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まとまったから言うね

 美晴はベースを床に寝かせた。

 そして、膝を抱えた。

「あのね。まとまったから、言うね」

「なにが」

「前に、銀杏《いちょう》のとこで言ったでしょ。まとまったら言うって」

 覚えていた。十月だ。三十メートル先から手を振り返した日。彼女は「うまくいえないから」と言って、そのまま次の講義へ行った。

 二か月かけて、まとまったらしい。


「私さ、前期から、葛西くんのこと、ちょっとだけ知ってたんだよね」

「語学クラスだからな」

「そうじゃなくて」美晴は膝に顎(あご)を載せた。「葛西くんは……誰の顔も見ない人だったの」

 俺は、動けなくなった。

「席、離れてたし、喋ったこともなかったけど。あの人、誰とも目を合わせないなあ、そう思って見てた。先生に当てられても、机見て答えるでしょ。友達と喋ってるときも、なんか、靴のへんを見てるし」

「……たしかに、見てたな」

「ね、見てたよね」

 美晴は、少し笑った。

「でね。私、そういう人が気になるの。だって、こっちを見ない人って、いちばん安心して見られるから」

 俺は、美晴が見舞いに来た日、病室で向かい合った十分間を思い出していた。

 六百二十三羽の鶴を持ってきた女の子。俺が生まれて初めて、顔のあるあたりに視線を置いたまま、十分間しゃべり通した相手。

 あのとき俺は、解放された自分のことばかり考えていた。もう逃げなくていい、責められない、と。

 彼女の側からその十分がどう見えたのかは、考えたことがなかった。

「だけど、お見舞いに行ったらさ」美晴は言った。「葛西くん、めちゃくちゃ人の目、見るようになってて」

「……ああ」

「びっくりしたよ。別人かと思った。しかもね、見るだけじゃなくて、知らないおじさんに看板が落ちますとか言うし、着ぐるみの中身は当てるし、怖い人たち三人もやっつけちゃうし」

「三人目は逃げた」

「二人でも充分でしょ」

 彼女は、そこで一度、言葉を切った。

 美晴の三角形が、ぴたりと止まった。

 古書堂で見たのと同じ、あの止まり方だ。俺の頼りの計器が、何も指さなくなる。


「あのね。ここからが、まとまったほうなんだけど」

「うん」

「葛西くんが今、私の目を見てくれてるのは、私は嬉しいの。すごく」

「うん」

「でも、たまに思うんだ。この人が見てるの、私じゃないんじゃないかなって」


  ※


 彼女は、ゆっくり、一つずつ、置くように言った。

「三十メートル先から分かるって言ったでしょ。雰囲気で、って。着ぐるみの中身も当てたでしょ。ライブでは、後ろを向いて笑ったのまで当てた。あれ、嬉しかったんだ。すごく嬉しかった。私のこと、そんなによく見てくれてるんだって思ったから」

