↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
24/56

閉じてない三角形

 十二月二十七日。稽古納めの日だった。

 この日の掃除は、いつもの倍はかかった。

 まず畳を全部上げ、板の間(ま)に米糠(こめぬか)を撒く。その上を雑巾で往復する。宮下先輩いわく「一年に一度、床に礼を言う日」だそうである。

 俺はその日、床に十七往復ぶんの礼を言った。


 板が終わり、畳を戻し、ほうじ茶が配られたころ、小田島さんが署名簿を持ってきた。「旧文化会館を守る会」のものである。


「葛西くん。これ、上に持ってってほしいんだけども。三階の子らも、今日で終(しま)いだと言うとったから」

「音研ですか」

「うん。あそこの子らの名前はまだもらえてないんだよ。若い子らは、こういうの、あんまり回ってこんからね」

 紺野さんがモップを立てかけながら言った。

「音研なら、北の階段のほうが近いわ。私は絶対行かないけど」

「なんでですか」

「なんでも」

 この人の「なんでも」には可愛げがある。北の階段が怖いのだ。


  ※


 俺は署名簿を小脇に抱えて、北の階段を上がった。

 一段目で、ぎ、と鳴った。

 二段目は鳴らず、三段目と四段目で、ぎ、ぎ。

 なるほど、軋む、ではなく鳴くである。そう言いたくなるくらい、どこか生き物めいている。

 板がしなって、木の目のどこかが擦れる。同じ場所を同じように踏んでも、鳴くときと鳴かないときがある。

 ずれの多い建物だ、と小田島さんは言っていた。図面通りじゃないところが、あちこちにある、と。

 この音を、紺野さんは怖がり、八雲さんは「稽古のたびにこれを聞くことが、知らず心に節目を作っている」という。どちらも、分からないでもない。


 三階の音楽研究会は、二階の道場より狭かった。

 壁じゅうに卵のパックが貼ってある。防音のつもりのようだが、たぶん気休めだ。

 床には黒へびのようなケーブルがにょろにょろと寝そべり、隅にはアンプが積んである。

 入って三秒で、俺は足を止めた。

 光っていたのだ。

 ドラムの皮に一つずつ。シンバルにも一つずつ。アンプの丸いつまみが六個並んで、六個の光が横一列に整列している。

 まるで夜景だった。ツバメ古書堂で見たやつと同じ——ただし、今度は楽器に灯った光の、夜景。

 打楽器の棚のそばに吊るされたトライアングルには、七つ点いていた。金属棒が曲がってできたこの楽器は、その名の通りの三角形だ。

 美晴たちのバンド名と同じ名前の楽器である。実用として吊るしてあるのか、それともシンボルなのか。

 それは、どこか落ち着かない光を放っていた。少しにじんで、明滅していたのだ。

 俺は近づいて、理由を見つけた。

 三角の一つの角が、閉じていない。棒を曲げて作ってあるから、端と端がわずかに離れている。

 閉じていない三角形。

 どうやら俺の目は、そういうものの中心を決めかねるらしかった。


  ※


 部屋の奥で、音が鳴った。

 ぼん、と低いのが一つ。それから、ぼん、ぼん、ぼん。

 美晴が、壁を背にして座っていた。膝にベースを載せ、アンプなしで、生の弦をはじいている。俺が入ったことには、まだ気づいていない。

 弾(ひ)いているときの光を見るのは、十一月のライブ以来、二度目だった。

 あのときはステージの上で、俺は客席にいた。今日は二人とも、同じ床の上にいる。

 若枝のような三角形が、いつもより深く、ゆっくり撓んでいた。ステージの上とは、撓み方が違う。あのときはオイラー線だけがぶれなかった。今は、その線も全身のしなりに合わせて揺れている。

