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ラブレターってのは

 十二月二十八日、日曜。

 稽古納めは昨日終わった。大学も冬休みで、実家には大晦日に帰ることになっている。

 することがない。

 掃除もしたし、洗濯もした。冷蔵庫に残っていた卵二個も食べた。午後八時の時点で、いよいよ何もなくなった。

 手持ち無沙汰で床に転がっていると、ふと本棚の隅の、一冊の文庫本に目が留まった。


『シラノ・ド・ベルジュラック』

 十月、ツバメ古書堂で遠野美晴に押しつけられて買った本である。そういえば、まだ読んでいなかった。

 半ば義務のような気持ちで、手にとった。表紙を開くと、最初のページから人物の名前がやたらと並んでいる。戯曲である。恋愛小説として薦めてきた美晴は、たぶん、そういう細かい分類を気にしない人なのだろう。


 だが、読み始めてみると、なかなか、どうして。

 途中で作ったカップ麺は伸びてしまった。もう一度湯を沸かして淹れたコーヒーも、気づけば冷めていた。読み終えたのは、十一時を過ぎたころだった。


 シラノ・ド・ベルジュラックか。俺はため息をついた。

 ずいぶん遠回りをする男ではないか。

 頭がよくて、詩が書けて、剣が強い。好きな女の人がいて、手紙も書ける。なのに、自分の名前では渡さない。


 ——手紙が書けるなら、自分の名前で書けばいいだろ。


 十月、美晴からあらすじを聞いたとき、俺はそう言った。

 読んだ今は、なぜ渡せなかったのか、分からなくはない。それでも、書けるなら書けばいいのに、と思ってしまう。


 だがそれにしても、なぜ遠野美晴は、これを俺に薦めたのだろう。


 シラノは強い。俺も強いと思われているかもしれない。絡んできた男たちから、彼女を助けたことがある。だがそれは、本を薦められた後のことだから、理由にはならない。

 もう一人のクリスチャンの方は、口下手で手紙が書けない。そちらが俺だという可能性もある。だが、クリスチャンはハンサムらしい。だから、とは言いたくないが、おそらく俺とはタイプが違う。

 やはりシラノか。

 顔を気にして言えないシラノと、別の理由で言えない俺。

 遠野美晴の中で、二人の何かが結びついているのかもしれない。


 昨日のことが浮かんだ。

 ——私の何を見てるの。

 俺は、それに答えなかった。


 だが、本を薦められた時点では、俺たちは今ほど親しくなかった。意味などなかったのかもしれない。その後の出来事が過去にまで影を落とし、ありもしなかった意味を見せているだけで。