「うん」

「でも、あれって、私の何を見てるの」

 俺は答えられなかった。


 言えることなら、いくつかあった。

 そんなことはない、とか。ちゃんと遠野さんを見ているよ、とか。

 どれも彼女の質問には答えていない。

 彼女が訊いているのは、俺が、彼女の何を、見ているか、なのだ。


 二階で、何かが倒れる音がした。それから宮下先輩の「あー!」という声。誰かが笑った。稽古納めの片付けは、まだ続いているらしい。

 世界のほうは、平常運転だった。

「……ごめん」と俺は言った。「うまく言えない」

「そっか」

「いつか言おうと思う。でも、今は」

「うん」

 美晴は、それ以上は訊かなかった。


  ※


 彼女は立ち上がった。

 ケースの口を開け、ベースを寝かせた。ぱち、ぱち、と留め金の音がした。

 俺はその背中を見ていた。彼女の三角形は、跳ねも揺れもせず、ベースを収める背中に静かに重なっていた。

 この話は終わったのだ、と俺は思った。 この話は終わったのだ、と俺は思った。

 訊かれて、答えられなくて、引き上げられた。それだけのことである。それだけのことのはずだが、思ったより堪(こた)えた。

 だが、最後の留め金を留めたあと、彼女は座り直した。

 ケースを膝の横に置いて、俺の正面に。

 そして、俺の右の手首を、両手で掴んだ。

「遠野さ——」

「じっとして」

 あの夜のように冷たくはなかった。稽古あがりのベース弾きの手は、湿っていて、熱かった。

 先月、街灯の下で白い息を見ながら歌った人の手だ、と思った。

 彼女は俺の指を、自分の左の頬へ持っていった。

 指の腹の下で、頬の肉が動いた。

 なめらかで、薄くて、その下に骨があった。骨の際に沿って、皮膚がゆっくり上がっていく。

 そして、指の第二関節のあたりに、窪みができた。

 できていく途中が、分かった。浅く沈んで、少し深くなって、止まった。

「……葛西くんが見てるのが、私じゃなくても」

 美晴の声は、少し揺れていた。

「いま、葛西くんが触れてるのは、私だから」

 言ったあとで、彼女自身が驚いたのだと思う。

 顔は、俺には見えない。だが三角形は見えた。若枝のようなそれが、大きくたわんだ。

 自分の言葉に、自分でぶつかったみたいに。


 この人はきっと、今日ここで言うつもりでいたことを全部言ってしまってから、言うつもりのなかったことまで言ったのだ。

「……私、ここ、えくぼあるよ」

 喋ると、指の下で顎(あご)の骨が動いた。

「ほんとうだな」

「私だよ」美晴はかすれた声で言った。

「……うん」俺は、そこにそっと触れた。


  ※


 どれくらいそうしていたのか。

 先に離したのは、彼女のほうだった。

 俺の手首を放し、「くすぐったいよ」と自分の頬を指で一度こすって、立ち上がった。

「……今の、内緒ね」

「またそれか」

「またそれです」

 それから彼女は、卵のパックの壁からケーブルを外しにかかり、アンプの上の楽譜を集め、ドラムに布をかけ、部屋の電気の一つを消した。

 俺は署名簿を拾って、抱え直した。

 解決したことは、何もなかった。俺は彼女の質問に答えていないし、彼女は答えを聞いていない。にもかかわらず、部屋は片付いていき、二人ともそれについて何も言わなかった。


  ※


 帰りは、二人で北の階段を降りた。

 ぎ、と一段目が鳴いた。

「うわ、鳴った」

「鳴くんだよ、こっちは」

 三段目、四段目、ぎ、ぎ。

「知ってる。だからみんな南使うんじゃん」

「八雲さんは、いつも北だけどな」

「なんで」

「鳴くから、だそうだ」

「意味わかんない」美晴は笑った。「でも、ちょっと分かる、かな。ここに来たぞーとか、もう下りるぞーって感じする」

「じゃあ八雲さんは、毎回わざわざ挨拶してから道場に入ってるのか」

「そうだよ、たぶん。律儀だなあ」

「紺野さんって分かる?」

「たぶん分かるよ。たまに見かけるもん。あの背が高い、かっこいい女の子でしょ」

「あの人、ここの階段が怖いっぽいんだ」バラしてしまった。

「えっ、意外! 何それ、超かわいいんだけど」美晴は声を高くして喜んだ。


  ※


 その夜、人名鑑を開いた。遠野美晴のページだ。

 ベースは、あまり誰も聴いていないこと。止めると分かること。着ぐるみの中では見返されないこと。前期の俺が、誰の顔も見ない男だったこと。

 最後に、一行足した。

「えくぼ、左。手で分かる」

 書いてから、ノートを閉じて、少し考えた。

 人名鑑は、俺の目で、人を見分けるために描き始めたものだ。

 だから、手で見分けられるときは、要らない。

 この五か月で百人ぶん近く書いたこのノートに、要らない相手が一人できたことを、俺はその夜、初めて理解した。

 そして、その一人に、まだ何も言えていないということも。

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