだね」
「クリスチャンみたいにハンサムじゃないけどな」
「うん」
「うんって言うなよ」俺は抗議した。
美晴は笑った。
「でも、違うか」
「何が」
「これは、葛西くんが書いたんだもん」
「一文しかないけどな」
「一文でも」
白い便箋が、冬の風に少し揺れた。
美晴は端を指で押さえた。
「ロクサーヌなら、文句言ったかもね」
「言いそうだな」
「でも、怒るか喜ぶかなんて、本当は渡してみなきゃ分かんないよ。クリスチャンとシラノが良くなかったのは、そこを自分たちで決めちゃったから」
美晴は便箋へ目を落とした。
「私、嬉しいよ」
止まった三角形には書かれていなかったことを、美晴の声が言った。
「でも、これが答えってわけじゃないでしょ」
「うん」
「まだ、まとまってない?」
「うん」
「そっか」
美晴は便箋を折り直し、封筒へ戻した。
上着のファスナーを少し下げ、内側のポケットへしまう。
「じゃあ、待つよ。急がなくていい」
俺たちは、また歩き出した。
道が二つに分かれるところまで来たとき、美晴が足を止めた。
「……忘れないけどね」




