五十本
十二月六日、土曜。
更衣室の窓が、内側から白く曇っていた。
道着に着替えて板の間に出ると、先月はまだ冷やっこいくらいだったのが、もはや足の裏が痛いほど冷たい。
出席簿に丸をつけ、青い畳に上がった。
ここの畳の青さは、ちょっとよそではお目にかかれないほどだ。畳で足の冷たさはいくらかましになったが、今度は目がひんやりする。
「今日は、技を一つだけやる」
柔軟が終わったところで、八雲さんが言った。
「片手取り四方投げ。互いに五十本ずつ。以上だ」
「五十本!」と宮下先輩がひとりで喜んだ。この人は数が多いと喜ぶ。
「宮下先輩。声が大きいです。鼓膜に悪いです」と紺野さん。見学に来た日に聞いたのと、同じだった。
※
組んだ相手は来栖さんだった。二年、文学部。こちらが困っていると、すぐ気づいてくれる人だ。
手首を取った瞬間、来栖さんの三角形が、ほんのわずか右へ傾ぐ。重心は右足の真上へ寄り、左後ろの傍心が、畳すれすれまで沈む。
そこだ。そこへ導けば、この人は自分の重さで回る。
答えを見つけるのに、〇・二秒もかかっていないと思う。
そこから先が、いつも通りだった。答えが出てから、体が動きはじめるまでに、畳一枚ぶんの間が空く。来栖さんは律儀に受けを取ってくれたが、あれは投げられたのではない。転んでくれたのだ。
二本目。同じ答え。同じ遅れ。
三本目。同じ答え。同じ遅れ。
十本を過ぎたあたりで、俺は妙なことに気づいた。
退屈なのである。
いや、俺なりに必死ではある。
だが一本目に見つけた答えと、十一本目に見つけた答えが、まったく同じだ。俺の目にとって、二本目以降は、一度読んだページをもう一度めくるようなものだった。それでいて、うまく決まらない。
他の人たちは退屈そうにしていない。紺野さんは十五本目でも一本目と同じ顔で組んでいるし、宮下先輩にいたっては、本数が増えるほど機嫌がよくなっていく。
この人たちは、俺と違うページを読んでいるらしかった。
来栖さんは、十本ごとに髪を結び直していた。受け身を取ると、どうしてもほどけてくるらしい。ゴムを口にくわえ、両手でうしろにまとめ、くるくるとひねって留める。
「葛西くん、毎回ちゃんと分かってるよね」二十本を過ぎたころ、来栖さんが髪をまとめながら言った。「入るとこ。合ってるよ、いつも」
褒められたのだと思う。俺は礼を言った。
だが来栖さんは、そのあと少し考えてから、続けた。
「合ってるのに、なんでちょっと待っちゃうんだろうね」
俺は答えられなかった。
※
三十本を越えたころ、道場の音が一つ変わった。
矢野と組んでいる袴田さんの、受け身の音である。
それまでは、ばた、たん、と、二拍に割れて鳴っていた。それが、どん、と、一拍で鳴りはじめた。
受け身の音は、投げられた側の音だ。だが、それがいい音になるかは、半分は投げた側で決まる。
技がきれいに通れば、受けは崩された勢いのまま回るだけで済むから、体が一枚で畳に着く。技が半端だと、受けは途中から自分で受け身を作り直すことになり、音が割れる。
二か月、俺はずっと投げられる側にいたから、その区別だけは、耳でつくようになっていた。
もっとも、半分は受けた側で決まるということでもある。もともと袴田さんは受け身の音が部でいちばん悪い人だから、袴田さんのほうが上手くなった可能性だって当然ある。
どちらがより正解に近いかは、見れば分かる。
俺は自分の手を止めないまま、そっちを見た。
矢野の三角形は、入部の日と同じ形をしていた。変わったのは、動き方だ。
半歩の出と、手首の返しと、崩しと。それまで三つに分かれていたものが、一本の中でつながっている。どこからが次なのかが、見ていて分からない。他と比べて上手いわけではない。上手くはないのだが、途中で一度も止まらなくなっていた。
矢野は、四十本目の上に四十一本目を積んでいた。
俺は、四十一本目でも、また一本目から探していた。
※
休憩は、小田島さんの薬缶。冬は、ほうじ茶らしい。
「矢野くん。今、何本目ですか」
十月からのやりとりの末に、俺たちはこの形に落ち着いていた。互いに「くん」で呼んで、互いにですます調で話す。
矢野は湯呑みを両手で持ったまま、少し考えた。「……数えてないです」
「数えてない」
「はい。数えてないですね」
俺は横断歩道の白線まで数える男である。返事に困った。
「矢野くんって、稽古、休んだことないでしょう?」
「ないです。四月から一回も」
「なんでですか」
矢野は湯呑みの縁を親指でなぞってから、言った。
「休むと、次に来るのが億劫になるので」
「それだけですか」
「それだけです」
少し意外だった。もっと何かあるものと思っていた。強くなりたいとか、続けると決めたとか。
そういうのではなかった。来るのが面倒になるのがいやで、それで八か月ここに立っている。
立派なのか、そうでもないのか、俺はちょっと判断に困った。
※
稽古の終わりに、俺は小田島さんのところへ行った。
「小田島さん。一本、お願いできますか」
小田島さんが湯呑みを置くより先に、横から声が来た。
「まだでしょ」
紺野さんだった。
「五十本目が、一本目と同じだったよ。あんた」
目付の眼力はすさまじい。今日も見られていたのだ。
小田島さんは、のんびり湯呑みを取り直し、うんうんと頷いた。
「じゃあ、五十本目が一本目と違うようになったらだけども、一本付き合おうかね」
「はい。そのときは、お願いします」俺はなんとか前向きな返事をした。
着替えながら、俺は今日の五十本を思い返していた。
同じ形の一本が、五十個。積み上がってはいる。積み上がってはいるはずだが、いちばん下といちばん上が、寸分たがわず同じ形をしていた。




