六十ヘルツの夜
十一月二十九日、土曜。
美晴は次のたこ焼きを口に入れ、熱そうに転がしながら言った。
「今日さ、ライブやるんだよね」
「ライブ」
「うん。音研の合同ライブ。駅の反対側の、小さいとこ」
「へえ。俺も聴きに行っていい?」
「えっ、来てくれるの?」
美晴の肩のそばの光が、ぴょこりと跳ねた。そして〇・五秒後に笑った。
「言ってみただけなのに、意外」
「意外かな」と俺は訊ねた。
「うん」と美晴は言った。
確かにそうかもしれない。近ごろ、返事までの工程が飛んでいる気がする。
「バンド、なんて名前?」
「トライアングル」
「へえ」
俺は、それ以上は言わなかった。言うと長くなる。
理玖にも、時間と場所を送ってみた。
『今夜、遠野さんのライブ。来る?』
返事は一通だった。
『開演には間に合わん』
忙しいらしかった。
※
ライブハウスは、雑居ビルの地下にあった。
細い階段を下りると、突き当たりに小さな受付がある。そこで「お目当ては?」と訊かれた。
「トライアングルの遠野美晴」
受付の人が予約表を指で追った。すでに、葛西、と書いてあるのが読めた。
チケット代とは別にドリンク代を払い、丸い引換札と、出演順を刷った紙を受け取った。引換札は、カウンターでジンジャーエールのコップに変わった。
トライアングルは三番目、つまり最後だった。
出演順のいちばん下には、こう刷られていた。
Try & Groove。
トライアングル。
なるほど。
重い防音扉の向こうは暗かった。天井も壁も床も黒い。光っているのは、ステージの照明と、非常口の緑。それから、人々の身体に重なる三角形と、その内外に灯る七つの点だった。
客は三十人か四十人くらい。多いのか少ないのか分からないが、俺の視界はたいへん賑やかだった。四十人いれば、点だけで二百八十個である。
二組目が終わると、白っぽい明かりがつき、スピーカーから別の音楽が流れ始めた。
黒い服のスタッフがマイクスタンドを動かし、床のケーブルをつなぎ直す。
多分、ドラムセットのスネアとシンバルを替えているのがナっちゃん、足元に小さな機械を並べているのがケイさんである。
美晴はベースをアンプにつないで、一度だけ、低い音を鳴らした。
音はすぐ止まったのに、腹の中には少し残った。
三人が配置についた。
トライアングル。
なるほど。
ドラム、ギター、ベース。七つずつの光が三人ぶん。二十一個。
その中の見慣れた七つを、俺の目は追った。
一曲目は、速い曲だった。
ケイさんのギターと声が前を走り、ナっちゃんのドラムが、その背中を勢いよく押す。美晴のベースは二つのあいだを縫って、ばらばらになりそうな音を一つの場所につないでいた。美晴の弦が低く鳴りやんだとき、そこで初めて、曲が終わった気がした。
二曲目は、跳ねる曲だった。
最初の重い音を、軽い音が追いかける。客席の何人かが膝で拍を取り始めた。
トライ・アンド・グルーヴ……なるほどは、これで三つになった。
美晴の三角形が、いつもとどこか違う。
若枝のようにはしなっている。だが今夜は、一本のオイラー線が、その中をぶれずに通っていた。
人前に立つ美晴を、俺は初めて見た。
三曲目は、美晴が歌った。
ベースを弾きながら、マイクに顔を寄せる。
最初の数小節で、知っている曲だ、と思った。
詳しくはないけど、次にどう動くかは分かる。そういう種類の。
俺の聞いたことがあるそれは、ピアノで始まっていたと思う。
階段をゆっくり下りていくような旋律を、男の人が歌う。
背中をさするような声。
今夜のは違った。
ギターとベースとドラムだけ。
ピアノがいたはずの場所をケイさんのギターが引き受け、その前へ、美晴の声がまっすぐ出ていく。
教室のいちばん後ろまで届く、あの声だ。
背中をさする歌ではなかった。手を取って、立たせる歌になっていた。
間奏で、美晴がドラムのほうを向いた。
肩のそばの光が、ぴょこりと跳ねた。
客席から見えるのは、背中だけだった。
いま美晴が笑ったことを、この客席で、俺だけが知っている。
曲が終わると、拍手のなかに声が混ざった。
「美晴ちゃーん! かわいい!」女の子の声だった。
少し離れたところで、男の声が「美晴!」と言った。ほかにも二つ三つ、同じようなのが飛んだ。俺は嬉しいような、少し落ち着かないような気がした。
美晴は客席に手を振った。
今夜が、いいステージだったことは、俺にも分かった。
※
最後の音が消えると、ステージの照明も落ちた。
三人が拍手のなかで頭を下げた。暗がりへ退く三人を、俺も拍手で見送った。
ほどなく場内の音楽が戻り、天井の白い明かりがついた。
客が動く。出口への流れに乗っていると、後ろから肩を叩かれた。
そこに定規で引いたような縦一列が立っていた。
「理玖、来てたのか」
「最後の一曲だけ聞けた」と理玖は言った。
「間に合わんって書いてたから、来れないと思ってた」
「開演には間に合わなかった。矛盾はない」
二人で階段を上がり、人の流れから外れたところで待った。
しばらくして、機材を抱えた三人が階段を上がってきた。
ナっちゃんとケイさんは、そのまま少し先に停めた車へ向かった。美晴はベースケースを壁に立てかけ「葛西くん」と、こちらへ来た。
理玖に挨拶した。
「遠野美晴です。さっきベース弾いてました」
「南理玖です。葛西の友人です」
「あ、数学の」
「そう。数学科です。いい演奏だった」と理玖は言った。
「ありがとう」美晴は言った。
