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六影相剋――記憶喪失の剣士は、六大勢力の争いの中で世界の歪みと向き合う  作者: いぬぬっこ
第一章 影走

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第四話 壊されずに壊れるもの 後半

街道から少し外れたところで、風がふっと変わった。


赤霄原の、乾いた刃みたいな冷えではない。鼻に入ってくるのは土の匂いで、石の粉の匂いがそこに混じり、さらにその奥に、わずかな湿りがある。汗の湿りではなく、水が染みた土の湿りだ。


草が育つ匂いがした。青くて、少し苦い。水が近い匂いもする。川ほど大きくはないが、溜まり水や井戸の水がある場所の匂いだ。――人がここで暮らしている匂いだった。


白黎は歩きながら、足裏で地面の硬さを確かめた。小石が増え、踏むたびに音が乾いて返る。けれど、その音が不自然に目立たない。周りの音が、先に削られている。


「……静かだな」


燕秋が、吐く息だけを落とした。独り言みたいな声なのに、白黎の背骨の奥へ落ちる言い方だった。


白黎は頷く代わりに、首だけ少し傾けた。静かというより、静かにさせられている。遠くに水がある気配が張っている。水桶を運ぶ音、井戸綱(いどづな)を引く音、子どもの声。そういう「暮らしの音」が、あるはずなのに前に出てこない。


――井戸のある村だ。井戸があるのに、音がない。


集落(しゅうらく)は低い丘の陰にあった。風を避けるために寄り添うように建っている。石と土を積み上げただけの家屋は、どれも壁の色が揃わず、補修の跡が何層にも重なっていた。割れたところを土で埋め、板を当て、縄で締めてまた上から塗る。壊れたものを何度も直して生きてきた形だ。


賑わいはない。だけど、完全な廃村でもない。


人はいる。井戸の周りに、十人ほどが固まっていた。桶を持ったまま動かない者、縄を握ったまま離せない者、腕を抱えて肩を縮める者。誰も背を向けない。背中を見せる瞬間が怖いからだ。互いの距離を詰めすぎているのも、助け合いではなく、離れたくないからだ。


視線だけが、村の入口へ戻っていく。入口へ、入口へと。

来るのを待っている目だ。待ちたくないのに、待ってしまっている目だ。


白黎は足を止め、まず地面を見た。


踏み荒らされた足跡がある。乾いた土の上に、同じ方向へ何度も踏み直された跡。逃げた足跡と、追った足跡が混じるときの乱れ方ではない。逃げるのをやめた足跡の乱れだ。


その足跡の脇に、薄く擦れたような痕があった。土の上を何かが引きずられたのではなく、空気が擦れたみたいに表面だけが荒れている。白黎はそこに指先を落として、土の粉を少しだけすくった。


――気が通った痕だ。武の内から押し出された痕だ。


血は少ない。だけど、家屋の柱に残る歪みが目に入る。柱の木目が、外から叩いて割れた形ではなく、内側から押し広げられて裂けている。釘が一本、外へ飛び出したままになっている。

