第61話 猶予期間1日目
朝の世話はいつもと同じ順番で始まった。
水の交換、餌の確認、各エリアの見回り。ガッシュが起きているかどうか確認して、ムクの水槽の状態を確認して、リンが昨夜どこで寝ていたかを確認する。それからレグのエリアに入る。
外は曇っていた。昨日と同じ気温だと悟は思った。特別な朝ではなかった。猶予期間の最初の日と言われれば最初の日だったが、起きた時間も、着た服も、手順も何も変わらなかった。
レグは悟が来たのに気づくと立ち上がって、少し背伸びをした。鱗の橙色が朝の光の中で落ち着いた色をしていた。
悟はレグに近づいて、まず状態を確認した。顔、首、胴体、足。いつもの順番だった。
右後ろ足の指のあたりで手が止まった。
爪の根元に乾いた血の跡があった。ごく少量だった。昨夜の巡回では気づかなかった。レグが少し脚を引こうとした。
「ちょっと待って」
悟はそのまま足を保持して、もう一度確認した。傷は浅かった。爪が何かに引っかかって、皮膚をわずかに裂いた程度だと思われた。
レグが不満そうに小さく鳴いた。
「わかってる。もうちょっと」
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処置の道具を取りに戻る前に、スマートフォンに着信があった。久保田だった。
「おはようございます」と久保田が言った。「大丈夫ですか」
「何が?」
少し間があった。
「……猶予期間が始まって」と久保田が言った。「大丈夫かなと思って、連絡しました」
「ああ」
悟はレグのエリアをちらりと見た。レグが座って、こちらを見ていた。
「レグが昨日の夜、足の爪を引っかけてちょっと出血したんです。今日はそっちの方が気になってますね」
電話の向こうで久保田が黙った。
「……そっちですか」
「そっちの方が今必要なことなので」
また少し間があった。
「悟さんらしいですね」と久保田が言った。呆然としているようでもあり、納得しているようでもあった。「じゃあ今日は処置ですね」
「軽傷だとは思います。念のためちゃんと見ます」
「何かあれば連絡してください」
「ありがとうございます」
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電話を切ってから処置の道具を準備した。消毒液、清潔なガーゼ、小型のハサミ。爪の状態によっては少し整える必要があるかもしれなかった。
レグのエリアに戻ると、レグはさっきの場所に座ったままだった。
「もう一度確認するぞ」
レグが耳を後ろに倒した。
悟はゆっくりしゃがんで、右後ろ足を取った。爪の根元の傷を改めて確認した。血は止まっていた。傷口は細く、深くはなかった。爪が引っかかって剥離しかけた跡があったが、爪自体は折れていなかった。
「思ったより悪くない」
悟は消毒液をガーゼに含ませて、傷口を軽く押さえた。レグがびくりとして、脚を引こうとした。
「ちょっとだけ」
もう一方の手でレグの足首を保持したまま、ゆっくり消毒した。レグが鼻先を向けてきた。消毒液の匂いを嗅いでいるらしかった。
「臭いか。仕方ない」
レグが低く鳴いた。不満の表明だと悟は思ったが、暴れなかった。
爪の先端を少し確認した。引っかかりやすくなっている部分があったので、ハサミで丁寧に整えた。レグがまた小さく鳴いた。
「もうちょっとだけ」
一通り終えてから、悟は手を離した。レグが後ろ足を引いて、傷口の方に鼻先を向けた。匂いを嗅いで、それからゆっくり顔を上げた。
「よし、大丈夫」
悟はレグの頭を軽く叩いた。レグが耳を少し後ろに倒したまま、ちょんと動いた。
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昼過ぎまでは問題なく世話が進んだ。
処置したレグの足の状態を午前中に二度確認した。どちらも問題なかった。レグは処置の後もいつもどおり動いていた。少し足をかばっている様子が最初はあったが、昼には普通に歩いていた。
午後の見回りのとき、悟はメモをつけた。爪の状態、傷の深さ、処置の内容、今後確認すべき点。いつもの記録と同じだった。
猶予期間の1日目というのを特に意識することはなかった。
今日の優先事項は処置だった。それは済んだ。
猶予期間がどうなるかは3か月後にわかる。今日わかることではなかった。
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夕方、レグのエリアの掃除をしながら、スマートフォンを確認した。久保田から短いメッセージが来ていた。
「爪の方は落ち着きましたか」
「落ち着きました」と返信した。
「よかった。悟さんらしい一日でした」
悟は少し考えてから「そういうもんです」と返した。
レグが掃除の邪魔をするように悟の足元に寄ってきた。足で払おうとしたが、レグは動かなかった。
「邪魔」
レグが視線だけ上げた。
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数日後の夜、悟がレグの夕方の見回りをしている時間に、スマートフォンに通知が届いた。
安藤という名前の送信者からメールが来ていた。管理局の調査員として来訪したときの連絡先が残っていた。
件名はなかった。本文は短かった。
「以前お伺いした神崎様の施設について、もう一度伺ってもいいでしょうか。調査ではなく、個人として」
悟はしばらく画面を見ていた。
レグがそばに来て、悟の手元を鼻先で確認した。スマートフォンの光を嗅いで、すぐに興味をなくした。
悟は返信を打った。
「どうぞ」
送信してから、スマートフォンを上着のポケットに戻した。レグがまだそばにいた。
施設の奥からガッシュが草を食む音がした。夜になると必ずあの場所に落ち着いて草を食べる。今日も変わらなかった。




