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『冬凪(ふゆなぎ)』  作者: 山田村


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3/3

第3話 一度きりの人生、贅沢なもん勝ち



俺と冬子の生活も、一ヶ月が過ぎようとしていた。甘く穏やかな時間が続いている。このまま歳を取って、この時代で生涯を終えるのも悪くないと、最近では本気でそう思い始めていた。


 冬子はその日も普段通り店を開けて、いつものようにお客さんを待つ。最近変わったことといえば、功ちゃんが謙三さんと連れ立ってやって来るようになったくらいで、特段変わり映えはしない。ただ俺には必ず文句を言って、冬子には泣きながら「こいつに騙されていないか~」と心配している。まったく、忙しい男だ。




「いらっしゃい」と冬子が言うと、「女将、ビール」と謙三さんと功ちゃん……ん?女性?

 どうやら功ちゃんのいい人らしい。「まっちゃん、いる?」と謙三さんが声を上げる。俺はおもむろに裏から出てきて、「謙三さん、いらっしゃい」と言った。「ほら、智子さん、ここは大丈夫な店ですよ」と、謙三さんが連れの女性に伝えていた。どうやら功ちゃんが女将目当てで通っている店ではないことを証明するため、あるいは彼女が品定めに来ているのか、そのあたりは分からない。それより、功ちゃんが酔っていない。ここでこんな姿は初めて見た。


 話によれば、お見合いをして、店の事務全般をしてくれるお嫁さんらしい。原因は俺らしいが、謙三さんの奥さんに泣きついて紹介してもらったとのことだ。芯のある、スタイルの良い美人だ。俺も自己紹介をした。「須田耕作です。よろしく」と言うと、「まっちゃん、入籍したのか?」と謙三さんがびっくりする。「はい、この前、晴れて夫婦になりました」「へー、びっくりした。内縁関係で紐だと噂されたけど……」と言うと、「謙三さん、出入り禁止にしますよ」と冬子が言い、「こりゃ失礼しました」といつもの会話が繰り広げられた。


 彼女は才女で、大学を出て音楽を学び、実家の老舗の呉服店で事務方をしていたそうだ。「智子です。出戻りで、背が高くて貰い手がなかったのですが、今回縁があってこちらに嫁ぐことになりました」と何も飾らず話す、クールな人だ。「音楽と言えば、まっちゃんのギター上手いよ」と謙三さんに振られると、「まっちゃんのギター、聞いてみたいです」と智子さんが食いついてきた。「大学で音楽をやった人に聞かせる腕はないよ。俺のは趣味レベルだし」と言ったら、冬子が「耕作、私も聞きたい」と言う。仕方なく奥へ行ってギターを持ってきた。


 軽くチューニングして、散々練習した「エストレリータ/M・ポンセ」を弾いたら、「演奏家になれるよ」と智子さんに言われた。「私、『タンゴ・アン・スカイ』が好きなの。弾ける?」と聞いてきたので、頷いて弾いた。「いやー、満足。ここにこんなオアシスがあるとは思わなかった」と言われたが、「ここは冬子がメインの店です。演奏は冬子の希望で弾くので、あしからず」と言って、今後は冬子次第ということで押し切った。


 閉店後、病みつき鶏むね肉をおつまみに酒を飲んだ。「このレシピ、正解だね」と言う俺に、「そう、初めはお通しにしてたんだけど、別に注文されるのよ」と評判がいい様子だ。「音楽がないのが寂しければラジオでも置く?」と聞いたら、「んー、何もない方がいいの。銀座なら生演奏もあるけど、音楽だけ流すラジオなんてないでしょ」と言っていた。この時代は有線もないし、自分で作る能力もないし、諦めるしかないか。



 二人で映画を見に行った。『太陽の季節』だ。二人より若い客が多かったが、二人で見ることに意義がある。戦争後の話の映画もあったが、それはやめた。町屋や北千住で慎太郎刈りにして奔放に遊ぶ若者たちが増えて、別の世界の住人のように見えた。映画に影響されて同じようなセリフを口にする若者の素直さが少し危うく感じられるが、ブームも落ち着くだろう。今の時代はこれでいい。


 冬子が布団の中で「向こうって、どんな世界?」と聞いてきた。少し沈黙して「何か知りたいことある?」と聞いたら、「別に、ただなんとなく」「アメリカと並ぶ経済大国だけど、ダメなところもある」「へー、豊かになるんだ。すごいね!」と言って抱きついてきた。「耕作、どんだけ女泣かしてきた?」「なんでだよ、それ?」「だって、さっきだって、あんなに……」と最後は聞き取れなかった。




 今週、床屋に行ったら「上を五センチ切って」と言ったのに、慎太郎刈り風に仕上がっていた。まあ短めで手入れが楽だったけれど。帰ったら「慎太郎刈り」と指を指されて、少し照れた。


 夕方になり開店準備をして店を開けたら、孝四郎爺さんが女の子と一緒にやって来た。「いらっしゃい」と中に入れて二人を席に案内する。よく見たら工場で見た子だった。彼女が積極的だったから押し切られたのか、そのあたりは不明だ。冬子が二人をからかっておもちゃにしている。「今日、帰ったらいいことするのね?」とセクハラ連発だった。