叩き壊したのではない。柱の内を通る力で、形を捻じ曲げられた。


白黎は柱の歪みを見たまま、小さく息を吐いた。見ただけで分かる。恐怖で壊れたのではない。壊して、見せられた。


燕秋が声を落とす。


「……押さえ込まれてるね。村そのものが」


白黎は返さず、柱の裂け目に視線を留めた。言葉にすれば輪郭がはっきりしすぎて、胸の奥が冷える。今は、冷えを増やしたくなかった。


燕秋が、歯の奥で言う。


「見せつけだ。……逆らうとこうなるって、形で覚えさせるやつ」


井戸のそばの男が、恐る恐る近づいてきた。足を引きずるほどではないが、腕を押さえている。腫れはある。けれど骨の線は崩れていない。


白黎は男の腕を見るだけ見て、短く言った。


「骨は、無事です。腫れは出てるけど、折れてない」


男が驚いたように目を上げ、力なく頷いた。


「……触れられただけで、力が抜けた。肩を押されて、膝が勝手に落ちた」


「逆らえなかった。痛いとかじゃない。……身体が、言うことを聞かなくなった」


燕秋が息を吐く。昨夜の聞く合図とは違う、冷えた吐息だった。


「……玄影(げんえい)の手だな」


その名に、村人たちの肩がわずかに跳ねた。跳ねて、すぐ抑える。音を立てない癖が身体に染みついている。泣くのも、叫ぶのも、先に殺される村の癖だ。


そのとき、集落の入口から足音が聞こえた。


急がない。乱れない。三人分。砂利を踏むはずなのに、砂利の音がほとんどしない。足の置き方が静かで、重心がぶれない。歩き方だけで分かる。慣れている歩き方だ。


白黎の胸が、わずかに鳴る。怖さではない。

「動くべき場所」が、先に決まっていく感覚。身体が勝手に段取りを作り、最短の距離と角度を測り始める。


白黎の指が無意識に鎖骨の下へ寄りかけて、止まる。まだだ。燕秋が聞く準備を示していない。今それをやると、白黎は聞いてもらうのではなく、切り替えてしまう。


燕秋は半歩だけ前に出た。白黎の半歩前。

押し返さない距離で、壁になる位置。


守るでも、押し出すでもない。越えさせない立ち方だ。


足音が止まる。


間が落ちる。誰も、口を開かない。

井戸の綱がきしむ音さえ、止んでいた。


先頭の影が、一歩だけ前に出た。布が擦れる音が、ひどく小さい。

男が顔を覆っていた布を外す。


日に焼けた肌。無精だが整った髭。目は鋭く、濁っていない。

憎しみで燃える目ではない。怒りで熱くなる目でもない。削って、削って、残った目だ。


空気が、わずかに沈む。


力を誇示する気配はない。呼吸も動きも静かで、必要なぶんだけ整っている。

――必要なだけ奪うために。


男が低く言った。


「まだ、片付いていないようだな」


声は低い。荒れていない。

けれど、その落ち着きが、場の空気だけをざらつかせる。

怒鳴らないのは余裕ではなく、怒鳴る必要がないからだ。


燕秋が一歩だけ踏み出す。白黎の前に立つ位置は変えない。


「戻ってきた理由は?」


男は集落を一瞥した。家。井戸。寄り合う村人。

視線はそこで止まらず、折れた柱、腫れた腕、閉じられた戸へと、ゆっくり順に滑っていく。情を測る目ではない。「足りているか」を測る目だった。


「確認だ」


低い声が落ちる。


「奪った分に、漏れがないか」


その言葉だけで、井戸の周りの肩がさらに縮む。誰も答えない。答えられない。何を奪われたかを口にした瞬間、それが次の確認になるのを身体が知っている。


燕秋が淡く挟んだ。


「銀のことか」


男は目を細める。否定も肯定もせず、答えだけを置く。


「銀は分かりやすい。銅銭や銀子(ぎんす)――金品は数えられる。(はかり)に乗る」


村人の一人が、反射みたいに懐を押さえた。


だが男は、そこで終わらせない。視線が井戸の縁へ移る。


「だが、俺たちが数えるのは銀だけじゃない」


男の視線が、井戸の縁から村人の口元へ移る。


「恐怖だ」


空気が重く沈む。井戸綱を握る手が白くなる。子どもが口を開きかけ、母親が慌ててその口を押さえた。押さえた指先が震えているのに、声は出ない。


男はそれを見て、頷きもしない。ただ足りているのを確認するだけだった。


「声を出さないこと。背を向けないこと。次に来るまで、静かにしていること」


「それが崩れていないか、見に来た」


白黎の胸が、わずかに鳴った。


理屈が分かる。

殺して終わりじゃない。生かして、覚えさせる。覚えた恐怖を村に置いて、村を自分で静かにさせる。――長く効くやり方だ。


男が、そこで白黎を見る。


「……分かる顔だな」


白黎は目を逸らさない。逸らした瞬間、村人と同じ場所へ落ちる気がした。


「何が」


「奪う理屈が」


男は一歩、距離を詰めた。触れない。だが、逃げないと触れる距離だ。

怒りはない。昂りもない。必要と判断したことを必要なだけ行う静けさだけがある。


「銀を取るのは手段だ。恐怖を残すのが本体だ」


「奪えば止まる。殺せば静まる。残った者は、生きて覚える」


言葉は刃みたいに荒れていない。むしろ研がれた道具みたいに無駄がなかった。


白黎の喉が、かすかに鳴る。言葉が喉まで来る。

それを口にすれば、確信に名前が付く。名前が付けば迷いが消えて、刃だけが残る。


「名を聞く顔だな」


男が、さらに半歩だけ寄る。


「名を……聞けば、何が変わる」


男は少し間を置いて、答えた。


「変わらん」


言い切りだった。怒鳴りもしないのに、戻り道だけが塞がる言い方だ。


「ただ、今から何が起きても――『誰のやり方か』は分かるようになる」


男は布を畳み、指先で端を揃えた。

乱さない。音も立てない。


鴉梁(あらはし)


