第55話 ノートの棚
「これ全部……?」
安藤の声が少し低くなった。
棚の前に立って、上から下まで視線を動かした。ノートが整然と並んでいた。背表紙に日付と魔物の名前が書かれているらしく、規則正しく並んでいる。一冊ずつは特別大きくないが、数は多い。
「記録ノートです」と悟は言った。「魔物ごとに。日付、体調、食事、行動、気温、その他気になったことを特記事項として」
「毎日つけているんですか」
「毎日つけてますから」
「開業してから?」
「開業してからです」
安藤がもう一度棚全体を見た。計算しているような間があった。
「5年分ですか」と安藤は言った。「これだけの数が」
「ほかにすることがないので」と悟は答えた。
白石が壁際に立ったまま、安藤の方を見ていた。何も言わなかった。
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安藤が一冊手に取った。背表紙を確かめてから、表紙を開いた。
最初のページには日付と、その日の気温と、魔物の名前と状態が短く書かれていた。文字は丁寧ではないが読みにくくもない。淡々とした書き方だった。
ページをめくった。同じ形式が続いた。記録の密度は変わらない。日付だけが進んでいく。
どのページも、特別なことが書いてある日とそうでない日があった。「異常なし」という一文だけのページも多かった。しかしそのページにも日付と気温だけは必ず入っていた。抜けがなかった。
「ガッシュ、2021年4月12日」と安藤は棚の一冊の背表紙を読んだ。「……このノートはガッシュだけですか」
「そのノートはガッシュの一冊目です。今は三冊目だったかな」
安藤が手にしたノートをゆっくり閉じた。また棚を見た。背表紙の日付を順に確認しているようだった。
「魔物ごとに複数冊」
「年数が経つとそうなります」
「整理もされている」
「使いにくかったら困るので」と悟は言った。
「……」
安藤がもう少し棚を眺めた。別の一冊を手に取った。ムクのノートだった。開いた。またページをめくった。
「体調欄に詳細が書いてありますね」と安藤が言った。「食欲の変化、動き、水温の好み……」
「変化があったときは少し細かく書いてます。何もないときは一行で終わりますけど」
「何もないときも書いている」
「書いてます」
安藤がページをめくる手を止めた。
「なぜですか」と安藤は言った。
「なぜ、というと」
「何もないのに記録する理由は何ですか」
悟が少し考えた。
「後から見返したとき、何もない日が続いていると安心するので」
「安心」
「ええ」
「体調が崩れるとき、たいてい前の日に何かある。食事量が少し落ちるとか、いつもと違う場所にいるとか。何でもないように見えて、後から振り返ると前兆がある。だから何もない日が積み重なっていると、今が普通だとわかる」
安藤が何も言わなかった。視線はノートに落ちたままだった。
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白石が棚の方を見た。
安藤がノートを持ったまま動いていない。ページをめくっていない。ただそこに立って、手の中のノートを見ていた。
ページには今日の日付より何年も前の記録が続いていた。文字の形が年によって少しずつ変わっている。同じ人間が書いていても、毎日書き続けていれば変わる部分がある。それでも記録の形は変わっていない。
何かが変わり始めているような間だった。白石は何も言わなかった。
少しして、安藤が顔を上げた。
「見せていただいていいですか」と安藤は言った。声が最初よりも少しだけ平板だった。何かを整理しているときの声だった。
「どうぞ」と悟は言った。
安藤がうなずいて、テーブルの方に移った。ノートを二冊持って、椅子に座った。もう一度棚を振り返った。それから視線を手元に落とした。
白石が悟の方を見た。
悟はすでに次の仕事に気持ちが移っていた。安藤がノートを読んでいる。それで十分だと思っていた。
レグが安藤の足元に近づいた。くるくると回って、安藤の靴の近くで止まった。安藤はノートを読んでいて気づいていなかった。悟は特に何も言わなかった。レグが邪魔しているわけではなかった。
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しばらく時間が経った。
安藤はノートを読み込んでいた。ページをめくる音だけが静かに続いた。何かを確認するというよりも、流れを追っているような読み方だった。
白石が悟のそばに来て、小声で言った。
「出てもいいですよ」
「じゃあムクに飯やってきます」と悟は言った。
普通の声だった。安藤がちらりと顔を上げたが、何も言わなかった。
悟がムクのエリアに向かった。白石は安藤の様子を視界の端に収めながら、壁際に戻った。
安藤はまたノートを読んでいた。
ページをめくる音が、また静かに続いた。
白石がちらりと安藤の方を見た。ノートを繰る手がゆっくりになっていた。読み飛ばすのではなく、一行ずつ目を通しているような速さだった。
少し後、安藤が顔を上げた。
「白石さん」と安藤は言った。声が静かだった。
「はい」
「この記録を認可の書類に使えませんか」
白石が少し間を置いた。
「私も同じことを考えていました」と白石は言った。少し間を置いてから続けた。「神崎さんに聞いてみます」
ムクの餌やりから戻った悟に、白石が声をかけた。悟は少し間を置いてから、「それで使えるなら」と言った。何かを決意したような顔はしていなかった。ただ、ムクに視線をやりながら、「構いません」と続けた。




