第13話 噂の令嬢
「噂を消すために、別の噂を立たせる」
—— 別の噂
殿下とのお茶会から、一週間が経った。
その一週間の間に、お嬢様からひとつのことを命じられた。
それは一枚のハンカチを用意すること。
上等なものを選び、しかし、お嬢様と分かる紋は入れないこと。
「……あの、紋を入れないのですか」
「入れたら、わたくしのものになりますでしょう」
お嬢様の考えていることが、自分は理解できないが、命令なので従うしかない。
自分は御用商人のところへ行き、上等な品を三枚ほど見せてもらった。
一枚目は、公爵家の令嬢が持つには少し地味なもの。
二枚目は、子爵家の令嬢が持つには明らかに過ぎたもの。
そして三枚目は、伯爵家の令嬢が持つのにちょうど良いもの。
選ぶ基準は、お嬢様が仰らなかった。
だから自分で考え、三枚目を選んだ。
……この選び方で合っているんだろうか。
屋敷に戻ると、選んできたハンカチをお嬢様へとお渡しした。
「……こちらをお選びいたしました」
お嬢様はそのハンカチを手に取られると、広げて、光に透かして、それから指の腹で縁をなぞられた。
……何かおっしゃってください。
結局、何も言われないまま、ハンカチを自分に返された。
「持っていてちょうだい」
「かしこまりました」
良いとも悪いとも言われない。
ただ、持っているとしか言われない。
……本当にこのハンカチでよかったのだろうか。
---
自分がそんなことをしている間にも、学園では噂が広がっていっていた。
従者寮だけではなく、控室でも殿下と御令嬢の話が出るようになった。
それは令息や令嬢の会話の中にも出るようになっていた。
噂の種類はいくつもあった。
しかし、どの噂でも共通している一点があった。
それは殿下がお名前で呼ばれた、というその一点。
その一点がどこでも繰り返されていた。
そして、皆の視線はアリシア様に注がれるようになっていた。
自分の視線も皆に誘導されているかのように、自然とアリシア様の動向を追ってしまっていた。
視線の先のアリシア様はいつもと変わらない様子で過ごしておられた。
この視線のむしろの中で変わらないでいることがいちばん難しいはずなのだが。
……お嬢様、放っておかれるんですか?
そんな噂の広がりやアリシア様の状況をお嬢様に報告すると、お嬢様は満足した笑顔を浮かべられた。
「そう。では、そろそろはじめましてよ」
---
その日、お嬢様は学園の中庭を歩いておられた。
自分はその後ろについていた。
手には紙に包んだハンカチがある。
前方から一年生の一団が歩いてきた。
その中にはアリシア様がいた。
そう、この時間にアリシア様が中庭を移動されることは、自分からお嬢様に報告していた。
お嬢様はその一団に気づくそぶりすら、なさらなかった。
歩く速さも、視線も変えない。
探して見つけたという素振りが一切ない。
……通りかかっただけ、という形にされるんですね。
そして、お嬢様とその一団がすれ違うその瞬間、お嬢様が足を止められた。
「そこの令嬢」
その一言に一団の足が止まり、そして周りの空気が固まった。
公爵令嬢が一年生の列に向かって声をかけている。
しかも名を呼ばずに。
だが、その視線が誰に向いているかは、その場の全員に分かっていた。
「はい」
アリシア様が自ら一歩前に出られた。
名を呼ばれていないのに、しかし、呼ばれた者として。
「殿下にお名前で呼ばれた程度で、ずいぶんと調子に乗っているようね」
周りから小さく息を吸う音がいくつも聞こえた。
「そんなつもりは」
「あるかないかは、あなたが決めることではありませんわ。周りがそう見ているのなら、そうなのです」
アリシア様は何も言い返されなかった。
言い返さずに目を伏せられた。
周りの一年生たちが一歩引いた。
アリシア様を庇う者はいなかった。
「ところで」
お嬢様が続けられた。
「殿下に拾っていただいたというハンカチは、お持ち?」
その言い方に自分は内心で息を止めた。
……噂どおりの言い方をされるんですね。
きっとわざとである。
お嬢様は、拾ったのは従者であることを知っている。
