第68話 それだけです
「あなたが一人で対処できると思うのは、自信過剰ではないですか」
中央の職員が言った。声は静かだったが、問いの芯はそれなりに鋭かった。
悟は少し間を置いた。
「危険だと思っています」
職員が少し眉を上げた。
「毎日気をつけています。ただ、危険なものも理解すれば対処できます。5年間の記録がその証拠だと思っています」
「理解、と言いますが」
「はい」
「理解というのは、具体的にどういうことですか」
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悟は少し考えた。
「何を食べるか、何を怖がるか、今どういう状態か。それを毎日記録して、わかってきます」
「それだけですか」
「それだけです」
職員がペンを止めた。
部屋が少し静かになった。誰かが書類のページをめくる音がした。
悟は付け加えなかった。付け加えることが思い浮かばなかった。言いたいことは全部言った。飼育員をしていたとき、ベテランの先輩から教わったことも、動物園を辞めたあとに魔物と向き合う中でわかってきたことも、全部ひとつのことに行き着いた。毎日見て、記録して、わかってきます。それ以外の方法を、悟は知らなかった。
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「ただ、5年間で一度も事故がなかったのは、運もあるのではないですか」
別の職員が言った。四十代の男だった。
「運もあると思います」
悟は正直に答えた。
「ただ、準備してきたのも事実です。運だけで5年は続かないと、私は思っています」
「準備というのは」
「来る前に調べること、来たときに落ち着いて観察すること、おかしいと思ったら無理に近づかないこと、です」
職員がメモを取った。
「それだけですか」
「それだけです」
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また「それだけですか」という問いが来た。
悟は少し考えた。「それだけです」という答えを続けることが、この場で有利なのかどうかはわからなかった。もっと体系的に聞こえる言葉があるかもしれない。もっと専門的に聞こえる説明があるかもしれない。
けれども他に言いようがなかった。
「それだけです。ただ、それを毎日続けることは、それほど簡単ではありません」
職員が視線を上げた。
「どういうことですか」
「習慣にしないと続かないということです。記録も、観察も、何もないように見える日にもやる。それが5年分になると、気づくことが増えます」
職員はしばらく悟を見ていた。何かを考えているようだった。
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部屋の奥で、かすかに椅子が動く音がした。
「私は現場を見ました」
安藤の声だった。
全員がそちらを向いた。壁際の席に座ったままの安藤が、メモ帳を閉じて言った。
「神崎さんの言っていることは事実です」
声は淡々としていた。感情的なところはなかった。けれども、静かな会議室の中でその言葉は、はっきりと届いた。
「先月、施設を訪問しました。記録ノートを確認しました。魔物の状態を確認しました。神崎さんがこの場で話されていることは、私が現地で見たこととずれていません」
中央の職員が少し姿勢を変えた。
「安藤さん、それは」
「確認事項の補足です」と安藤が言った。「神崎さんが言っていることが事実かどうか、私は現地で確かめています。私の立場から言えるのはそれだけです」
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白石は安藤の言葉を聞きながら、ほんのわずかに表情が動くのを感じた。
安藤は堅物だった。白石が最初に連絡を取ったとき、返事は最低限だった。書類の不備を指摘するときの言い方も、容赦がなかった。その安藤が、公の会議の場で口を開いた。
それが何を意味するかを、白石はわかっていた。
部屋はしばらく静かだった。中央の職員が手元のファイルを一度見て、また悟の方に視線を戻した。
「他に補足はありますか、神崎さん」
「ありません」
悟は言った。
「全部話しました」
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会議が終わったのは、始まってから一時間半ほど後だった。
廊下に出ると、昼前の光が窓から入っていた。会議室の中より少し明るかった。
「お疲れ様でした」
白石が言った。悟と安藤の両方に向けて言った。
「お疲れ様でした」と安藤が返した。
悟も「お疲れ様でした」と言った。三人がほぼ同時に言ったので、少し間があいた。
白石がバッグの持ち手を直した。安藤が廊下の先を見た。
「あとは待つだけですね」
悟が言った。
安藤が悟を見た。少しだけ間を置いて、答えた。
「そうですね」
それだけだった。安藤は余計なことを言わなかった。「大丈夫です」も「きっとうまくいきます」も言わなかった。ただ「そうですね」と言って、それが全部だった。
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三人は少し歩いてから、エレベーターで一階に降りた。
玄関を出ると、外の空気が会議室よりも少し暖かかった。
「神崎さん、今日はありがとうございました」
白石が言った。
「いえ」
「うまく話せましたか」
「わかりません。ただ、言いたいことは言えました」
白石がうなずいた。それ以上は聞かなかった。
安藤は少し離れたところに立っていた。スマートフォンを見ていたが、悟の方を一度だけ見て、軽くうなずいた。悟もうなずいた。
管理局の建物を出て、悟は少し空を見た。今日も晴れていた。施設では今頃、レグが縁側で待っているだろう。ガッシュが日当たりのよい場所を移動している頃かもしれない。
いつもと変わらない午前中が、向こうにあった。
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(次話へ続く)




