第57話 管理局の中
ムクの水槽の水温を確認していたとき、スマートフォンが鳴った。
白石からだった。
「少し話せますか」と白石が言った。
「どうぞ」と悟は答えた。
片手にスポンジを持ったまま、水槽の縁に手をかけた。ムクが水槽の奥の方で揺れていた。今日は機嫌が読みにくい日だった。
「管理局内で意見が割れています」と白石が言った。「認可を進める案と、閉鎖を求める案が並立している状態です」
「閉鎖を求める側の理由は?」
「法的根拠の曖昧さ、リスク管理の不透明さ、それから前例のない施設形態への懸念です」
悟がスポンジを水槽の内壁に当てた。水が少し揺れた。ムクがこちらに近づいてきた。
「それは理解できる意見ですね」と悟は言った。
電話の向こうで間があった。
「……そうですか」と白石は言った。
「正式な根拠なしでやってきたのは確かだし、前例がないのも確かなので。言っている内容はわかります」
「そうですね」
白石の声は平静だった。ただ短い間に、何か悟の言い方を受け止めているような時間があった。
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ムクが水槽の縁に近づいてきた。悟がスポンジを動かすと、ムクが水の中でいつもの動きを始めた。
「認可派の根拠は何ですか」と悟は聞いた。
「実績と、アームドボア対応の成果です」と白石は言った。「それと……私の報告書と、安藤さんの報告書」
ムクが水槽の中で体を翻した。水がはねた。
「っ」
悟の袖が濡れた。水が肘まで上がってきた。
「神崎さん?」
「大丈夫です、水槽掃除中で」と悟は答えた。スマートフォンを頰に押しつけながら、袖をまくった。「続けてください」
「……本当に大丈夫ですか」
「ムクが暴れただけです」
白石が少し黙った。何かを言いかけたが、言わなかった。
「報告書の話でしたね」と悟は言った。
「はい。私の報告書と安藤さんの報告書が、認可派の資料として使われています。安藤さんは先週、自分の調査まとめを提出したようです」
「そうですか」
「正確に書くと言っていましたから」
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ムクがまた体を揺らした。今度は水槽の底の方に沈んで、上がってきた。水面がわずかに盛り上がって、悟の腕に水がかかった。
悟は特に何も言わなかった。
「白石さんと安藤さんが動いてくれているなら」と悟は言った。「俺は信頼していいですね」
電話の向こうでまた間があった。今度は少し長い間だった。
「……はい」と白石は言った。声が少し低くなっていた。「尽くします」
「ありがとうございます」
「結果は約束できないですが」
「それは構いません」
ムクが水槽の縁まで近づいてきた。体の触手がガラスにあたって、ぺたぺたと音を立てた。悟がスポンジで近くの壁を拭くと、ムクが少しだけ離れた。それからまた近づいてきた。
「決定は早ければ来月です」と白石は言った。「もう少し長引く可能性もある」
「わかりました。それまで通常通りやってます」
「何か変わったことがあれば連絡してください」
「はい。白石さんも、何かあれば」
「連絡します」
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電話が切れた。
悟はスマートフォンをポケットにしまおうとして、濡れた袖で持ち直した。ポケットの入り口も湿っていた。
水槽の中でムクが揺れていた。
悟は自分の状態を確認した。袖が肘まで濡れていた。ズボンの膝のあたりにも水がはねていた。胸元も少し濡れていた。
「水槽掃除中に電話するのが悪いんですけどね」
独り言を言った。ムクは平然としていた。特に気にしていない様子だった。
悟はスポンジを手に取り直して、掃除の続きをした。ムクがまた近づいてきた。今度は体をあまり揺らさなかった。水がはねなかった。
気まぐれだな、と悟は思った。
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翌日の朝、スマートフォンに着信があった。
久保田からだった。
悟が折り返すと、久保田はすぐに出た。
「神崎さん、白石さんから少し話を聞きました」と久保田は言った。「俺にできることをやりたいんですけど、何かありますか」
悟はしばらく考えた。
「久保田さんにできること、か」
「何でも言ってください。動きます」
悟は答える前に、施設の中を見た。
ガッシュがエリアの奥にいた。朝の落ち着いた時間だった。リンが棚の上で羽を畳んでいた。ムクの水槽からはフィルターの音が規則的に聞こえていた。
「閉鎖派がいるって、本当ですか」と久保田が続けた。声が少し低くなっていた。「白石さんから聞いてはいたんですが、実際のところ」
「そうですね。管理局の中で意見が割れているのは事実です」
「やばいじゃないですか、それ」
「やばいかどうかは、わからないです。反対意見があることは自然なので」
「自然……」と久保田が繰り返した。「神崎さん、よく落ち着いていられますね」
「俺が焦っても何も変わらないので」
電話の向こうで久保田が息をついた。
「俺、探索者組合を通して施設の実績書類を集めようと思っています。この施設を使った探索者の証言とか、怪我した魔物の回復記録とか。そういうの、手続き踏めば集められると田中さんに言われて」
悟は少し考えた。田中というのは組合の職員だった。前に何度かやりとりがある。
「それは助かります」
「人手もあるんで、俺一人じゃないですし。時間はかかるかもしれないですが、やります」
「ありがとうございます」
「神崎さんに何かできることがあれば言ってください。本当に」
「今のところは大丈夫です」と悟は言った。「久保田さんが動いてくれているのが、すでに助かっています」
電話を切ってから、悟はしばらく施設の中を眺めた。
白石と安藤の報告書。久保田が動き始めた実績書類。それぞれが別々のところから動いている。悟自身は毎日の世話をしているだけだった。
ガッシュが方向を変えて、エリアの端まで歩いた。立ち止まって、悟の方をちらりと見た。それから再び奥に向かった。
悟は手を動かして、朝の作業の続きをした。