名が、静かに落ちる。


「玄影の名で、動いている」


その声は誇りでも威圧でもない。ただ事実を置くだけの響きだった。

白黎の中で、さっきまでの推測が型になって固まる。


玄影が来た、ではない。

玄影のやり方が来た――その重さが、地面へ沈んだ。


村人の呼吸が、さらに浅くなる。

井戸の綱を握る指が白くなり、誰も視線を上げない。名を聞いただけで、何をされるのかが分かる。それだけの積み重ねが、この名にはあった。


鴉梁は白黎と燕秋を交互に見た。敵意も興味も薄い。ただ境目を測る目だった。越える価値があるか、越える必要があるか――そこだけを測っている。


燕秋が表情を変えずに言う。


「必要以上に、やってる」


鴉梁は否定しない。否定しないまま言い切る。


「示さなきゃ、次がある」


「殺さなきゃ、生きて覚える」


淡々とした口調だった。言い訳の熱も、誇る気配もない。そういう仕組みだと述べるだけの声だ。


白黎は、言葉を選ぶために小さく間を取った。取らないと、追ってしまう。


「……奪って、終わりですか」


「奪われた人間が、何を失っても」


鴉梁は白黎を見る。値踏みではない。向き合う目だ。

怒りでも憐れみでもなく、境目を引く目だった。


「終わる。――終わることに、変わりはない」


声は低い。荒れていない。

なのに、胸の内側が落ち着かない。息が一つ、浅くなる。


「銀を取られた。腕を折られかけた。……声を押し殺す癖まで残った」


「それでも、俺たちにとってはここで終わりだ」


鴉梁の視線が村へ滑る。井戸、閉じた戸、縮んだ肩。

村人を数えない。ただ、静かさだけを確かめる。


「ここは、もう用がない」


少しの間。息が整っている。整いすぎている。


「奪われた側が、どう生きるかは――俺たちの仕事じゃない」


その言い切りに、逃げ道はない。

そして白黎の中で、分かるが形になりかける。形になれば、手が先に出る。


白黎の喉が動いた。


「……分か――」


その瞬間、燕秋が半歩だけ前へ出た。ほんのわずかな動きなのに、白黎の視界の中央へ燕秋の肩が入る。壁になる位置だ。越えさせない立ち方。


「そこで終わらせるな」


低い声だった。叱責ではない。止める声だ。


白黎の言葉が、喉で止まる。


鴉梁はそのやり取りを見て、わずかに口角を動かした。


「止めるか」


燕秋は視線を外さず、息だけ落として言った。


「言葉の続きは、ここじゃない」


そのまま、白黎の前に立つ。越えさせない位置で。


鴉梁が短く言った。


「……まだ踏み越えないか」


軽い賞賛じゃない。壊れる前に止められる位置にいることへの評価だった。


鴉梁は息を一つ、静かに吐いて言った。


「踏み越えさせるのは、簡単なんだがな」


鴉梁は白黎へ視線を戻す。


「選ばないつもりでも、選ばされる時は来る」


ゆっくりと言う。


「奪う側に立つか、奪われる側に立つか」

「それとも、どちらでもないふりをして削れるか」


白黎の胸の奥が、冷えたままきしむ。


鴉梁は踵を返す。部下も迷いなく続く。

三人の歩調は最後まで揃っていた。揃っているのが、恐ろしい。


足音が遠ざかり、完全に消える。

村が、ようやく息をした。


白黎は、その方向を見つめたまま、動かなかった。


追える、と分かっている。追いつける、と身体が言っている。

追えば、迷わず斬れる。迷いの前に、手が動く。

その確信が、胸の奥に冷たく沈んでいる。


――斬ったあと、何が起きる。


その問いだけが、遅れて浮かんだ。


奪う理は理解できる。理解できてしまう自分が怖い。

呼吸が浅くなる。吸っているのに入ってこない。吐いているのに、出きられない。


