第56話 白石さんの申し出
安藤がノートを閉じたのは、それから三十分ほど経ってからだった。
机の上に二冊を揃えて置いて、椅子から立ち上がった。コートを手に取って、棚の方を見た。それから視線を離して、帰り支度を始めた。
白石が前に出た。
「神崎さん」と白石が言った。「このノートを認可書類に使わせてほしいんですが」
悟が顔を向けた。
「使える書類になりますか」
「なります」と白石は言った。迷いがなかった。「現場での実績記録として、これ以上のものはない」
悟が少し考える様子を見せた。それから言った。
「どうぞ。コピーでいいですか」
「はい、コピーで構いません。必要な分を後日確認して、範囲を相談させてください」
「わかりました」
それだけで話が決まった。悟には特別な様子がなかった。白石も淡々としていた。ただ白石の声に、ごく薄く何か確信のようなものがあった。
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「……あの」
安藤が声を出した。
白石と悟が同時に顔を向けた。安藤はコートを手に持ったまま、少しだけ姿勢が固かった。
「私の調査報告書にも」と安藤は言った。「この施設の現状を正確に書きます」
白石が何かを言う前に、悟が言った。
「ありがとうございます」
「礼を言われるのは早いです」と安藤が言った。「まだ何も決まっていない」
言いながら、少し顔が赤くなっていた。白石は気づいたが、何も言わなかった。
「そうですね」と悟は言った。「でもありがとうございます」
「……だから早いと言っている」
安藤が視線を逸らした。コートを着始めた。動作が少しぎこちなかった。
白石はそのまま正面を向いていた。特に表情を変えなかったが、目に何かが浮かんでいた。
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安藤が帰り支度を整えて、出口の方に歩いた。途中でガッシュがエリアの縁近くをうろうろしていた。安藤が歩くと、ガッシュがついてくるような位置に動いた。
「もうちょっと離れてくれませんか」と安藤が言った。困惑した声だった。
ガッシュはぶーぶーと鳴いた。離れなかった。
「気になっているんじゃないですか」と悟は言った。「今日ずっとそばにいたので」
安藤がガッシュを見た。ガッシュが鼻を動かした。安藤は何かを言いかけて、やめた。少し回り込んで歩いた。ガッシュがついてきた。
「……なぜついてくるんですか」
「さあ」と悟は言った。「嫌いではないんじゃないですか、安藤さんのことが」
安藤が何も言わなかった。ガッシュがぶーぶーと鳴いた。安藤がまた少し歩くと、今度はガッシュが止まった。柵の端まで来て、それ以上進めない場所だった。
扉の前で立ち止まった。悟の方を振り返った。
「……あの施設の子たちは」と安藤は言った。「全員、名前があるんですか」
悟が少し考えた。
「ほとんどはありますよ」と悟は答えた。「最初から名前がついていないのもいますけど、一緒にいるうちにつけることが多いです」
「そうですか」
安藤がそれだけ言って、扉を開けた。ガッシュがまたぶーぶーと鳴いた。安藤は振り返らなかった。
「失礼します」
出ていった。
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足音が遠ざかった。
白石が出口の方を見た。それから悟の方を見た。
「安藤さん、最後まで顔が赤かったですね」と白石は言った。
「そうでしたか」と悟は言った。気づいていなかったわけではなさそうだったが、特にそれ以上のことは言わなかった。
「正確に書くって言ってくれましたよ」と白石は言った。
「白石さんが連れてきてくれたからだと思いますよ」
「私は場所を設定しただけです」
「それが大事なんじゃないですか」
白石が少し黙った。悟は施設の中に視線を戻していた。
「コピーの件、日程を改めて連絡します」と白石は言った。
「はい。いつでも来てください」と悟は言った。「どうぞ」
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白石も帰った後、悟は施設に戻った。
レグがエリアの隅で横になっていた。食後の時間だった。悟が近づくと、目だけ開けてすぐに閉じた。
棚のノートはそのままだった。安藤が手に取った二冊が、机の上に戻されていた。
悟はその二冊を棚に戻した。元の場所に、特に変わりなく。
白石が「これ以上のものはない」と言った。そうかもしれない、と悟は思った。ただ悟自身は、それを特別なものとして意識して続けてきたわけではなかった。毎日やっていることが積み重なっただけだった。
安藤が「正確に書く」と言った。それで十分だと思った。
ガッシュがエリアの方でぶーぶーと鳴いた。もう飯の時間だということらしかった。
悟は準備を始めた。
しばらくして、湯を沸かしてお茶を淹れた。ガッシュとムクとレグに餌をやって、一通り様子を見て回ってから、テーブルに座った。
静かだった。
「なんか、みんないろいろ動いてますね」と悟は言った。
独り言だった。レグがエリアの隅で耳を立てた。悟の方を一度見てから、また横になった。
白石が動いて、安藤が動いた。自分は毎日やっていることをやっているだけだったが、それが何かに繋がっているらしかった。
そうかもしれない、とまた思った。
お茶を一口飲んだ。少し冷めていた。ガッシュがまたぶーぶーと鳴いた。もう終わっただろうと悟は思ったが、何か言いたいことがあるのかもしれない。
もう一口飲んでから、悟は立ち上がった。