だが、その真実を伝えることをせず、あえて噂の言葉を使う。
噂を否定するのではなく、肯定することで、自らの言葉に違和感を感じさせないようにしている。
「……はい」
アリシア様が袂からハンカチを取り出された。
「……こちらです」
そのハンカチをお嬢様に差し出された。
お嬢様はそのハンカチに手を伸ばされた。
その手がハンカチに届いたとき、指先がわずかに逸らされた。
そして、そのハンカチが、二人の間に、落ちた。
「あら」
お嬢様はそのハンカチが落ちたのを確認されると、一歩前に進まれた。
そして、落ちたそのハンカチを、踏みつけた。
「ふふふ、ごめんなさいね」
お嬢様は足をどけられた。
そのハンカチには、お嬢様の足の跡がくっきりと刻まれていた。
周りの誰もがいま行ったことを理解できないでいた。
そして静寂が世界を支配した。
しかし、その静寂すらお嬢様が破壊された。
「レイヴ」
「はい」
自分は紙包みをお嬢様へ渡した。
お嬢様はその包みの中からハンカチを取り出された。
「代わりに、こちらを差し上げるわ」
差し出されたそれをアリシア様は両手で受け取られた。
「……ありがとう……ございます」
受け取ったままアリシア様は動かれなかった。
再び静寂が世界を支配した。
いま、この場にいるものは、この出来事を二回の静寂とともに脳裏へ強く刻んだことだろう。
公爵令嬢が踏みつけたのは、殿下に拾っていただいたという子爵令嬢のハンカチ。
代わりに子爵令嬢へ下げ渡されたのは、公爵令嬢のハンカチ。
言葉ではひとつも説明していない。
それでもこの場の全員が同じことを理解した。
この令嬢は公爵令嬢に目をつけられたと。
お嬢様はまわりの反応に満足されていた。
「それでは、ごきげんよう」
歩き出されたお嬢様の後ろに、自分はついていった。
背後でざわめきが広がり始めるのが聞こえた。
このざわめきが、明日の話題に、新しい噂になる。
---
翌日の夕方、自分は従者寮へと向かった。
何もない日にも顔を出していたので、今日、顔を出しても不自然にはならない。
従者寮に入ってすぐに分かった。
話題が変わっていた。
「あの一年生の子爵令嬢の方、公爵令嬢に呼び止められたんですって」
「名前も呼ばれなかったとか」
「ハンカチを踏まれたと聞きましたけれど」
誰も殿下が御令嬢の名前を呼んだことを話していなかった。
……入れ替わっている。
「それで、代わりのハンカチをいただいたそうよ」
「いただいたというより、押しつけられたのでは?」
「しかも、そのハンカチ、紋が入れられていなかったらしいですわ」
「ということは、目をつけられた、その証ということでしょうか」
「もしもそうであれば、おかわいそうなことに」
「ええ、本当に。あの方の最近のお噂は、酷いものばかりですから」
噂は入れ替わった。
だが、かわりにまたひとつお嬢様の悪評が積もっていった。
---
その晩、報告を申し上げた。
聞いたことだけを申し上げる。
どう思ったかは訊かれていない。
「噂は入れ替わっておりました」
「そう」
お嬢様は書きものの手を止められなかった。
「お嬢様に目をつけられておかわいそうだと」
そこで手が止まった。
止まったのは一瞬ですぐに動き出した。
「そうでしょうね」
それだけだった。
驚かれてもいないし、困っておられるようにも見えない。
……お覚悟されていたのですね。
承知のうえでやっておられる。
噂を消すために、別の噂を立たせる。
どちらの噂の方が、アリシア様にとって都合がいいのか、自分には分からない。
ただ、これがお嬢様にとっての正解だとは、自分は思うことができなかった。
「レイヴ」
「はい」
「あのハンカチ、よく選びましたわね」
初めて、選んだことに触れられた。
「……恐れ入ります」
褒められたのだと思う。
だが、嬉しさが少しも湧いてこなかった。
……まだ続けられるのですか。
訊かなかった。
いや訊けなかった。
きっとお嬢様はお答えにはなってくださらないから。
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