閉じてない三角形
十二月二十七日。稽古納めの日だった。
この日の掃除は、いつもの倍はかかった。
まず畳を全部上げ、板の間に米糠を撒く。その上を雑巾で往復する。宮下先輩いわく「一年に一度、床に礼を言う日」だそうである。
俺はその日、床に十七往復ぶんの礼を言った。
板が終わり、畳を戻し、ほうじ茶が配られたころ、小田島さんが署名簿を持ってきた。「旧文化会館を守る会」のものである。
「葛西くん。これ、上に持ってってほしいんだけども。三階の子らも、今日で終いだと言うとったから」
「音研ですか」
「うん。あそこの子らの名前はまだもらえてないんだよ。若い子らは、こういうの、あんまり回ってこんからね」
紺野さんがモップを立てかけながら言った。
「音研なら、北の階段のほうが近いわ。私は絶対行かないけど」
「なんでですか」
「なんでも」
この人の「なんでも」には可愛げがある。北の階段が怖いのだ。
※
俺は署名簿を小脇に抱えて、北の階段を上がった。
一段目で、ぎ、と鳴った。
二段目は鳴らず、三段目と四段目で、ぎ、ぎ。
なるほど、軋む、ではなく鳴くである。そう言いたくなるくらい、どこか生き物めいている。
板がしなって、木の目のどこかが擦れる。同じ場所を同じように踏んでも、鳴くときと鳴かないときがある。
ずれの多い建物だ、と小田島さんは言っていた。図面通りじゃないところが、あちこちにある、と。
この音を、紺野さんは怖がり、八雲さんは「稽古のたびにこれを聞くことが、知らず心に節目を作っている」という。どちらも、分からないでもない。
三階の音楽研究会は、二階の道場より狭かった。
壁じゅうに卵のパックが貼ってある。防音のつもりのようだが、たぶん気休めだ。
床には黒へびのようなケーブルがにょろにょろと寝そべり、隅にはアンプが積んである。
入って三秒で、俺は足を止めた。
光っていたのだ。
ドラムの皮に一つずつ。シンバルにも一つずつ。アンプの丸いつまみが六個並んで、六個の光が横一列に整列している。
まるで夜景だった。ツバメ古書堂で見たやつと同じ——ただし、今度は楽器に灯った光の、夜景。
打楽器の棚のそばに吊るされたトライアングルには、七つ点いていた。金属棒が曲がってできたこの楽器は、その名の通りの三角形だ。
美晴たちのバンド名と同じ名前の楽器である。実用として吊るしてあるのか、それともシンボルなのか。
それは、どこか落ち着かない光を放っていた。少しにじんで、明滅していたのだ。
俺は近づいて、理由を見つけた。
三角の一つの角が、閉じていない。棒を曲げて作ってあるから、端と端がわずかに離れている。
閉じていない三角形。
どうやら俺の目は、そういうものの中心を決めかねるらしかった。
※
部屋の奥で、音が鳴った。
ぼん、と低いのが一つ。それから、ぼん、ぼん、ぼん。
美晴が、壁を背にして座っていた。膝にベースを載せ、アンプなしで、生の弦をはじいている。俺が入ったことには、まだ気づいていない。
弾いているときの光を見るのは、十一月のライブ以来、二度目だった。
あのときはステージの上で、俺は客席にいた。今日は二人とも、同じ床の上にいる。
若枝のような三角形が、いつもより深く、ゆっくり撓んでいた。ステージの上とは、撓み方が違う。あのときはオイラー線だけがぶれなかった。今は、その線も全身のしなりに合わせて揺れている。
三つの傍心は、体から離れたところに、糸で張ったように留まっていた。美晴が弦を弾くたび、三つともぴんと震えた。
俺は署名簿を抱えたまま、しばらく黙って立っていた。
やがて美晴が顔を上げた。
「うわっ」
ベースの低い弦が、びよーんと間抜けな音を出した。
「悪い」
「悪いよ! いつからいたの」
「ええと、トライアングルを見てたんだ」
「なにそれ」
※
署名簿を渡すと、美晴はその場で名前を書いた。書きながら、ケイさんとナっちゃんのぶんも、年明けの練習で書かせておくと言った。
「ここ、無くなったら困るもん。私たち、他に部屋ないし」
「うちもだよ」
「知ってる。真下だもんね」
彼女は署名簿を閉じて、床に置いた。それからベースを抱え直して、俺のほうへ顎をしゃくった。
「座れば。片付け、まだかかるから」
俺はパイプ椅子に腰を下ろした。
美晴は弾かないまま、弦を指の腹で撫でていた。
「ベース、いつからやってるんだ」
「高二から。軽音入って、じゃんけんで負けたの」
「負けた人がベース?」俺は訊いた。
「負けた人がベース」美晴は笑った。「みんな、ギターかボーカルやりたがるから」
「遠野さんも?」
「まあね。だけど今は、じゃんけん、負けてよかったと思ってる」
彼女は四本の弦のいちばん太いのを、ぼん、と一回鳴らした。
「ベースってさ、あんまり誰も聴いてないの」
「この前、理玖に言ってたな。止めたら分かるって」
「聞いてた?」
「聞いてた」
「やってみせよっか」
美晴は、ぼん、ぼん、と二つ鳴らしてから、手を止めた。
部屋が、急に静かになった。卵のパックが吸いきれなかった二階の物音が、床から少しだけ上がってきた。
「ね。分かるでしょ」
「分かる」
「そういうの、いいなと思って」
それから、また、ぼん、と鳴らした。
部屋の底が、戻ってきた。
「あのさ」美晴が言った。「私、着ぐるみのバイト、なんで続けてるんだと思う」
「ベース代を貯めてるんだろ」
「それはそうなんだけど、それだけなら、コンビニでもいいの」
「まあ、確かに」
「時給だって変わんないし。それに想像してよ。暑いし、ろくに階段ものぼれないし、トイレだって大変だし、魚だのダンゴだの言う人もいるし」
美晴が笑いながら話すので、俺もつられて少し笑った。
「でもね」美晴は続けた。「中に入ってると、ずーっと人を見てられるんだ」
「……見てられる」
「言ったでしょ。目のとこ、メッシュだから外はよく見えるって。でも向こうからは、こっちの目がどこ向いてるか、絶対に分からないの」
彼女は自分の顔の前で、両手をひらひらさせた。
「だから、いくらでも見ていいんだよ。見返されないから。あの遠慮のいらなさを覚えたら、わりと癖になるかもよ」
俺は返事をしなかった。
彼女が今言ったことは、俺がやっていることと、どこかが似ていた。
「変でしょ」
「いや」俺は言った。「分かる気がする」
「そう?」美晴は少し意外そうだった。「けっこう、感じ悪くない? これ」
「感じ悪いかもな」と俺は言った。「でも、かなり分かる」
ずるさの構造が、ちょうど裏返しなのだ。
この人は、人の目から自分の顔が見えないように、隠れて安心している。
俺は、自分の目から人の顔が見えないように、隠して安心している。
「羨ましい?」
「うん」
「なにそれ。じゃあ着てみる? ナっちゃんのシフト代わってもらおうか」
「そういう話でもないんだけど」
「時給、千百円だよ」
「まあまあ、か」
「まあまあ、かなあ」
俺は笑った。
だが笑いながら、ずるさを隠すことなく話題にした美晴と、自分との違いにも気づいていた。
着ぐるみは、脱げるのだ。俺は、着ていた。今も。