 時計を見ると、十一時四十七分だった。四十分ほど考えて、分かったことは一つもない。

 もう一度、表紙を見る。

 手紙が書けるなら、自分の名前で書けばいい。

 あのとき、俺はそう言った。


「……じゃあ、書いてみるか」と俺は呟いた。

 正直に言って、魔が差したのだと思う。


  ※


 大学のレポート用紙を一枚出した。

 恋愛に似つかわしいとは言えないが、紙は紙である。しばらく考えてから、書いた。


 遠野さんへ


 街灯の下で、俺のために歌ってくれて、ありがとう。

 ライブを聴きに行ったはずなのに、その帰り道のほうを、何度も思い出します。

 大勢の前で弾いていた人が、今は俺一人に向かって歌っている。そのことが、聴いているうちに、だんだん嬉しくなった。


 そのあいだ、俺は遠野さんの光を一度も見なかった。歌が終わってから、そのことに気づいた。

 いつもはそこを見て遠野さんだと分かるのに、あのときは、確かめる必要がなかった。

 昨日訊かれたことの答えには、まだなっていないと思う。でも、あの夜のことを考えると、俺が何を見ているかだけでは、うまく言えない気がする。


 あの夜、キスしてくれて、嬉しかった。

 帰ってからも、しばらく眠れませんでした。


 葛西湊より


「……書けた」

 十五分ほどだった。

 書いてみると、自分が思っていたより、書きたいことはあった。

 だが、少しばかり満足して眺めていたのも束の間、やがて最初の一行が気になり始めた。


 ——俺のために歌ってくれて。

 たしかに街灯の下には二人しかいなかったし、美晴は俺に向かって歌った。それを自分のためだと思ったことに、嘘はない。


 ただ、こう書いて渡すと、美晴にも、そうだったと言ってほしくなる。

 礼を言うふりをして、何かを確かめようとしていないか。


 新しい紙に書き直した。

 ——街灯の下で歌ってくれて、ありがとう。

 これなら、返事を求めているようには見えない。

 だが読み返してみると、何かが弱くなったような気がした。


 場所を入れる必要もないのではないか。

 ——歌ってくれて、ありがとう。

 何のことかは、美晴には分かるだろう。

 だが、二人でいたあの場所まで消すことはない。

 街灯を戻した。


 光のことを書いた行で、また止まった。

 ——そのあいだ、俺は遠野さんの光を一度も見なかった。

 書いたときは、この一行がいちばん伝えたいことだった。

 だが、読むのは美晴である。

 遠野さんの光、という表現は、俺には分かる。美晴には分からない。分かるように書くなら、自分に何が見えているのかを、はじめから書かなければならない。三十メートル先でも、着ぐるみの中にいても、美晴なら分かる理由を全部だ。それは、昨日、訊かれても答えなかったことだ。

 俺にはまだ、その勇気がなかった。


 新しい紙に、こう書いてみた。

 ——そのあいだ、俺は歌だけを聴いていた。

 これなら誰にでも分かる。そう思いながら、読み返した。

 だが、ただ歌に聴き入っていた、としか伝わらない。

 間違ってはいない。だが、いつもは何を頼りにしているかを隠したまま、それを頼りにしなかった夜のことは書けないのだった。


 その紙も丸めた。

 次の紙には、その一行を書かなかった。昨日の質問に触れたところも削った。


 書き直すたび、文面は無難になった。

 返事が欲しくなるところ、説明を求められそうなところ、俺にしか分からないところを抜くと、渡しやすくはなる。その代わり、あの夜も、俺自身も、少しずつ薄くなっていった。


