見えないものと、届かないこと
紺野さんに呼び止められたのは、十二月の半ばだった。
稽古後、モップを片付けていたら、道場の入口で腕を組んで待っていた。長身に完璧な姿勢。よく素振りされた竹刀のような光が、まっすぐこっちを向いている。
十日前、会館の外で、この人は同じ言い出し方をして、途中でやめた。
今日はやめる気がないらしい。
「葛西。あんたさ」
「はい」
「稽古で相手と組むとき、変なとこ見てるよね」
モップを持つ手が、一瞬止まった。止まったのを、見られた。
「……変なところと言うと」
「なんもない空中。なんもない畳の上。あんた一体、何を見てるの」
「何をってこともないと思うけど……」
「ううん、絶対に何かを見てる。焦点が定まりすぎてるもの」
剣道六年の目付である。竹刀を置いた今も、その観察眼は現役のようだ。
紺野さんは見ていたのだ。俺が組んだ相手の、体の外にある「傍心」の支えを借りようとしていることを。他の誰にも見えないそこに焦点を合わせているのだから、外から見れば、的外れに映っても不思議はない。
だが、ふつう、そんなことに気づくものだろうか。
鋭い追及にたじろいで、俺は、あろうことか、紺野さんの右肩の外に浮く傍心へ目をやってしまった。慌てて顔のほうへ視線を戻したが、たぶん遅かったろう。紺野さんは、今のも見ていたに違いない。
道場には、俺たちのほかに誰もいなかった。
次の瞬間、紺野さんの三角形が、がちゃがちゃと震えはじめた。
あの震え方を、俺は一度だけ見たことがある。着ぐるみの中で、いきなり名前を当てられた人のやつだ。
怒らせたか、と思った。紺野さんにしてみれば、俺の悪癖を修正してくれようとしているのだ。その話をしている目の前で、俺の「それ」がまた出たのだから、苛立ちを感じても無理はない。だが、そういう震えでもないような。
「……あ、あのさ」と紺野さんは言った。
声が、いつもの半分の音量になっていた。
「私の右肩……」
「はい」
「……なんも、ないよね」
「ないです」
「そうよね。ないよね。うん」
紺野さんは自分の右肩を、手のひらで二回、払った。何かを追い出すみたいに。
「あのね、葛西。話せないことなら話さなくていい。ただ、もっと意識して場の全体を見るようにしなさい。あんたの目は、今のままだと、正直すぎるから」
最後のほうは、ほとんど早口だった。
それだけ言うと、紺野さんは戸口へ向かった。一度だけ、俺をちらりと振り返り、南の階段を、いつもより速い足で降りていった。
その足音を、モップを持ったまま聞いていた。
妙だった。
あの人はひと月半ぶんの観察を積み上げて、道場の入口で俺を待ち構えていたのだ。それが、俺が彼女の右肩を見た瞬間に崩れて、逃げた。
……逃げた?
順番を並べ直してみる。
俺は「なんもない空中」に焦点を合わせた。彼女はそれを見た。そして訊いた。「私の、右肩」「なんも、ないよね」と。
俺は理解した。
あの人は、俺が幽霊を見ていると思ったのだ。
今度の稽古のときにでも訂正すべきだ、と俺は思った。だが訂正するには、俺が本当は何を見ているのかを言わなければならない。そしてそれを言うには、その前に、俺が何を見ていないのかを言う必要がある。
光の話は、顔の話と背中合わせなのだ。片方だけ渡すことが、できない。
仕方がない。俺は、黙っていることにした。
その夜、人名鑑の紺野ページに追記しておいた。
「観察系統・目付。どうやら、たいへん怖がりである」
※
三日後の稽古のあとだった。
紺野さんが、また俺を呼び止めた。
「葛西。……変なこと訊くけど」
「はい」
紺野さんは一度、道場を見回した。誰もいないことを確かめる目だった。
「……私の守護霊って、どんな人?」
俺は、モップを落とした。
「え、あの、俺は別に」霊能者とかじゃ、ないんですけど。
「いいから。年配の人? それとも」
「いや、あの」
「女の人だったら、たぶん祖母だと思うの。三年前に亡くなった」
冗談の響きが、少しもしなかった。
あとで分かったことだが、この人は心霊番組を録りためている。神社では作法にうるさい。会館の三階に出るという噂を、守る会の年寄りより詳しく知っている。北の階段は、絶対に使わない。
怖いのに、知りたいのだ。逃げた三日後に、こうして戻ってくるくらいには。
「……何も、見えてません。ほんとうに」
「そう」紺野さんはうなずいた。「見えても言わないよね、そういうのは」
違う。そうじゃない。
俺は黙った。黙ったことが、また、彼女の中で答え合わせになったようだった。
ひとつだけ、書いておきたいことがある。
俺は、別に幽霊が怖くない。
もちろん、もし血だらけで髪を振り乱した白装束の女の霊が急に出てきたら、さすがに怖いと思うだろう。