 三つの傍心は、体から離れたところに、糸で張ったように留まっていた。美晴が弦を弾くたび、三つともぴんと震えた。

 俺は署名簿を抱えたまま、しばらく黙って立っていた。

 やがて美晴が顔を上げた。

「うわっ」

 ベースの低い弦が、びよーんと間抜けな音を出した。

「悪い」

「悪いよ! いつからいたの」

「ええと、トライアングルを見てたんだ」

「なにそれ」


  ※


 署名簿を渡すと、美晴はその場で名前を書いた。書きながら、ケイさんとナっちゃんのぶんも、年明けの練習で書かせておくと言った。

「ここ、無くなったら困るもん。私たち、他に部屋ないし」

「うちもだよ」

「知ってる。真下だもんね」

 彼女は署名簿を閉じて、床に置いた。それからベースを抱え直して、俺のほうへ顎(あご)をしゃくった。

「座れば。片付け、まだかかるから」

 俺はパイプ椅子に腰を下ろした。

 美晴は弾かないまま、弦を指の腹で撫でていた。

「ベース、いつからやってるんだ」

「高二から。軽音入って、じゃんけんで負けたの」

「負けた人がベース?」俺は訊いた。

「負けた人がベース」美晴は笑った。「みんな、ギターかボーカルやりたがるから」

「遠野さんも?」

「まあね。だけど今は、じゃんけん、負けてよかったと思ってる」

 彼女は四本の弦のいちばん太いのを、ぼん、と一回鳴らした。

「ベースってさ、あんまり誰も聴いてないの」

「この前、理玖に言ってたな。止めたら分かるって」

「聞いてた?」

「聞いてた」

「やってみせよっか」

 美晴は、ぼん、ぼん、と二つ鳴らしてから、手を止めた。

 部屋が、急に静かになった。卵のパックが吸いきれなかった二階の物音が、床から少しだけ上がってきた。

「ね。分かるでしょ」

「分かる」

「そういうの、いいなと思って」

 それから、また、ぼん、と鳴らした。

 部屋の底が、戻ってきた。


「あのさ」美晴が言った。「私、着ぐるみのバイト、なんで続けてるんだと思う」

「ベース代を貯めてるんだろ」

「それはそうなんだけど、それだけなら、コンビニでもいいの」

「まあ、確かに」

「時給だって変わんないし。それに想像してよ。暑いし、ろくに階段ものぼれないし、トイレだって大変だし、魚だのダンゴだの言う人もいるし」

 美晴が笑いながら話すので、俺もつられて少し笑った。

「でもね」美晴は続けた。「中に入ってると、ずーっと人を見てられるんだ」

「……見てられる」

「言ったでしょ。目のとこ、メッシュだから外はよく見えるって。でも向こうからは、こっちの目がどこ向いてるか、絶対に分からないの」

 彼女は自分の顔の前で、両手をひらひらさせた。

「だから、いくらでも見ていいんだよ。見返されないから。あの遠慮のいらなさを覚えたら、わりと癖になるかもよ」

 俺は返事をしなかった。

 彼女が今言ったことは、俺がやっていることと、どこかが似ていた。

「変でしょ」

「いや」俺は言った。「分かる気がする」

「そう?」美晴は少し意外そうだった。「けっこう、感じ悪くない? これ」

「感じ悪いかもな」と俺は言った。「でも、かなり分かる」


 ずるさの構造が、ちょうど裏返しなのだ。

 この人は、人の目から自分の顔が見えないように、隠れて安心している。

 俺は、自分の目から人の顔が見えないように、隠して安心している。

「羨ましい?」

「うん」

「なにそれ。じゃあ着てみる? ナっちゃんのシフト代わってもらおうか」

「そういう話でもないんだけど」

「時給、千百円だよ」

「まあまあ、か」

「まあまあ、かなあ」

 俺は笑った。

 だが笑いながら、ずるさを隠すことなく話題にした美晴と、自分との違いにも気づいていた。

 着ぐるみは、脱げるのだ。俺は、着ていた。今も。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。