 最初の紙へ戻った。——あの夜、キスしてくれて、嬉しかった。

 ここには、説明の要る言葉はない。俺は嬉しかった。

 ただ、これを読んだ美晴は、どう思うだろう。もう一度してほしい、と言っているように読めないだろうか。俺は少し考えた。してほしくないのか。

 いや。

「……してほしいな」


 待て。


 俺は、答えに触れるところは抜いて、してほしいことだけ書くのか。そうやって、昨日の続きを、あの夜の続きにすり替えるのか。

 丸めた。


 そのあと何枚か使っているうちに、本当に書きたいことの核心から、すっかり遠ざかっていった。

 ——先日は、いろいろとありがとうございました。


「なんじゃこりゃ」

 思わず声が出た。

 これでは取引先への礼状である。その下に「今後ともよろしくお願いいたします」と続ければ完ぺきではないか。


 丸めた。

 夜は魔物である。

 時計を見ると、午前二時を回っていた。机の上には、丸めた紙が七つある。俺はそれらをしばらく眺め、ひとつのことに思い至った。


 このレポート用紙……こいつがよくないのではないか。右上に学生番号欄がある。しかも、知らないうちにそこを埋めている。こんなもの、大学の提出物以外の何物でもない。

 便箋だ。便箋がいる。

 普通なら、翌朝まで待つところである。だが午前二時の俺は、すでに普通ではなかった。


 夜は魔物である。

 その魔物は、駅前に二十四時間営業のコンビニがあることを知っている。

 俺は上着を羽織り、財布を持って外へ出た。


 商店街は眠っていた。

 シャッターの下りた店先に、門松や鏡餅の箱だけが積まれている。誰もいないアーケードを抜けると、駅前のコンビニだけが、昼間よりも白く光っていた。


 文房具の棚には、便箋が三種類あった。

 花柄は違う、猫も違う。

 何も印刷されていない白い便箋と封筒のセットが、一つだけ残っていた。

 四百八十円。


 部屋へ戻ると、二時半を過ぎていた。

 買ってきた袋を机に置く。新品の便箋を一枚出した。これなら書ける。

 ペンを取り、宛名を書く。


 美晴さんへ

 そこで手が止まった。

 しばらく、その五文字を見た。文字なら書けるらしい。

 声に出したことは、一度もない。

 紙を替えた。


 遠野さんへ

 今度は、妙に遠く見えた。

 十月からずっと、そう呼んできたのに。


 二枚を並べた。

 どちらも間違っていないが、どちらも、何か違う。

 とりあえず書き進めた。

 ——俺は、遠野さんといる時間が好きです。


 急に恥ずかしくなり、少し弱めた。


 ——一緒にいると楽しいです。

 まるで学級の寄せ書きである。

 丸めた。


 そもそも、と俺は思った。

 手紙というものは、相手のいないところで、読んだときの顔を考えながら書くものなのである。相貌失認の俺には、最初から不利な形式ではないか。

 そこまで考えて、嫌になった。声なら思い出せる。昨日、どこで止まったかも。

 くそ。俺は、自分の目のせいにまでして、何を書かずに済ませようとしているのだろう。


 俺はラブレターを書くのをやめた。

 代わりに、一つだけ、昨日から気になっていたことを書いた。

 思い描いていたのは、ぴたりと止まった、美晴の三角形だ。

 ——この前は、訊かれたのに、答えなくてごめん。


 美晴がどう思うかは書いていない。

 許してほしいとも、待ってほしいとも書いていない。

 それは、直しようのない言葉だった。

 俺はそれを、人名鑑の、遠野美晴のページに挟んだ。


 時計を見ると、四時を過ぎていた。

 丸めた紙を、机に残したまま、俺は電気を消し、布団へ入った。


  ※


 玄関のチャイムで目が覚めた。


 カーテンの隙間から、冬の朝日が差し込んでいた。

 昨夜、一枚ごとに重大な決断だと思っていた紙が、その光の中では、ただ部屋を散らかしている紙くずに見えた。


 二度目のチャイム。

 時計は十時を少し過ぎていた。俺は床の紙を拾う暇もなく、玄関を開けた。


 理玖が、立っていた。

 何やら木製の人形を持っている。二十センチか三十センチくらい。関節がいくつもあり、台の上で片腕を上げている。


「なんだ、それ」

「デッサン人形だ」

「絵でも描くのか」

「描かん。七つの光は、これにも灯るんだろう」


 そう言って、理玖は俺の返事を待たずに部屋へ入った。

 机の上と床を見渡す。

「書きものか」

「まあ、昨夜、少しな」

 俺は丸めた紙を両手で集め、机の端へ寄せた。


 理玖は空いた場所にデッサン人形を立たせる。

「どうだ」

「ちょっと待て」

 目を凝らした。

 丸い頭や胸の木片には、物に灯る種類の光が、いくつか薄く点いている。

 だが人間に見える、あの七つの並びはなかった。