だが、それを言うなら多分、血だらけで髪を振り乱した白装束の生身の女が急に出てきた方が、よっぽど怖いと思う。
毎日、人の体のまわりに光る点を七つ見ている男である。あんなものが平然と存在している世界で、いまさら何に驚けというのか。
この一点においてだけ、俺は紺野さんに勝っていた。
初勝利である。
そして、正直に書いておくが——このあたりから、俺はだんだん面白くなってきていた。
※
年の瀬のサニーズで、俺は理玖にひと月半ぶんの泣き言を聞いてもらった。
いや、その前に紺野さんの話をした。守護霊の件である。
「三年前に亡くなった祖母の可能性を、その人は検討していたわけだ」
「してた。真顔で」
「お前は否定したんだな」
「何も見えてませんと言ったんだけどな」
「信じてもらえなかったと」
「そりゃあ見えたとしても言わないよね、って」
理玖はメロンソーダを混ぜる手を止めた。
「……なかなか可愛らしい勘違いをする子だな」
俺は顔を上げた。
こいつが人のことを可愛らしいと言うのを、俺は初めて聞いた。高校からの付き合いで、初めてである。
「今、なんて」
「なんでもない」と理玖は手を振って言った。「で、お前の泣き言はなんだ」
「うん」俺は話した。「見えるのにできない。答えが光ってるのに、手が届かない。これ、何なんだろうな」
理玖はメロンソーダを混ぜながら聞いていた。炭酸が死ぬまで混ぜ倒したかと思うと、四色ボールペンを出し、紙ナプキンに角を一つ描いた。
「いい話をしてやる。角の三等分の話だ」
「三等分」
「定規とコンパスを使って、角を二等分する作図は簡単だ。では、三等分は」
「……できそうな気がするけど」
「二千年、人類もそう思っていた。古代ギリシャからだ。この問題の前に、無数の秀才が人生を溶かした。決着がついたのは二百年ほど前になる」
「できたのか」
「『できない』ことが、証明された」
理玖はナプキンの角の内側に、三等分線を二本、フリーハンドで引いた。
「一八三七年、ヴァンツェルによる。だが、いいか。だからと言って、角の三等分線が存在しないわけじゃない。この線は厳然と存在する。角度を三で割ればいいだけの話だからな。だが、定規とコンパスという道具では、この線に辿りつくことができない。二千年かけて分かったのは、線が無いことじゃない。道具が届かないことなんだ」
「存在するのに、作図できない」
「そうだ。存在することと、作図できることは、別の話だ」
グラスの中の氷が、からんと鳴った。
「……なんで二千年も、やめなかったんだ。できないものを」
「できないと知らなかったから、というのが半分。もう半分は」理玖はナプキンの上の二本の線を、ペンの尻でこつんと叩いた。「線が、見えてたからだ。三等分線は誰の頭の中にも、はっきり存在が見える。見えている限り、人間は諦めない。二千年ぶんの失敗は全部、『見えるのに届かない』人間の記録だよ」
見えるのに届かない人間の記録、二千年分か。
俺は自分の投げられ日記を思った。あれの先輩が、古代ギリシャから連綿といたのだ。急に、自分のやっていることが由緒ある行いに思えてきた。まあ由緒があっても、投げられている事実に変わりはないのだが。
「……理玖。作図できない線には、どうやっても届かないのか」
「定規とコンパスだけなら届かない。だが、道具を増やせば届く。たとえば折り紙を使えば三等分は作図できる。目盛り付きの定規でもできる。古代人は専用の曲線まで発明した。要するに」理玖はペンを納めた。「道具の限界は、線の不在じゃないってことだ。稽古ってのは、あれだろ。使える道具を増やす作業なんだろ」
数学科は、稽古の本質を、あっさりと突いてみせた。
※
サニーズを出て、駅前の信号を待ちながら、俺は権藤さんのことを思い出していた。
退院の朝、あの人は俺にこう言ったのだ。
——ええか、兄ちゃん。手じゃぞ。見えても、肝心なのは手じゃ。兄ちゃんの目で見たもんを、手に伝えるんじゃ。
あのとき俺は「心得ておきます」と答えた。心得てなど、いなかった。
あれは励ましだと思っていた。標語のようなもので、聞いて気持ちよくなるための言葉だと。
今、ようやく理解しつつある。そんなものではない。あれは工程であり、実践したものだけの言葉だ。
見える。それは道具のうちに入らない。目は、答えの在り処を教えるだけだ。木を削るのは鉋で、鉋を握るのは手だ。
六十年、屋根の上で膝を折ってきた大工が、二千年ぶんの数学の話を、一行で言っていたのである。
信号が青になった。
俺は横断歩道の白線を数えながら渡った。八本あった。数えても何にもならないが、それが俺という道具の癖だった。