「遠野さん、かっこよかったよ」
俺もそう言った。
「低い音って、耳じゃなくて腹に来るんだな」
「来る」と理玖が即答した。
「人間は低い音を、耳だけで聞いていない。四十から六十ヘルツあたりは、音圧があれば、胸や腹にも振動として届く。だから低音は、意味を通らずに感情へ届く」
美晴の三角形が、一瞬、すっと伸びた。
「それ、分かります。ベースって、みんなあんまり聴いてないんですけど、止めると分かるんです」
「聴かれていないだけで、受けてはいる」
「そう。そうなんですよ」
理玖は、よい質問をされた先生のようにうなずいた。
「低音域の残響については、教会建築にも面白い例がある。石造の教会では、低音ほど長く残ることがある。それは説教を聞き取るには明白に不利であるにも関わらず、長きにわたって——」
「美晴、精算!」
階段の下からナっちゃんの声がした。
「あ、ごめんなさい。ちょっと戻ります」
美晴は理玖の講義から、ちょうどよく逃げていった。
「逃げられたぞ」
「片づけだろう」
「半分は」
「そうかもしれん」
理玖は否定しなかった。
「お前は待つんだろう」
「うん」
「じゃあ、俺は帰る」
「もう帰るのか」
「ああ。明日が早いんだ。お前はあの子を見送ってやれ」
理玖は片手を上げ、駅のほうへ歩いていった。
俺は壁に立てかけられたベースケースの番をしながら待った。
客が一人ずつ階段を上がり、機材が一つずつ運び出される。
最後に美晴が上がってきて、ケースを背負った。
※
商店街のほうへ、二人で歩いた。
土曜の夜で、店はもう半分閉まっている。
「三曲目、よかったよ」と俺は言った。
「ほんと?」
「うん。遠野さん、声がよく通るから、ボーカルやればいいのに」
「ううん。ボーカルは絶対ケイさん」
彼女は即答した。「私、声は通る方だけど、あの人、表現力すごいもん」
「そういうものか」
「そういうもの」
一曲目のギターがどうとか、二曲目でナっちゃんが走ったとか、そういう話をしばらくした。俺は演奏のことがよく分からないので、聞いている時間のほうが長かった。
「三曲目、遠野さんの歌ったのは、聴いたことあったよ」
「それはみんなあるよ」と彼女は笑った。「あの曲は、誰でも知ってるやつだから」
「俺、音楽うとくて」
「どうやって過ごしてたの、今まで」
「うーん」
本当に、何をして過ごしていたのだろう。思い出せなかった。
「あの曲ね」
美晴は、少し歩いてから言った。
「対訳読むと、傷ついた人たちが分かり合えば、いつか答えは見えてくる、みたいなところがあるんだけどね」
「いい曲だな」
「うん。でも本当はね、私はあの歌、たった一人に話しかけてる歌だと思ってる」
「そうなのか」
「すごくさみしい人に、それでも、世界と折り合っていきなさいって」
それは、誰のことだろう。
しばらく、どちらも喋らなかった。
時々、車が通る道だ。
でも、その音が長く途切れて、俺たちの足音だけになっていた。
間をもたせるみたいに、美晴が鼻歌を始めた。
さっきの曲だった。足音に合わせたハミング。
少し行ったところで、彼女が立ち止まった。
「ここからが、さっき言ってたところ」
街灯の下で、くるりとこっちを振り返った。
十一月の夜だった。
白い息が、明かりのなかで、もやのように立ち上って消えた。
上着のジッパーの金属が街灯を拾って、美晴の三角形のそばで、小さく瞬いていた。
俺にしか見えない光と、誰にでも見える光が、同じところで光っていた。
美晴は、白い息を見送りながら、いくつかのフレーズを歌った。
声は、ライブのときよりずっと小さい。
ささやくような歌い方だった。夜道だからか、しばらく歩いてきたあとのせいか、少し掠れて、揺れていた。
背中をさするのでも、手を取って立たせるのでもない。
ただ、同じ場所にしゃがんでいるような歌。
そのとき、美晴は、俺にとって光ではなく、歌になっていた。
俺は一度も、美晴の光を確かめなかった。
そのことに気づいたのは、最後の息のかたまりが闇に溶けていったときだ。
あたりの静けさが急に戻り、同時に、美晴の七つの光にも気づいた。
「……聞こえた?」美晴は、また歩き出した。
「聞こえた」
俺も歩きだして言った。
「一人に話しかけてる歌だな」
「うん」
「俺、そんなに一人みたい?」
「少し。前よりは、そうでもないけど」
「遠野さん」
「なに」
「三曲目の間奏で、どうして笑ってたの。ドラムのほう向いて」
美晴のしなる枝が、一瞬、止まった。
白い息が、ため息のような笑いの中にほどけた。
「客席からは分からないと思ったのに、なんで分かっちゃうのかなあ」
「遠野さんが、俺には分かりやすいんだよ」
「三十メートル先でも?」
「うん」
「着ぐるみを着てても?」
「うん」
「ステージで後ろを向いてても?」
「そう」
「ずるいよ」
「それ、前にも言われた」
「だって、前よりずるい」
それからしばらくして、美晴は言った。
「小節、まるまるひとつ飛ばしちゃったの。内緒なんだからね」
肩のそばの光がぴょこんと跳ねた。
夜道に、小さな内緒がひとつ増えた。
※
その夜、人名鑑を開いた。
遠野美晴のページの、いちばん最初の行には、九月からこう書いてある。
「よく通る声」
その下に、一行足した。
「同じ曲、ちがう歌。さみしい人のために、少しかすれた声で歌う」
——ずるいよ。
そうかもしれない。
だけど、遠野美晴を見つけられるところにいたい。俺だけは。