 二人は映画デートしてきたらしい。『禁じられた遊び』、あの有名な映画で、子供たちが離れ離れにされてしまう悲しい反戦映画だ。デートには……言わない方がいいな。映画の影響でギターを弾きたいと言い出している。冬子がこちらを見て目で合図している。「耕作に教えてもらったら?」と孝四郎爺さんに言っている。「耕作さん、ギター弾けるんですか?」と俺を見てくる。すごい期待の目だ。「あー、趣味程度ね」と言うと「プロ並みよ!」と冬子が自慢する。奥からギターを取りに行くよう目で催促しているので、準備をして弾き始めた。「白鳥/サン=サーンス」。わーと歓声が上がり、彼女さんも尊敬の目で見ている。この時代は普通に弾ける人が少ないから仕方がないが、お金を稼げる人と比べたら恥ずかしい次第だ。


 話が進んで、孝四郎爺さんに「国産の安いギターを買うから楽器屋に付いてきて」とお願いされた。「貯金を使っていいの?」と言ったら、「あんな演奏ができたら御の字だよ。一度きりの人生、面白がったもん勝ちだ」と返ってきた。まさかこんなことを言うとは。一度きりの人生、面白がったもん勝ち。まさにその通りだ。爺さんに教えてもらった。


 その夜、あの言葉でハッとした。流されて生きてきたから心に刺さったのだ、と冬子に話した。冬子は「空襲で生き残った者は、一度はそう思うよ」と静かに話してくれた。この時代の若者のバイタリティはそんなところから来るのかもしれない。令和を生きてきた俺には分からない感覚だ。



 次の休みに、孝四郎爺さんと彼女、俺と冬子の四人で三河島駅周辺や尾竹橋通り沿いを歩いた。質流れの品を扱う道具屋が並んでいて、誰かが挫折して手放した古いピックギターや、ネックの反ったガットギターが、埃をかぶって店先に並んでいた。修理が必要な楽器が多く、日暮里駅の近くまで足を延ばした。


 中古道具屋(質屋)で弾けそうなギターを物色していると、「これ見せてくれる?」と尋ねた俺に、店員が少し弦を弾いて「これ、すぐ弾けますよ」と渡してきた。俺がギターの反りなどを確かめてから軽くチューニングして弾いてみると、店員が奥に引っ込み、ギターを二本持ってきた。「これ、もっといいやつだよ」と言う。「この人が入門用に買うんだよ」と俺が言うと、「仕事用と思いましたよ。分かりました。それならこちらはどうですか?」と渡されたのが、今、孝四郎爺さんが持っているギターになる。国産の良いギターだ。


 週一で基礎と課題を出して翌週また繰り返す。半年もしたら、それなりの曲が弾けるようになっていった。初めは俺が耳コピして譜面に落としていたが、最近は娯楽雑誌の付録や『歌のアルバム』といった小冊子に、歌詞の横に簡単なメロディ譜と「ギターコード(コードネーム)」が記されているのを参考に、自分で練習するようになった。



 その半年で、もう一つ大きく変わったことがある。冬子の妊娠だ。高齢出産になるのでひどく心配したが、本人は全然平気の様子だった。俺がどぎまぎして数ヶ月を過ごしたが、無事に女の子が生まれ、母子ともに健やかで、ひとまず胸を撫で下ろした。


 それから平穏な子育ての日々が五年過ぎ、娘の夏美も六歳の誕生日を迎えた。母親似の美人で、可愛い盛りだ。俺は紐を続けているわけでもなく、元々やっていた広告の仕事の経験を活かして、その方面を細々とこなしている。



 七五三のお祝いで近くの神社へ行き、帰り道、娘と手を繋いで鳥居をくぐり抜けたら……俺だけ、令和に戻ってしまった。


 俺は焦って後ろの鳥居に引き返したが、当然何も起こらない。あの幸せな時間が、もう戻らない。


 スマホを見た。昭和に飛んだ日から数時間しか経過していない。昭和での七年間が、こちらでは二時間ほどに変換されたらしい。俺は店に向かった。



 電気が点いている。俺は慌てる気持ちを押さえて、一呼吸置いてから引き戸をゆっくりと引いた。


「あー、いらっしゃい。もう少し待っててね」と奥からママの声が聞こえた。


 しかし目の前には、七十代の女性がこちらを見ていた。俺は、


「夏美か?」と短く問いかけた。


「父ちゃん……?」と女性が俺に声をかけ、確かめるように顔を見る。


「七五三で鳥居をくぐり抜けたら、ここに来た」と当時の話をしたら、何かを思い出したように、


「父ちゃんだー!」と泣いて抱きついてきた。


 それを見たママが、何が起こったのか理解できず、その光景をただ傍観していた。



 それから、店の灯りを落として、俺が消えたあとの話を聞いた。夏美から何も聞かされていなかったママは、「そんな大事なこと、何故教えてくれないの」と抗議したが、「春香が子供の時に教えたけどね」と夏美が切り返した。このとき、ママが春香という名前だと初めて知ったが、それは秘密にしておこう。


「これ、お母さんのノート」と言って夏美が見せてくれた。俺は真剣に読んだ。そして最後の一行で、自然と涙が流れた。



  ――あなたがいた時間が、私の一番の贅沢でした。



 ノートをそっと閉じて顔を上げると、夏美がまだ泣いていた。春香はカウンターの奥で、静かに燗をつけていた。


「一杯、飲む?」と春香が聞いた。


 俺は黙って頷いた。


 冬凪の店内に、遠くを走る都電の振動だけが、微かに伝わってきた。



                          (了)


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