言葉は喉まで来て、止まる。


井戸のそばで、桶が倒れた。

水が土に染み込み、誰も拾おうとしない。


拾えば音が立つ。音が立てば、どちらも戻ってくる。

身体が先に知っている。だから誰も動けない。


家々の戸は閉じられたままだ。怪我をした者がいるのに、灯りは早く落ちる。

何事もなかったふりで夜をやり過ごす。――この村の身の守り方だ。


白黎は歪んだ柱に手を触れた。


力を通された痕は、もう冷えている。木の温度が戻り始めている。

冷えているのに、内側だけがまだ痛い。自分の中のどこかが、それに反応している。


燕秋が白黎の横で息を吐いた。短い吐息。——聞く合図だ。


白黎は鎖骨の下へ手を置く。合図。

今なら、言葉が刺さっても受け止めるという合図。


燕秋は白黎を一度だけ見て、小さく頷く。


「……今のは、玄影の下っ端の手じゃない」

「下っ端なら、もっと騒がしくなる。……静けさで縛るのは、慣れた手だ」


白黎は喉の奥に沈んだ言葉を押さえたまま、短く言う。短くしないと、追ってしまう。


「必要なだけ、奪う目でした」

「怒ってもいない。……怖がらせることすら、仕事みたいでした」


燕秋は視線を遠くへ投げる。街道がある。人がいる。噂が走る。

噂は育つ。育って刃になる。刃になれば、別の誰かが斬る。


「白黎の符袋が狙われたのと、同じ匂いがする」


白黎は腰の符袋へ触れる。温かい。温かいのに遠い。

触っているのに、触っていないみたいな距離。


燕秋は集落を一度だけ見回した。助ける手順を探す目だ。派手に動く手順ではない。


「追えば、楽だ」


独り言みたいな声だった。


「ここで斬れば、噂になる。境目も作れる。村は助かったって形になる」

「……でも、それをやると、白黎が壊れる」


燕秋は白黎を見ない。見ないで言うのが、逃がす言い方だった。責めない、押さえない、ただ決める。


「だから、追わない」


短い聞く合図の吐息。


白黎の胸の奥で、何かが静かに落ちた。


削れていく冷えは消えない。けれど、燕秋が先に追わないを選ぶ。

その選択に寄りかかれるぶんだけ、白黎は自分を壊さずに済む。


追える。斬れる。正しくなれる。

それでも――足は、動かない。


白黎は歪んだ柱から手を離した。


「……ここ、長居しない方がいいですね」

「また来る。……確認に来る」


声は震えていなかった。震える前に、燕秋が止めてくれた。


燕秋が短く頷く。


「助けるなら、目立たないやり方でやる」


「怪我人は運べ。戸を閉めろ。井戸は使え。……生きる手順を戻す」


夕暮れが集落を包み込む。影は長く、均等に伸びていく。

泣き声はない。笑い声もない。

それでも、人は生きている。生きてしまっている。


白黎は、気づかれない程度に息を吸った。


血の匂いは消えていない。土に混ざって残っている。

だがその上から、別の匂いが重なる。


押し流すのではない。消すのでもない。

ただ覆う匂い。――薄くて、柔らかくて、刺さってこない匂い。


白黎が、小さく言う。


「……香だ」


燕秋は集落の奥へ視線を向けた。


「来てるな」


それ以上は言わなかった。名を出すには、まだ早い。

名は刃にもなる。刃になるなら、今はまだ要らない。


白黎は思う。


奪わない力が近づいている。

救うことで境目を作る力が。奪って黙らせるのではなく、抱えて動かす力が。


それが正しいかどうかは分からない。

でも、それはあの衝動とは違う。名を持たず、刃にもならない選択だと、身体だけが先に知っていた。

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