第59話 野島先生の意見書
電話をかけたのは翌朝だった。
世話の一周りを終えて、事務スペースに戻ったところだった。レグが悟の後について来て、椅子の横に座った。悟がスマートフォンを取り出すと、レグが膝の上に頭を乗せた。
「ちょっと待って」
レグが動かなかった。悟は体をわずかにずらして、なんとか操作できる角度にした。野島の番号を呼び出した。
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二回で繋がった。
「おお、神崎さん」と野島の声がした。いつもよりテンションが高かった。「ちょうどよかった。こっちからも電話しようと思ってたんですよ」
「そうですか」
「管理局の審査が進んでるって聞きました。3か月の猶予期間が出るって話、本当ですか」
「まだ正式な通知は来ていないんですが、そういう方向だとは聞いています」
「だったら先に言っておきたかったんですよ」と野島が続けた。「私は意見書を提出しようと思っています。学術的な観点から、施設の価値を説明する文書です」
悟は少し間を置いた。
「意見書、ですか」
「そうです。審査機関が受け付けるかどうかは向こうの判断ですが、提出はできます。何もしないよりはいい」
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レグがまた動いた。今度は膝の上にしっかり乗ってきた。悟が「ちょっと」と言ったが、レグは動じなかった。悟は片手でレグの背を押さえながら、スマートフォンを反対の耳に当て直した。
「野島先生、ありがとうございます。ただ、そこまでしてもらわなくても」
「いや、させてください」と野島がはっきり言った。「聞いてください。あの施設の記録ノートの話です」
「ノート」
「ええ。私が初めて見たとき、正直驚きました。魔物の長期飼育観察記録が、民間施設で、あれだけきちんと蓄積されている例は、国内に前例がありません」
野島の声が少し上がっていた。熱が入ってくると早口になる人だった。
「前例がない、というのは」
「そういうことです。ないんですよ、本当に。公的な研究機関でもあそこまで継続的な記録はなかなか出てこない。神崎さんの施設では何年分ありますか」
「施設を始めてから5年と少しです」
「5年分の継続記録が個体ごとにある。研究上の価値は計り知れない」
「そんなに珍しいものですか」
「珍しい、という言葉では足りない。神崎さん、ダンジョンが現れてからまだ5年ですよ。魔物の研究というのは、まだ本当に緒についたばかりなんです。あのノートに書かれている期間の積み重ねは、研究者がなかなか作ることのできないものです」
「でも私は研究者じゃないですし、ただ世話をしているだけで」
「だから価値があるんですよ」と野島が言った。少し声が大きくなった。「研究者が書く記録は、どうしても観察対象を意識した書き方になる。神崎さんの記録はそうじゃない。毎日の世話として書いてある。その自然さが、データとして読んだときに非常に信頼できる」
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悟はレグの背をなでながら聞いていた。レグが目を細めた。
「そういうもんですか」
「そういうもんです」と野島が言った。語気が強かった。「神崎さんは普通のことをしていると思っているかもしれないですが、外から見るとあのノートは宝です。本当に」
「宝、ですか」
「少なくとも私にはそう見えます。飼育環境の変化に対する個体の反応、体調の波、行動パターンの変移。どれも長期データがないと見えてこない。あのノートにはそれが全部ある」
悟は少し考えた。日々の記録を取るのは動物園にいたときからの習慣で、特別なことをしているつもりはなかった。
「役に立つなら何よりですが」
「役に立つどころじゃないんですが、まあ本人にそう言われると説明しにくいですね」
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野島がひとつ咳払いをした。声のトーンが少し落ち着いた。
「それで」と野島が言った。「一つお願いがあります」
「何でしょう」
「あのノート、いつか論文に引用させてもらえますか。全部じゃなくていい。特に重要な部分を、許可をいただいた上で使いたいんです」
悟は少し考えた。
「構いませんよ、役に立つなら」
電話の向こうで野島が少し笑った気配があった。
「役に立つどころじゃないんですけど……まあいいです」
苦笑いをしているのが声でわかった。
「ありがとうございます。意見書はこちらで書きます。出す先と形式は私の方で確認します」
「よろしくお願いします」
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電話を切った。
悟はスマートフォンをテーブルに置いた。レグがまだ膝の上にいた。さっきより深く収まっていた。
「邪魔だったぞ」と悟は言った。
レグが悟を見上げた。何も悪くないという顔だった。
悟は苦笑いして、レグの頭を撫でた。温かかった。橙色の鱗が朝の光の中で少し光った。
野島が宝と言った記録ノートは、棚に並んでいた。背が揃っていた。施設を始めた最初の年のものから、今年のものまで。毎日書くのは当たり前だったので、積み重なっていることをあまり意識したことがなかった。
悟は棚を少し眺めた。野島の言葉を思い返してみたが、やはりよくわからなかった。ただ、野島が本気で言っているのはわかった。
「ありがとう」
独り言だったが、レグが目を細めた。そういう声が好きなのかもしれなかった。
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その翌週、管理局から郵便が届いた。
差出人は「東楠市魔物管理局 施設管理部」だった。悟は封書を手に取って、開けた。
A4の紙が一枚。本文は短かった。「3か月の猶予期間中に認可審査を実施いたします」という書き出しで始まっていた。
悟は一度読んで、もう一度読んだ。
それからテーブルに置いて、少し間を置いた。
「来ましたね」
独り言だった。レグが縁側の方から顔を向けた。