「ない」

「ない?」

「点いてはいる。木の部品として。でも、人の七つはない」


 理玖は人形の片腕を下ろし、両腕を横へ広げた。

 次に、片脚を上げた。

 人形は台の上で、ひどく不自然な片足立ちになった。

「これでも?」

「ない。人間がその格好をしたら、七つとも動くと思うけど」

「人形には灯らないのか。それなら灯らないと早く言え」

「だって、そんなこと今まで気にしたことなかったもん」

「もん、じゃない。自分の目のことだというのに、お前という男は無頓着すぎるんだ」

「そりゃ俺も、興味はあるよ。あるけど、そんな視力検査みたいなことばっかり考えて生活してられないだろ」


 理玖は人形の脚を元へ戻した。それからしばらく、黙って人形を見ていた。

「盲点だった」

「理玖にも盲点があるのか」

「ある。俺は人間と物体を別々に調べて、その境目を試していなかった」


 理玖は鞄からノートを出した。

「少なくとも、人間に灯る七つは、外形や質量分布だけでは決まらないらしい。あの路地に隠れていた子どもは、体が完全に見えなくても、傍心がケースの外に出ていた」

「そうだったな」

「着ぐるみの中でも、人間の七つは見えている。人間の形が隠れても七つは消えない。一方で、こいつは人間の形をしているのに七つを持たない」


 理玖はノートに二本の線を引いた。

 片方の上に「生体」、もう片方に「非生体」と書く。

「生きてるかどうか?」

「それも候補だ。生きた体が姿勢を保つために続けている制御——筋肉の緊張、平衡感覚、神経の電気信号。そういうものが関係している可能性がある」

「俺、電気を見てるってこと?」

「短絡するな。電気そのものを直接見ているとは限らない。お前の脳が相手の身体状態に同調し、その結果を光として解釈しているのかもしれん」

「同調」

「今のところは仮説ですらない。候補だ」

「俺には同じ意味に聞こえる」

「違う。仮説には、最低限、確かめる方法が要る。今の俺には、それが思いつかん」

 理玖はノートに何行か書いた。

 最後の一行の下に、二重線を引く。


 俺は、コーヒーでも出そうと、湯を沸かしにキッチンへ行った。


 戻ると、理玖が丸めた紙の一つを、机の上で広げていた。

「あ、それは」

「見てはいけないものだったか」

 理玖の手から奪い取った。

 ——街灯の下で歌ってくれて、ありがとう。

 レポート用紙に、それだけが書いてあった。少し、ほっとした。


「手紙の下書きか。遠野さんに?」

「まあな」

「いい手紙になりそうな書き出しだ」

「一枚目に書いたやつのほうがよかった」

「じゃあ一枚目を出せばいい」

「……あれは出せない」

「そうか」

 それだけだった。

 俺は二人分のコーヒーを机へ置いた。


「遠野さんが『シラノ』を俺に薦めた理由が、よく分からないんだよな」

 俺は言った。

「シラノは顔を気にして言えない。クリスチャンは口下手で手紙が書けない。俺は顔が分からないし、言うのも得意じゃない。だから、どっちかを俺に重ねたんじゃないかと思う」

「本人に訊いたのか。推薦した理由を」

「いや」

「じゃあ、仮説だな」

 そのとおりだった。

「でも、何かあるだろ。わざわざ薦めたんだから」

「あるかもしれないし、ないかもしれない」

 役に立たない言葉である。


「歌ってくれて、ありがとう、でいいんじゃないか」

「礼だけ言いたいわけじゃないんだ」

「じゃあ、その続きを書けばいい」

「書くと、訊かれるだろ。どういう意味だって」

「そのとき答えればいいだろ」

「……それができたら、昨夜のうちに寝てる」

「だろうな」

「お前ならどう直す」


 理玖は俺を見た。

「俺が直したら、それこそシラノだろ」

 理玖はコーヒーを飲み終えると、人形の両腕を下ろし、鞄へ入れた。


「もう帰るのか」

「目的は済んだ」

「人形の検証?」

「ああ」

「手紙をどうしようかなあ」

「それは俺の目的に入ってない」

 そう言って、理玖は帰っていった。


  ※


 俺は人名鑑の美晴のページから、昨夜の便箋を取り出して広げた。

 ——この前は、訊かれたのに、答えなくてごめん。

 それは昨夜と同じ文字で、朝になっても、直すところが見つからなかった。


 机の端に、『シラノ・ド・ベルジュラック』がある。

 十月の俺は、手紙が書けるなら、自分の名前で書けばいいだろ、と言った。書くことと渡すことのあいだに、紙が十二枚と、朝の光があるとは知らなかった。


「……なるほど。ラブレターってのは……」

 その言葉の続きをどうまとめればいいのか、俺には分からなかった。


 便箋は、まだたっぷり残っている。

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