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お前の腕のせいじゃない

 俺は、帰らなかった。

 宮下先輩が帰り、来栖さんが帰り、袴田さんと矢野が連れ立って出ていった。小田島さんは湯呑みを片付けながら「わしは今日、守る会の寄り合いがあるんでね」と、いつものお茶を省略した。署名簿の綴じ込みを抱えて、そそくさと出ていく。

「兄ちゃんら、戸締まりだけ頼むよ」

 畳の上に、八雲さんと俺だけが残った。


 八雲さんは道場の隅で、稽古着の袖を直していた。

「八雲さん」

「うん」

「話したいことが、あるんですが」


 稽古の途中から、言おうと決めていた。

 答えは五十本とも合っていた。そして五十本とも通らなかった。

 自分の目が武器なのか欠陥なのか、俺はだんだん分からなくなってしまったのだ。判定できそうな人が、この道場に一人だけいる。


 残りの休憩時間ぜんぶを使って、俺は言葉を用意した。

 順番も考えた。

 円の中心から始めて、七つの光へ行って、それから——


「葛西」

 八雲さんが、袖から手を離した。

「お前には、何が見えている」


 俺は、口を開けたまま止まった。

 八雲さんは続けた。

「そして、何が見えていない」


 用意してきた順番が、一瞬で崩れた。

 この人は、俺が今日ここに残ることを、たぶん知っていた。

 知っていて、待っていたのだ。


「……八雲さん、高架下のとき、俺に訊きましたよね。本当に独学なのか、って」

「訊いた」八雲さんは畳に正座した。「二か月、待っていたぞ」


  ※


 俺も正座して、話した。

 訊かれたのは見えているほうが先だったが、俺は順番を入れかえた。

 俺が見ているものは、見えなくなったものの跡地に建っているからだ。


 夏に頭を打ったこと。人の顔が、部品にばらけて見えること。目も鼻も口も全部あるのに、一枚の絵にならないこと。母の顔も、鏡の中の自分の顔も分からないこと。

 それから、代わりに見えるようになったもの。丸や四角の真ん中に灯る一点。三角形にだけ灯る七つ。人間にも同じ七つがあること。数学ではそれを五心と呼び、そのうち三つを結ぶ線をオイラー線と呼ぶこと。

 人によって、線の形が違うこと。母のは上が傾いでいて、病室で知り合った大工は背中で折れていて、数学科の友人は定規で引いたようで——

「俺のは」

「ほとんど、一点です」

 自分の声が、少し震えたのが分かった。

「内側の四つが、重なって見えます。並んでいるんじゃなくて、そこに一つだけ、静かに在る感じで……そういう人を、俺は八雲さんしか知りません」


 八雲さんは、しばらく何も言わなかった。

 窓の外で、商店街の遠いざわめきがしていた。三階からは、いつも通り、ベースの低い振動が床板を撫でていた。


「……あと、俺自身のは、分かりません」

「お前自身の」

「見えないんです。自分の胸にも、腕にも、何も灯らない。鏡に映しても駄目でした。写真も、動画も」

 言いながら、なんだか情けない告白をしている気分になり、俺は自分の膝を見た。

「人の三角形は全部見えるのに、自分の三角形がどんな形をしてるのかだけは分からないんです」

「そうか」

 八雲さんは、そこで初めて、少しだけ笑ったようだった。声の角が丸くなったので、そうと分かる。

「それは、皆そうだ」

 その言葉に、顔を上げた。

「自分の中心が見えんのは、お前だけじゃない。俺も見えん。宮下も、紺野も見えん。誰も、自分の真ん中は見えん」

 俺は返事をしなかった。返事の仕方が分からなかった。

「誰よりもよく見える人間が、自分のことになると見えん。万事において、そういうものだ」


  ※


「便利か」と八雲さんが訊いた。

「便利です」

「どのくらい」

「相手がどっちへ崩れるか、先に分かります。線が傾いだ方向に、体もいきます」

「なるほど」八雲さんは頷いた。「一工程多いな」

「一工程」

「見る。読む。決める。動く。四つある」

 俺は畳の目を見ていた。

「今日、五十本やったな」

「はい」

「五十本とも、四つやったろう」

「……やりました」

「お前の技が半拍遅いのは、腕のせいじゃない」


「じゃあ、どうすればいいんですか」

「いや今日は、そこまでだ」

「え」

「言葉で聞いて済むものではない。それだけ覚えておけばいい」

 八雲さんは立ち上がって、稽古着の膝を直した。

「葛西。興味深い目だ」

「……ありがとうございます」

「褒めたわけではない。もちろん、軽く扱うつもりもない。が、俺は羨ましいとは思わん」

「思わないんですか」

「思わん。俺のやってきたことには要らんものだ」

 あっさりしていた。この人は、こういうところで嘘をつかない。

「だが、お前には要る。腕や足の長さと同じことだ。誰もが自分に備わったものを磨く。それだけのことだ」

「……はい」

「戸締まりは俺がやる。先に上がれ」


  ※


 南の階段を降りて、玄関の重い引き戸を開けると、外に紺野さんが立っていた。

 もう三十分は前に帰ったはずの人である。

「まだいたの」

「はい。……紺野さんこそ」

「私は、まあ」紺野さんはそこを飛ばした。「あんた、投げる前に——」

 言いかけて、口を閉じた。

「……ううん。まあいいわ。師範代と話、したんでしょ」

「しました」

「ふうん」

 紺野さんはそれ以上訊かなかった。訊かない代わりに、会館の二階を一度だけ見上げた。窓に、まだ明かりがついていた。

 俺は挨拶をして、商店街のほうへ歩き出した。


  ※


 外はもう暗く、アーケードの明かりだけが、通りの上に細長く伸びていた。


 ふと、今日の稽古のことを思った。技を一つに絞ったのは、俺に何か気づかせるためだったのではないだろうか。

 まさか、と思い直した。どうも内省のし過ぎが、自意識過剰を呼んでいるらしい。


 歩きながら、俺は数えていた。

 権藤さん。理玖。八雲さん。

 三人になった。事故から五か月で、三人である。多いのか少ないのかは分からないが、渡してみると、渡す前に想像していたほど重い荷物ではなかった。権藤さんは笑いも疑いもしなかった。理玖は検証しようと言った。今日の人は、三十秒で欠陥を指摘した。

 三人とも、俺を信じたのだ。


 四人目のことを考えた。

 遠野美晴。

 だけど、だめだった。言える気がしなかった。


 理由は、頭のおかしい男だと思われるからではなかった。それなら今日で心配が済んでいる。

 言えば、こういうことになるのだ。

 俺は七月から一度も、あなたの顔を見ていません、と。学食で鯖を褒めた日も、着ぐるみの中身を当てた日も。人の目を見て話すよね、と言ってくれたあの日も。あの夜でさえ、俺はただ、顔のあるあたりに視線を置いていただけです、と。


 顔も知らないまま好きになった男だと、思われることになる。

 十一月の語学で、佐伯先生が垣間見(かいまみ)の話をした。千年のあいだ、日本の恋は顔を見ないところから始まっていたという話だ。あのとき隣で、この人は「なんかロマンチックだね」と言った。

 あれは、平安の話だから言えることだ。

 千年前の男には、いつか几帳(きちょう)の向こうの顔を見る日が来る。

 俺には、来ない。


 アーケードの丸い時計が、いつも通り、真ん中に一点を灯していた。

 俺はそれを見上げて、それから、たこ焼きの匂いのするほうへ歩いた。

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